日記録5杯, 日常

2018年1月2日(火) 緑茶カウント:5杯

驚いた話。大晦日と元日に書いた日記。これが全く記憶にない。

後で読んで驚いた。「あれ? 自分こんな日記書いてたの……すげえな何一つ記憶に無いな自動筆記か? にしたって覚えてないにも程があるし、へーツイッターでもきちんと告知していたんだその記憶すらないわすげえ……明らかなるダメ人間イズ自分……」

さんりっとるは平気で呑んだ。本日はよんりっとる近くを呑みつつ、ニコニコ生放送で筋肉少女帯のライブがあると知った家族が、「二十二時から始まるのかい?」「そうだよ」「五十秒…四十五秒……」と頼みもしないのにカウントしてくれ、その五秒前には己と同じように浮き足立って、その放送を喜んでくれた。

筋肉少女帯には何も興味がないのに、だ。大事にしているのは一つ。興味があろうがなかろうが、大事にしている人の大事にしているものを大事にしようとする心。

その心を持つ人に出会えたこと、その人の下に産まれついたことの幸福ったらない。わざわざストップウォッチを起動させてくれた幸福。自分はきっと、死ぬほど運が良い。きっと。

それを噛み締めて生きて行こう。これからも。



日記録0杯, 日常

2018年1月1日(月) 緑茶カウント:0杯

新年だろうが元日だろうが元旦だろうが己は酒を呑み、ぐっすり寝つつ、きちんと日々の日課である運動をこなした。

故にオーケーである。今年も。この日着たのはオーケンとエディを真似して買った良いシャツで、以来素敵なシャツだなぁと気に入ってちょこちょこ買い求めた。どの柄もユニークで面白く、着ると元気になれるが、中でも大きい影響はやはりオーケンとエディが着ていた事実。それは己に勇気をもたらす力となる。

まるで呪力を持つようなそれを着る元日の朝。きっとそれはもう、今日一日、今年一年、彼らの力に守られるだろうと期待して。だから今年もきっと良い年なのだ。

故に呟こう。祝福を。新年、明けましておめでとうございます。と。



日記録0杯, 日常

2017年12月30日(日) 緑茶カウント:0杯

紅白歌合戦を観ながら毎年実感することは、出会えたことの奇跡である。

一年の総決算として、この一年に流行った歌は何だろうと知るためにNHKを観る夜。そのために夕飯の準備を済ませ、家族揃ってこたつを囲む特別な夜。その夜に歌われる数々のミュージシャンの楽曲、これが一つも心に響かない。

しかし。それは紅白に出場するミュージシャンが己の信奉する人々より劣っているかと言えば断じて違う。そう。ただの好みの問題でしかない。己には心の支えとなる音楽を奏でる人々がいて、それは知っているけれども、紅白歌合戦には出ず、また紅白歌合戦では見つけられない。たったそれだけのことなのだ。この世に何千何万ある数々の楽曲の一つに、たまたま自分が出会えた運の良さ。幸福。ありがたさ。それを噛み締めるだけなのだ。

よくぞ出会えた。ありがたい。そして知らない音楽の数々を知る一夜。うわあ格好いい! 素敵な歌詞だなあ、歌がうまいねえと語る夜。楽しい。信奉する音楽以外の世界を知る夜。それはとても楽しく、とても新鮮で、とても面白いのだ。あくまでも愛するのは己のルーツだとしても。

貴重な、年に一度の一夜である。



日記録0杯, 日常

2017年12月29日(金) 緑茶カウント:0杯

だらだらした日常を送りつつも、運動を欠かさず行っているので褒めて欲しい。

何だかんだで、ずっと掃除が苦手だったものの九月から心機一転努力を始めたところ毎日の掃除を習慣化できるようになり、あれっ自分やればできるじゃん、と驚きながら継続している。そして今は一ヵ月半ほど日々の運動を日課とし、この年末年始さえ継続できれば来年は大丈夫なんじゃなかろうか、と希望を持てている。

欲しいのは体力。落としたいのは体重。引き締めたいのは自分自身。一年の計は元旦にありと言うが、ずっとだらだら生きてきた人間には元旦じゃあちょっと日が遅い。故に今から頑張ろうと意識しつつ、ちょこちょこ、日々をこなしている。

行けるかな? 行きたいな。



日記録4杯, 日常

2017年12月24日(日) 緑茶カウント:4杯

劇場版仮面ライダーの感想を書いたところ、思いのほか多くの人に読んでもらえたという嬉しい出来事があった。感想を書いたのは二週間近く前だったのでまさに青天の霹靂である。アクセスが急増していることに気付いたときには炎上していたらどうしよう、何かまずいことを書いたかしらん、とヒヤヒヤしたが、ちょこちょこ反応を見て回ってみると好意的に受け取っていただけているようで安心した。何より嬉しかったのは、「こんな感想を書くファンがいるなんて、大槻ケンヂさんって素敵な人なんですね」というコメントを拍手とメールで複数いただいたこと。そのように感じ取って受け取っていただけるって、何てありがたいことだろう。嬉しくて嬉しくてニコニコしてしまった。

その中で抱いた小さな違和感と、その正体に気付いた話。驚いたのだが、己が書いた感想に対し「まっすぐ偏見なく受け止めてくれて嬉しい」といったコメントをちらほら見て、それがどうにも不思議だった。仮面ライダーは世間にも認知されていて、ものすごくメジャーな作品なのに、それを愛する人々は何故だろう。全員ではないが、どこか日陰者の感覚を持っているようにも見えた。それは自分にとってとても近しい感覚で、だからこそ、何故こんなに有名で、人気があって、シリーズ化されている作品のファンがそのような思いを? と疑問に思ったのだ。

じっくり考えて思い当たったのは、子供向けと言う言葉。嘘か真かわからぬが、仮面ライダーの玩具を集めている家族に対する辛辣な意見や実力行使の類をインターネット上で目にすることは少なからずある。そこにはまるで自分に優位性があるかのような振る舞いや言動を感じることさえある。そしてそれは仮面ライダーに限らず、趣味者に振り下ろされる斧でもある。どうにも世の中には、大人として適切な趣味なるものが存在し、それ以外に対する風当たりはどうにも強いのだ。

しかし。もし自分が死ぬほど愛好しているものに対し、「早く卒業したまえよ」と声をかけられたらどのような気持ちがするだろう。自分が大切にしているものに対し、軽んじられる視線を投げかけられたらどのような思いがするだろう。

それはきっと、言うまでもない。マイナーだからこその理解されない寂しさは知っていたが、有名か否かが問題ではなく、至るところにそれはある。じゃあ、自分はどうするか? そうだな。メジャーでもマイナーでもどんなものでも、人の大切にしているものを、尊重できる人間でありたい。それがどんなものかはわからなくても、大事にしているなら大事にしたい。意識的にも無意識的にも。

そんなことをじんわりと思った、クリスマスイブの夜である。前日には筋肉少女帯のライブに行って、今日は仮面ライダーの映画を観て、夜にはビールを呑みながらオーケンのラジオをいそいそ聴いた趣味者の夜。誰にも糾弾されない夜である。