日記録3杯, 日常

2013年11月13日(水) 緑茶カウント:3杯

寒さに耐え切れずエアコンを稼動させ、心地良い暖かさに包まれ幸せを感じた。あぁ、すっかり冬だなぁ。こたつだけではやりきれない寒さだ。そろそろ毛布を出す準備をしなければなぁ。

しかし翌日、ひどい咳に襲われ呼吸も苦しく息も絶え絶えの絶望的なありさま、と書くと大げさだが、本当に苦しかった。まるで咽喉がふさがってしまったかのようだった。無論、エアコンの使用は中止した。寒いのも辛いが、寒い方がずっとマシだ。

今週末こそ、本当に、今度こそ空気清浄機を買おうと思う。置き場所が見つからないなんて言っている場合じゃなくなってきた。切実だ。



日記録2杯, 日常

2013年11月12日(火) 緑茶カウント:2杯

なるほど、絵を描く人にとってはごく当たり前のことであっても、そうでない人から見ると困っているように見えるのか。

「こういった絵を描いてくれ」と頼まれて、若干時間はかかるがすぐに描けるものだったので、紙とペンを取り出してその場で黙々と描き始めたのだが、ややあってから自分にそれを頼んだ人から、「ごめん、そんな大変だとは思わなかった」「さっきから随分試行錯誤しているよね?」と言われ、いったいどういうことだろう? と首を傾げた。試行錯誤? 特に迷うことなく、淡々と描き続けているのに?

疑問を抱きつつも「いや、試行錯誤とかは特に。ちょっと時間はかかりますがもう少しで出来ますよ……?」と答え、何と無く腑に落ちない顔をしているその人の隣で作業を再開したのだが、後になってわかった。そのとき自分はテーブルの上で紙をくるくると回転させながら描いていた。きっと絵を描き慣れた人であれば誰しも自然に行う動作だろう。だが、絵を描く習慣の無いその人には紙を回転する動作の意味が掴めず、「えーとえーと」と困っているように、もしくは悩んでいるように見えたのだ。

いちいち紙を回転させるのは、その都度描きやすい位置から線を引くためであるが、描かない人には思いも寄らないかもしれない。そうして自分はその人の目の中で、迷いに迷って絵を描き上げた結果、やたらと恐縮されてしまったのであった。

自分自身、この動作が人に与える印象など考えたことも無かった。全く別個の視点から見た印象を教えてもらうのは興味深いものである。そして自分も同じように、他者の未知の動作の意味を誤解しているかもしれないと思うと愉快になる。

ちなみにその人は回転の意味をまだ知らない。いつか種明かしするか迷うところだ。



日記録2杯, 日常

2013年11月11日(月) 緑茶カウント:2杯

ウォークマンで聴くのと、CDをそのまま再生して聴くのとでは、音の聴こえ方が全然違うのだなぁ、と改めてしみじみする。無論、後者の方が良い。

普段はウォークマンでばかり聴いているため、たまにCDを再生すると音の違いに驚かされる。どうせなら常にこの音を聴いていたいと思いつつ、こうして驚きを抱きつつ感動し直すのも楽しいものだ。この曲は本来はこんなにまで格好良かったのか、とびっくりさせられる新鮮さ。

гипноза (Gipnoza)を手に入れてから、ほぼずっとгипноза (Gipnoza)ばかりを聴き続けているが、それも寝るときまで聴き続けているほどだが、まだまだ聴き足りなくて困る。このアルバムに限らず、新譜発売直後の、ひたすらひたすら繰り返し聴き続けながら、「永遠に聴いていたい」と思う感覚を持てる時間は言いようがないほど幸せだ。どんなに好きでも聴けば聴くほど耳が慣れて、あんなに新鮮だったものが「当たり前」のものになる。己の中に定着し、自分の一部になってくれる喜びももちろんあるのだが、あの衝撃に心震える感覚を味わえなくなるのは実に実に惜しいのだ。

今だけだよ。今だけ。



日記録3杯, 日常

2013年11月10日(日) 緑茶カウント:3杯

風邪をこじらせて気管支炎になり、気管支炎から咳喘息に移行し、現在もその治療中であるのだが、咳喘息を本格的な喘息に移行させないためには、一日二回のステロイド吸引をとりあえず二年続ける必要がある、と言われてかなり驚いた。無論、それは目安であるので治療の具合によって期間は短くなりもするそうだが。二年て。

現状、黙っていればほぼ咳が出ることもなく快適に過ごせるのだが、喋ると咳を誘発するため完治とまでは言いがたい。一応健康体だが、叫んだり歌ったり出来ないのは若干不自由だ。

とはいえだんだんと体力は回復してきたため、ずっと休んでいた筋トレを本日より再開させることにした。幸い体重は増えなかったもののじりじりと体脂肪率が上昇し、輪郭線がややゆるんできた印象があるので、多分このまま放置すると良くない。無理せず出来ることから始めよう。



日記録0杯, 日常,

2013年11月9日(土) 緑茶カウント:0杯

子供の頃住んでいた家は一戸建てで、一階に客間と居間と台所があり、二階に子供部屋と両親の部屋と洗濯物を干す部屋があった。そして学校から帰宅して夕飯を待つまでの間、二階の部屋にいる場合、母が大きな声で「ご飯出来たよー!」と叫んでいた。その声に応じて下に降り、夕食にありつくのだが、夢中になっている事柄などがある場合はついつい母の声を無意識のうちに無視してしまい、こっぴどく叱られた。

我が家のテーブルマナーのうち、一番重要なことは、「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに食べること」だ。

サラダを作る際、母はサラダの詰め込まれた大皿だけでなく、各人が使う取り皿も必ず冷蔵庫で冷やした。温かな肉料理やパスタを食べるときは、取り皿が別個レンジで温められた。母は料理上手だ。料理にかけて、母はいつも気を遣ってくれていた。ごくたまに、忙しくて夕飯を作る時間が無く、惣菜を買ってきたときでさえ、必ずそれをそのまま出さず、家にある皿に綺麗に盛り付けて、見栄えを良くしてから「今日は手抜きでごめんね」と言いつつ食卓に出してくれた。

正直、自分はそこまでせんでも、と思っていた。ちょっと遅れたくらいで、ちょっと冷えたくらいで料理が不味くなるわけが無い。どうせ食べているうちに冷めていくし、それでも十二分に美味しい。惣菜だってたまにのことだ。そんなことでわざわざ不満を漏らすことなどあるわけない。そこまで神経質にならずとも、と思っていた。

しかし一人暮らしもそろそろ十年に届きそうになる年月を迎え、常に手前のために手前の作る飯を喰いながら思うに、母の思いやり、心遣いはありがたかったな、と今になってしみじみと感じられる。そして思うのだ。同じように、作ったものはその場で、即座に、食べたい、もしくは食べてもらいたいと。一番美味しいときを味わいたい、でなければ味わって欲しいと思うのだ。

今日、自分は唐揚げを揚げた。にんにくと生姜をたっぷり使い、肉にじっくりと味をしみこませ、高温の油でからりと揚げ、どんどん皿に移していった。その際、唐揚げを揚げている真っ最中の自分はそれを食すことが出来ない。一番美味しい今このときの唐揚げが、徐々に冷めていってしまう悲しさを目の前で見た。無論、それでも充分美味しく感じられたが、とにかく揚げたての、まだ肉の内部が沸騰しているそのときの、アツアツの唐揚げを誰かに食べてもらいたい、と思った。そうでなければもったいないと。

母の気遣いと母の思いを今になって知る。自分は結構、かなり、幸せな家に生まれたと思った。