日記録2杯, 日常,

2016年7月10日(日) 緑茶カウント:2杯

友人の家で開催された梅雨の粉もん祭り。友人が作ったサブレ、スコーン、クレープをひたすら貪り食いながら豆から挽いた珈琲をいただくという素敵イベントである。そしてこのイベントの締めが「たこ焼きパーティー」、通称たこパであり、このたこパによって我々はたこ焼きのたこ焼きたる由縁を知ったのであった。

我々が食べたのは確かにたこ焼きだ。しかし明らかにたこ焼きではなかった。
このことを知っていただくために、まずは出来上がりから調理の過程を逆順でご覧頂きたい。


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オーケー? 状況は理解できたかな? そう、我々はたこ焼き作りに失敗したのである。明らかに。激烈に。すごいぜ。まずこのたこ焼き、たこはまるで入っていない。たこ要素は一切ない。何一つない。

いや、そもそもは入れる予定だったのである。しかしだ。とりあえず話を聞いていただこう。己と友人は駅で落ち合い、スーパーで必要な物品を買ってから友人の家に向かった。そこで買ったのはクレープに包むためのベーコン、きゅうり、バナナ、チョコ、切断済みの葉物野菜、たこ焼きの粉、たこ焼きソース、爽健美茶、ギンビスたべっこサラダである。そして友人宅に着いて気付いたのだ。肝腎のたこを買い忘れていたことに。

友人「我々はタコ以下の知能だ」
ウヲ「タコって五歳児くらいの知能はあるらしいぜ」
友人「瓶開けられるしね」

だが。リベンジのチャンスはあった。この後、我々はすっからかんの腹にサブレ、スコーン、クレープをしこたま詰め込んだ。友人の作った菓子はとても美味で、手巻き寿司のように食せるクレープも大変おもしろ美味しかった。食べながらジョジョと松とアニメと漫画ともう一人来る予定で来られなくなってしまった友人の話をする。喋った。めっちゃ楽しかった。高校からの付き合いの友人と話すのはとても楽しい。楽しいが、話すだけじゃあ腹はこなれないのである。

そうして我々は散歩に出かけ、ホームセンターでペット用品やらペンキやら収納ボックスやら工具を見て楽しみ、帰りに先ほどとは別のスーパーに立ち寄った。ここでたこを買えばたこ焼きを作れるのである。良かった! 我々はきちんとたこパが出来るのだ!!

ところがだ。たこが売り切れていたのだ。
売り切れていちゃあ買えないのだ。
まぁしかし。己はたこに執着はない。むしろチーズやトマトを入れたたこ焼きを食べたいと思っていた。だからまぁ良いよね、オーケーオーケーと友人と話しつつ、クレープ用に焼いて余ってしまったベーコンと、チーズ、トマトを流し込んだたこ焼き生地の中に放り込んだ。そうして、わざわざこのために買ったたこ焼き用の串で、くるんっとひっくり返そうとしたのである。

あとはまぁ。ご覧の通りである。
そうして努力の結果たこ焼きはただのお好み焼きになった。
「まぁ再生できて良かったね」と友人と語らいながら乾杯をした。

さて。一枚目の画像のとおり、我々が食べたのはお好み焼きだ。たこ焼き用の鉄板からほじくりだしたたこ焼き生地を整形し、たこ焼きソースを塗って、青海苔と鰹節とマヨネーズでデコレーションしたものだ。どう見てもお好み焼きである。そう思いながら我々は箸を口に運んだのに、たこも入っていないのに、具材はベーコンとトマトとチーズなのに、味は完全にたこ焼きだった。

ウヲ「たこ焼きだ」
友人「たこ焼きだ」

そう。たこ焼きの由縁はたこでもなければ形でもない。生地である。生地の味でたこ焼きか否かが決まるのである。こんなに、どう見てもお好み焼きにしか見えないものを食べたって、味はたこ焼き以外の何物でもないのだ。たこが入っていないのに!!

衝撃の事実にたじろぎつつ我々はリベンジを心に誓った。次こそは、たこが入っていてたこ焼きの形をしているたこ焼きを作ろうと。必ずや、と!



日記録2杯, 日常

2016年7月7日(木) 緑茶カウント:2杯

少し前からブクログを始めた。読んだ本をメモする意味合いで使用しているのでレビューは特に書いていない。最近は昔読んだ本の再読が続いていて、日々青空文庫の便利さとkindleの使い勝手の良さを噛み締めている。

あぁ、でも太宰治の「女生徒」を読んだのは今日が初めてだ。電子のページをめくりながら思い出したのは高校生の頃、母が祖父の本棚を眺めながら話してくれたこと。母の父、即ち己の祖父は母が太宰を読まないよう隠していたらしい。それは多感な年頃に太宰を読んで影響を受けすぎてしまうことを危惧したためだそうだ。しかし、母は祖父の本棚から太宰を見つけ出してこっそり読んだ。そして祖父はそれを知ったが、止めることはしなかった。祖父は嬉しかったのだ。

ツルリとした画面に浮かぶ文字を追う。全くどうして、この人はこんなにも若い娘さんの内面をそのまますくい出したかのように書けるのだろう。確かあのとき、母も近いことを言っていた。言葉の仔細は忘れてしまったが、太宰という作家に対する何とも言えない気恥ずかしいような愛おしいような印象が乗せられていたことは覚えている。

あれからおよそ十五年。どうして当時「女生徒」を読もうと思わなかったのかは今では既にわからない。ただ、今読んでみて十五年越しに母の印象に納得する自分を確認している。そうして己は記憶の母に「確かに」と相槌を打ったのだった。

ブクログ – ウヲの本棚



日記録2杯, 日常

2016年6月30日(木) 緑茶カウント:2杯

ある日突然告白される衝撃を君は受け止められるだろうか。学食で飯を食べている最中、いきなり、「あたし、風俗で働いているの」と言われる衝撃を。

その告白を受けた後、ウィキペディアで風俗の労働内容を調べた。後日友人と学食で昼食をとった際、「これ美味しいよ」と差し出されたフォークを口に受けることに己は逡巡した。彼女は変わらず友人だった。しかしその口が受けていたものを己は知ってしまっていたので。

あのとき己は確かにひと時「嫌だな」と感じたのだ。しかし数秒後、何事も無い顔をしてフォークの先にある食べ物を口に含んだのだ。

永田カビ作の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んだ。これは風俗体験を主軸にした漫画ではない。むしろエロスを期待して買えば肩透かしを食らうだろう。これは作者が、自分自身を抑圧するもう一人の自分と相対しながら、自分という存在を苛烈に紐解く物語である。そこには悲しさと息苦しさが混在していて、どうにか作者を解き放てないだろうかと願いつつ、作者と同じ感覚を抱いている自分の一箇所に気付く。そんな辛さがあった。

人によっては肝腎の、風俗体験部分もひたすら悲しい。だって、読んでも読んでも作者の求めるものは得られていないので。

友人は結婚した。何事もなく。いや、色々あったが。彼女は自傷をしていて、己を保つためにタトゥーを入れていて、会うたびにピアスの数を増やしていた。己はそれを否定しなかった。何故なら、己は彼女の辛さの全てを理解することはできなかったからだ。そして、死ぬくらいなら例え傷が増えても、生きている方がずっと良いと思っていたからだ。死ぬことを止める術が自傷やタトゥーなら、それらを利用しながら生きてくれる方がずっと良い。そう思っていた。だから何も言えなかった。本当は、風俗で働くことを止めたかったのに。しかし、それを止めることすら彼女の負担になると感じていた。

作者も誰も彼も皆、幸せになって欲しいと願って。
ひたすらぐるぐるして眠れない、そんな漫画であった。



日記録2杯, 日常

2016年6月25日(土) 緑茶カウント:2杯

二十年近くインターネットの海を泳いでいて思うことは、閉鎖してしまったサイトを二度と見られないことがとても悲しく寂しいということ。本であれば連載が終わっても読み返せる。そうして記憶を辿ることができる。しかしウェブページは違う。閉鎖してしまったらもう二度と見られない。そして、この二十年のうちにいくつものサイトが閉鎖した。思い返すたびに懐かしさを抱きつつ、もう二度とそのコンテンツを楽しめないことを思い知って悲しむのである。

だからこそ、長く続いているサイトは嬉しい。

十代前半から後半にかけて、夢中になっていたコミュニティサイトがあった。一日に何時間もそこに入り浸り、世界観にどっぷり浸かる日々が続いた。しかし月日は流れ、毎日多くの人が出入りしたそのサイトも今や閑古鳥が鳴いて幾年月。誰も来ない日の方が多い。しかしずっと残っている。

思い出してはサイトに訪れ、日ごとのアクセスカウンタを確認すると夜更けにも関わらずその日の一人目の来訪者が自分自身ということも少なくなく、何一つ更新されない日が続く中も、管理人の方はずっと管理し続けてくれていて、今もその場所は残っている。だから自分は何度となくその地に降り立ち、思い出に浸ることができるのである。

また別のサイト。以前は毎日のように訪問していたが、興味が別に移り、数年見ていなかったところがあった。しかし己が見ていない間もそのサイトは更新を続けていて、今日ふと思い出して見に行けば更新日時は本日で、己はたまらなく嬉しくなったのである。

かと思えばサイトは残っているものの、更新日は三年前で止まっているサイトもある。だが、残ってくれていることが何より嬉しく、己はにんまりと笑いながらあちこちをクリックしてコンテンツを読むのである。

今使っているパソコンは二台目だ。ブックマークは一代目のパソコンから引き継いだものである。故に、跡地すら残っていないサイトも多い。しかしそれを確認するのは忍びなく、既に無くなっていることを類推しつつ見ないふりをしてて、だからきっと、己のブックマークはゴーストタウンに成り果てているのだ。

だから。もし誰かがうちのサイトに来て、「あぁまだやってたんだな」と思ってくれたら嬉しいし、そのようにほっとしてもらえるよう、続けていきたいと思うのである。

続けるさ。これからも。



日記録2杯, 日常,

2016年6月19日(日) 緑茶カウント:2杯

意識して避けていたわけではなかったが、たまたま口にする機会がなく食べたことのないものがあった。一つがカントリーマアムであり、もう一つがつけ麺である。そうして、ならばいっそ死ぬまで口にしないのも面白いかもしれないと思い、意識的に避けているのがカントリーマアムで、数ヶ月前についに口にしたのがつけ麺である。

そうして初めて口にしてから今日で四度目となるつけ麺の味はまぁ美味しく、美味しいが、汁にいちいち浸すのが面倒くさいなぁ、最初っから浸かっていれば良いのになぁ、と思うあたり、己はつけ麺に向いてない人間なのだと思う。

近所に美味しいつけ麺屋が出来たのだ。いつも行列が出来ていて賑わっているその店が、たまたま通りかかったとき空いていたのである。そしてそのとき己は腹が減っていた。これも縁かと思って入り、つけ麺を注文。出てきた麺は冷たく、汁は熱く、口の中で混ざればぬるく、「これは本当に美味いのか?」と衝撃を受けたのが第一印象だ。その後、麺を温かくする「あつもり」なる食べ方を知り、以来「あつもり」にて注文したら美味しく食べられるようになったがやはりいちいち汁に浸すのは面倒くさい。

つけ麺を食べて人心地。思えば久しぶりにまともな食事をしたものだ。昨日の夕飯はきゅうりとハムと味海苔とマヨネーズ。その前は一日一食生活が続いていた。そりゃあ体力も尽きるというものだ。睡眠時間も足りず、栄養も足りずでは体が持つはずもない。もうちょいきちんと栄養を摂らねばならんな、と思った次第である。改めて。