2017年12月24日(日) 緑茶カウント:4杯
劇場版仮面ライダーの感想を書いたところ、思いのほか多くの人に読んでもらえたという嬉しい出来事があった。感想を書いたのは二週間近く前だったのでまさに青天の霹靂である。アクセスが急増していることに気付いたときには炎上していたらどうしよう、何かまずいことを書いたかしらん、とヒヤヒヤしたが、ちょこちょこ反応を見て回ってみると好意的に受け取っていただけているようで安心した。何より嬉しかったのは、「こんな感想を書くファンがいるなんて、大槻ケンヂさんって素敵な人なんですね」というコメントを拍手とメールで複数いただいたこと。そのように感じ取って受け取っていただけるって、何てありがたいことだろう。嬉しくて嬉しくてニコニコしてしまった。
その中で抱いた小さな違和感と、その正体に気付いた話。驚いたのだが、己が書いた感想に対し「まっすぐ偏見なく受け止めてくれて嬉しい」といったコメントをちらほら見て、それがどうにも不思議だった。仮面ライダーは世間にも認知されていて、ものすごくメジャーな作品なのに、それを愛する人々は何故だろう。全員ではないが、どこか日陰者の感覚を持っているようにも見えた。それは自分にとってとても近しい感覚で、だからこそ、何故こんなに有名で、人気があって、シリーズ化されている作品のファンがそのような思いを? と疑問に思ったのだ。
じっくり考えて思い当たったのは、子供向けと言う言葉。嘘か真かわからぬが、仮面ライダーの玩具を集めている家族に対する辛辣な意見や実力行使の類をインターネット上で目にすることは少なからずある。そこにはまるで自分に優位性があるかのような振る舞いや言動を感じることさえある。そしてそれは仮面ライダーに限らず、趣味者に振り下ろされる斧でもある。どうにも世の中には、大人として適切な趣味なるものが存在し、それ以外に対する風当たりはどうにも強いのだ。
しかし。もし自分が死ぬほど愛好しているものに対し、「早く卒業したまえよ」と声をかけられたらどのような気持ちがするだろう。自分が大切にしているものに対し、軽んじられる視線を投げかけられたらどのような思いがするだろう。
それはきっと、言うまでもない。マイナーだからこその理解されない寂しさは知っていたが、有名か否かが問題ではなく、至るところにそれはある。じゃあ、自分はどうするか? そうだな。メジャーでもマイナーでもどんなものでも、人の大切にしているものを、尊重できる人間でありたい。それがどんなものかはわからなくても、大事にしているなら大事にしたい。意識的にも無意識的にも。
そんなことをじんわりと思った、クリスマスイブの夜である。前日には筋肉少女帯のライブに行って、今日は仮面ライダーの映画を観て、夜にはビールを呑みながらオーケンのラジオをいそいそ聴いた趣味者の夜。誰にも糾弾されない夜である。