日記録14周年企画, 2杯, 日常,

2017年3月5日(日) 緑茶カウント:2杯

去年の夏頃だっただろうか。手軽に野菜を食べたい欲求を満たすため、ピクルス作りを始めたのは。なるべくまた板も包丁も出したくない、だけど新鮮な野菜を食べたい。ではどうすれば良かろうか、と考えた末辿り着いたのが保存の利くピクルスだった。ピクルスならまとめて作ってしまえば、あとはビンから出して皿に並べるだけ。楽である。

それから毎週のようにピクルスを作る日々。ところがレシピをもとに作ってみるものの、日数の経過とともに酸味が強くなりすぎて食べるのが苦痛になったり、味が好みでなかったりとなかなか難しい。個人的にディルの利いているピクルスは好みでなく、甘すぎるのも好きではない。サッパリとした酸味の利いたピクルスが理想だ。

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ああでもないこうでもないといろいろなスパイスを試した。ブラックペッパー、鷹の爪、吉野産ぶどう山椒、セロリの種子、ピクリングスパイス、マスタードシード、コリアンダーシード、タラゴン。これらの多くはピクルスのために買ったものだ。しかしなかなか難しく、ピンとくる味に近付いたと思うもののまだ遠い。何かが違う、と思う日々が過ぎた。

そうしてピクルス作りを始めて早数ヶ月。やっと追い求めていた理想の味を構成するレシピに辿り着いた。それがこの三つである。

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ブラックペッパー、鷹の爪、にんにく、以上。シンプルである。すごくシンプルである。正直この三つで良いのであれば自前の品で事足りた。己は随分と回り道をしたらしい。どうすんだあの吉野産ぶどう山椒にマスタードシード。使うあてが全くないぞ。

まぁ、なんだ。紆余曲折あったものの、ようやくまな板も包丁も使わずビンから取り出すだけで野菜を食べられる生活を手に入れた。そんなわけでその理想の味をここに書き記しておこう。

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■ピクルス液のレシピ
穀物酢(ミツカン) …200ml
水 …180ml
砂糖 …大さじ2
塩 …小さじ2
鷹の爪 …1つ
にんにく …1欠片
ブラックペッパー …10粒くらい

(1)小鍋に上記の材料を全部入れて火をつけて、一煮立ちしたら火を止めて荒熱をとる。
(2)保存容器に切った野菜を入れる。
(3)野菜の入った保存容器にピクルス液を注ぐ。
(4)そのまま冷蔵庫へ。一晩経ったらできあがり。

使っている容器は無印良品のソーダガラス密閉ビン1000ml。今回詰め込んだ野菜はきゅうり3本、セロリ1本、赤パプリカ1つ、黄パプリカ1つ、ヤングコーン6本、うずらの水煮いくつか。うずらは今回初めて入れたので美味しいかどうかはわからないが、卵のピクルスもあるそうなので多分悪いことはないだろう。ほか、人参やブロッコリーも美味しい。

ちなみにこのピクルス、満員電車もかくやとばかりにぎゅんぎゅんに詰め込んでいるので、ゆったり入れると上記の材料は入りきらない。テトリスを遊ぶが如くぎゅんぎゅんに詰めて欲しい。ぎゅんぎゅんに。

日持ちは五日程度かな。早めに食べきるのがよろしかろうと思う。さぁ、君も手軽なピクルスライフを手に入れようぜ。楽だよ!

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■参考にしたレシピ
消費、保存、常備に 夏野菜の簡単ピクルス
おつまみにもいける常備菜。ブロッコリーのピクルス



日記録4杯, 日常

2017年2月26日(日) 緑茶カウント:4杯

中学の頃仲が良かったがその後疎遠になり、何となく、あまり好かれていないのではなかろうか、と思っていた友人がいた。ふとしたときに別の友人からの伝聞でその人の話を聞くたびに、自分は中学当時の友人への接し方を思い起こしていた。ふざけ合うことが多かったが友人の優しさに甘えて調子に乗りすぎていたのではなかろうか。もしかしたら嫌だったけど黙ってくれていたのかもしれない。そう思うたびにじわりと胸中に黒いしみが滲む心地がした。

よって今日その友人に会うとき、若干の不安と憂鬱を抱えていた。十年ぶりの再会か。はたまた十五年ぶりだろうか。その記憶も定かではないが、目の前の友人はパッと笑顔を輝かせ、己の名前を呼んでくれ、連絡先を交換しようと言ってくれ、一緒に写真を撮り、今度呑みに行く約束をした。

当時の調子を思い出そうとするように、敬語交じりの会話から探り探り昔の調子を掘り起こし、冗談を飛ばして近況報告をし、趣味の話で盛り上がり、「お前はそういう奴だったよ」と笑われ、あぁ、確かに自分はふざけていたし調子にも乗っていたが、嫌われてはいなかったんだ、と知った。

帰り道、連絡先が一件増えた携帯電話のアドレス帳を見て、じわじわと嬉しい。

もしかしたら「こいつ鬱陶しいな」と実際思われていたかもしれない。長い年月が細部を風化させてくれた結果なのかもしれない。そのことは忘れないようにしよう。ただまた繋がった事実もある。それも大切にしよう。

今も嬉しい。じわじわと。噛み締めるように喜んでいる。



日記録0杯, 日常

2017年2月17日(金) 緑茶カウント:0杯

仲の良い友人から連絡があった。旅行をしていて、とある縁の地にいると。その縁のものを己がとても好いていることを覚えてくれていて、わざわざ電話をくれたのだ。「ウヲが大好きだったなって思ってさ。お土産買って送るよ! 何色が良い?」と友は言う。ありがたいなぁと思いつつ「ありがとう。それじゃあ青か紺を頼むよ」と返事してとりとめのないやりとり。そうして数日後、届いたのは青とも紺とも程遠いピンク色の品物だった。

それを見た瞬間はあまりの意外さに驚き疑問符ばかりが浮かんだが、はたと気付いて笑い、またずっこけそうになった。友人は「色が全然わからん!」と公言している色覚異常の持ち主なのだ。その彼が色のリクエストを聞き、全く違った色の品物を贈ってきたのである。しかも極めつけはこの品物、よく見ればラベルに「カラー:ピンク色」と明記されていやがるのだ。わからないのに聞くし、わからないのに確認しない自由さ! あぁ、もうこいつのこういうところ、最高に大好きだ! ピンクの品物を手に、腹を抱えて己は笑った。

学生時代、友人の視界の話を聞くのが好きだった。彼の目に見える世界では夏に葉っぱは赤く色づき、秋は緑に変化すると言う。水族館の水槽は電源を消したテレビのように真っ暗で、中の魚など見えやしない。修学旅行で学友が魚に興奮する中でいったい何が面白いのだろうかと思っていたが、何年も経った後に非常に高価な色覚補正眼鏡をかけてようやく水槽の中身が見えたとき、やっと学友の興奮がわかったと語っていた。そのときの彼の嬉しそうな表情と、描写される水槽の美しさ。中で泳ぐ魚の動線まで見える心地がした。

彼は色を認識しづらいためにたまに突拍子もない色合いの服を着ていて、ギョッとさせられることもしばしばだった。しかし上背があり、ハンサムなので不思議と似合うのだからすごい。周囲から「その上着、蛍光ピンクと蛍光オレンジが混ざったような色だぞ」とつっこまれて「まじでー」と朗らかに笑う。彼は面白おかしく自身の視界を語ってくれて、我々もそれを聞いては「なるほど」「へえ」「そうなんだなぁ」と楽しく感想を漏らしていた。そして彼の認識できる色とできない色をさまざま尋ね、彼の視界を想像したのである。

もう一人、別のタイプの色覚異常の友人がいる。彼とは小学校からの付き合いで、大学卒業後も頻繁に遊びに行く間柄だった。しかしあるとき話を聞いてびっくりした。彼の目に己は黒尽くめの装いとして映っていたのである。実際は紺や濃い緑などを好んで着ていたのだが黒として認識されていたらしく、「こいついつも真っ黒だな」と思われていたそうだ。十年以上全身真っ黒と思われていた衝撃に笑ったあの日。こんなことってあるんだなぁ、と思うとおかしかった。

同じように彼らも己の話に対して「はー」「なるほど」「へえ」「そうなんだなぁ」「まじかー」と思っているかもしれない、と考えるのも楽しい。そしてまた、ピンクの品物を見るたびに己はそれを思うのだろう。あぁこのピンク、どこで使えば良いのやら。可愛らしいなぁ、と一人笑い仕舞いこむ。思い出したらまた眺めてみよう。きっと楽しい気分になるから。



日記録0杯, 日常

2017年2月14日(火) 緑茶カウント:0杯

青空の下、空を仰いで眠る人がいた。

風がなく、普段よりも気温の高い冬の昼。ある一つのビルの敷地内で見かける老人は、防寒着に体を包み、両手に杖をついて一歩一歩ゆっくり歩いていた。傍らには車椅子。怪我をしたのか、病気をしたのか、由縁はわからない。風の吹く日も雪の降りそうな日も慎重に歩を進める老人を視界に捉える日々。彼はいつも歩いていた。

その彼が車椅子に背を預け、日だまりの中で眠っていた。ポカポカとあたたかい日だった。ビジネス街のただ中で天を仰いで眠る姿は現実味がなく、穏やかに見えた。

ある日の夜、真っ暗闇を歩いていると街頭の下、道の端の段差に腰掛ける人がいた。背を丸め片足を投げ出す様子から編み上げ靴の紐を結んでいるのだろうと思った。その足首は掴めるほどで、日が出てもいないのに鈍色に光って見えた。義足の調子を整えていたらしい。彼はさくさくと手を動かしていて、一分後には裾を下ろして立ち上がりそうな気楽さが漂っていた。それこそ、切れた靴紐を取り替えるような。

何もない冬の日に見た平らかな景色である。その空気の色を、あぁ、好きだな、と思った。心地良い色だった。



日記録0杯, 日常

2017年2月6日(月) 緑茶カウント:0杯

お酒を呑んでいる。ビールを二本に、多分これから赤ワインを一本。そうしてゆらゆらと脳を揺らしながら、まったりと誕生日を祝っている。

今日はオーケンこと大槻ケンヂの五十一歳の誕生日。おおよそ二十歳年上の、憧れであり、血肉であり、己の骨となってくれた人の誕生日。きっと自分はオーケンを知らなくても生きていくことは出来ただろう。その道もまた良いものだったかもしれない。しかし今この道を生きる自分にとって、オーケンという存在を知ることが出来たのは幸福に他ならず、あぁ、出会えて良かった、としみじみするのである。

あなたのおかげでたくさんのものを得られました。心の持ちようも覚えました。それはきっと、もしかしたらあなた以外の別の人から別の方法で学ぶこともあったかもしれない。だけれども、この道で良かったと思える今が幸せなのです。

ハッピーバースデーオーケン。来年も再来年も、どうかいつまでも健康に。