日記録2杯, 日常

2016年9月18日(日) 緑茶カウント:2杯

いつの間にか人の名前を覚えるのが得意になっていた。言い換えれば昔は人の名前を覚えるのが苦手だった。故にずっと苦手だと思い込んでいたのだが、ある日驚いたことに、他者から「名前覚えるの得意ですね」と言われたのだった。

己の認識とかけ離れた評価を得たので、当然「何のこっちゃ」と疑念と違和感を抱いたのだが、ふと振り返ってみた結果、自らの認識こそが間違っていたことに気付いたのであった。

では、いったい何がきっかけで得意になったのだろうと考えたところ思い当たったことは一つ。恐らく、ライブの感想を書き続けてきた効果ではなかろうか。そしてきっと、この類推は間違っていない。

インストアイベントも含めて、年間におよそ十五本から二十本のライブに通ってる。その全ての感想を書き残しているわけではないが、情熱に任せてその多くは書き付けている。ライブの感想を書く主な目的は、ライブの興奮と楽しさを日記に書くという行為で存分に発散し、気を落ち着かせてぐっすり眠るためである。そうでもしないと興奮がいつまでも続き、翌朝の活動に支障を来たすのだ。他に、後で読み返して懐かしむこと、読んでもらうことで誰かに興味を抱いて欲しい、という希望も含まれている。

感想を書くためには記憶しなければならない。特にセットリストは難しい。これをどのように覚えるかが課題であり、ちょこちょこと工夫を凝らして覚える努力をしていた。そして辿り着いたのが曲名を繋げてストーリーにし、さらにそれを画像に変換すること。一枚の「絵」としてセットリストを覚えるのである。

例えば筋肉少女帯のライブに行って、一曲目が「サンフランシスコ」で、「くるくる少女」「ゾロ目」「ワインライダー・フォーエバー」と続いた場合、「サンフランシスコでくるくる少女がサイコロ振ってゾロ目を出してワインを呑む」という風に文章を繋げる。「イワンのばか」「日本印度化計画」「混ぜるな危険」「孤島の鬼」「恋の蜜蜂飛行」だったら、「イワンが印度の危険な孤島で蜜蜂に刺される」という文章を作って画像に変換する。そうすると、前後が混乱することはあるものの、ある程度は覚えられるのである。

ということを十年続けた結果、人の名前を覚える際にもその癖は生きていたようで、自然に関連付けることが出来るようになったようだった。そういえば人の名前を覚えるとき、例えば相手が「山田さん」だったら「山で田んぼを耕している人」をイメージして、その人物にその人の顔をあてはめている。これは全く無意識のことだったが、どこで何が役に立つかわからないものである。あぁ、継続は力なり。

ちなみに曲目だけでなく、全体の構成をブロックに分けて、それぞれをストーリーに変換する、ということもやっている。とはいえ興奮するとやっぱり忘れてしまうし、何度も通ったライブについては過去の公演と記憶が混ざってしまうこともあるので、全部を正確に記憶するのは不可能なのだが。故に最近は印象的なところだけをピックアップする書き方に変えている。これはこれで書きたいところをがっつり書けるので、書いていて楽しい。



日記録2杯, 日常,

2016年9月13日(火) 緑茶カウント:2杯

串カツって良いなぁ、としみじみ思ったのは串カツを食べているその時ではなく、一人居酒屋のカウンターで串物を食べているときであった。

串カツの魅力。それは多人数で食べてもバラさなくて良いところにある、と己は考える。

串に刺さったハラミを歯で挟み、口の中に運び込んで咀嚼し、ビールを呑む。美味い。一つの塊に閉じ込められた肉汁が余すことなく口中に迸る。その全てを味わいながら、先日人と食べた串カツを思い出し、あのときにも無意識のうちに味わった、串から外さずに齧り付ける幸福を噛み締めたのであった。

わかる。それは親切だ。皆が色々な種類の肉をちょっとずつ食べられるようという配慮である。故に人々は焼き鳥の盛り合わせが出ると我先にと串を持ち、箸で押して皿の上にバラバラに崩すのである。そうして己は無残なそれを眺めつつ、残念な思いを口の中に押し込めながら、小さな肉の塊をちょいちょいと箸で摘んで黙って噛む。醍醐味の失われた焼き鳥を。あぁ、焼き鳥とは何だったのだろうと思いながら。

ところがどっこい。対して串カツはバラされない。必ず一人一串があてがわれ、各々好きなだけソースに漬けてそれを貪る。焼き鳥と串焼き。その違いはいったいどこにあるのか。ソースに浸すか浸さないか、故に運命が決まるのか。詳細は不明である。不明ながらも嬉しさを噛み締める。あぁ、良いなぁ。やはり串物の醍醐味はこれだよ、と味わいながら。噛み締めながら。



日記録2杯, 日常, 重陽の節句

2016年9月9日(金) 緑茶カウント:2杯

どうしたら重陽の節句を祝日に出来るだろう、と日がな一日考えていた。

今日は一年に一度の重陽の節句だ。五節句のうちの一つ菊の花の節句である。七草粥を食べる一月七日の人日の節句、雛祭りを祝う三月三日桃の節句こと上巳の節句、子供の日として祝われる五月五日端午の節句、そして短冊を揺らす七月七日、七夕の節句。それらに比べて一段と地味で、一段と知名度の低い重陽の節句。だから己は重陽の節句を贔屓する。何か可哀想だから。

そうして贔屓を続けて早八年の歳月が流れたが、特に重陽の節句が盛り上がった実感はなく、己の力不足を痛感する、と言いつつ実際そこまで気にしてはいない。だって毎年身近な人に重陽の節句重陽の節句と騒ぐだけだから。それ以外に何もせず、ただ騒いでいるだけだから。

とはいえ。来年も再来年も十年後も二十年後もひそかに叫び続けよう。今日は重陽の節句だよ。



日記録2杯, 日常

2016年9月1日(木) 緑茶カウント:2杯

ごきげんよう! いかがお過ごしでしょうか。己は激烈に忙しく、何かやばいです。もう疲れすぎて吐き気がするレベルです。体温も何かいつもより高いです。そして今日に至ってはもう寝ない方がマシなんじゃないかという時刻に起きなくてはならないのでわりとやばいです。そんなわけでさっさと寝るに限るのですが、栄養と萌えを摂取しないと心が爆発するので睡眠時間を削って取得している現在です。

二日くらい何もせず家でじっとしていたい。これが今の願望である。
あぁ!



日記録2杯, 日常

2016年8月28日(日) 緑茶カウント:2杯

サイトの片隅にひっそり置いているカウンターが九万をカウントしていて嬉しい。と言うと、中には「カウンターとは何ぞや」と思う人もいるかもしれない。カウンターとはそのサイトに訪れた人の数をカウントする代物である。と、わざわざ説明すると、「何を言っているのだこいつは」と思う人もいるかもしれない。

いつだったか友人との会話の中で、カウンター、キリ番、掲示板、足跡帳、お絵かき掲示板などが過去の遺物になりかけているらしいという話をした。聞くに、今インターネットを利用している若い人はこれらの存在を知らないこともあるそうで、なるほどなぁ、確かに今はわざわざ個人サイトを作らなくても、SNSで交流や作品の発表が出来ると考えればさもありなんだ。

統計をとったことがなく、調べたこともないのであくまで体感としてであるが、十年前に比べ明らかに個人サイトは減ってきているように思う。で、あれば同時に個人サイトに付随する文化もだんだんと失われるのは必然だ。寂しいか否かと問えば若干寂しいが、それは止められるものでもなく、復興の努力をしようとも思わないが、ただ「なるほどなぁ」と思うのだ。

はるか昔に設置した、このサイトの片隅に置いているカウンターもいつか動かなくなる日が来るかもしれない。それまではひっそりと置いておこう。ひっそりと。