自信のない贈り物
2016年3月6日(日) 緑茶カウント:0杯
バレンタインの一週間後。友人がくれたチョコレートの箱は渋い緑色で、差し出す友人は「好きな色だと思ったから」と言ってくれ、友人が己の好きな色を把握してくれている嬉しさに己は感動したのだった。
そして一時経って思う。これは、自己評価の低さの表れではないかと。また、他者への興味の薄さによるものではないかと。
己が感動したのは、まさか友人が己の好きな色を把握してくれているとは思わなかったからだ。故の感動だ。思いがけないプレゼントが嬉しかったのだ。しかしそれは、自分の好きな色一つ、友人は覚えていないだろうという意識の表れではないのか。もしくは、自分が他者の好きな色を知らないからこそ、知ってもらえていたことに感動したのではないかと。
箱を開くと四枚のチョコレートがあった。二色の味がした。美味しかった。チョコレートは全て胃の中に収めたが、渋い緑色のパッケージはまだ机の上にある。
自分は薄情者なのかしら。
毎年チョコレートをくれる友人がいる。その人は誕生日にもプレゼントを贈ってくれる。自分は誕生日には何も返さない。それは友人の誕生日の方が早いからだ。もらったときにはお返しが出来ない。ただ、友人はクリエイターであり、展示をやっていて、その作品を見るのが己は好きなので、足を運ぶたびにプレゼントを持っていく。きっと友人が喜んでくれるであろうものを吟味して。でも、誕生日プレゼントを考えるのは難しくて、いつも考えはするのだが、時期を逃してしまうのだ。
どうなのかなぁ。
ホワイトデーにはお返しをする。流石にこれは返さなければ、と意気込んで。喜んでもらえたら良いな、と思いつつ。やりすぎないよう注意しつつ。きっと自分はいつだって不安なのだ。自分なんかを好いてくれる人がいるのかと思うから。
今の自分は幸せである。幸福である。受け入れられている。しんどかったのは中学時代。二時性徴により、男女の区別がはっきりしてから、己の居場所は不明確になった。また、人格にも問題があった。そして常に誘う側で、同時に断られる側でもあった。それに慣れすぎてしまった。中学の頃教師に辛いと相談したとき、「大学生になれば、男女の境もなくなるから」と言われ、そこまで待てるかよと思ったが、実際なってみるとその言葉は正しく、それよりも早く、高校生になった時点で己の悩みはほぼ解消された。そこは変人の集まる美術部だったから。
よって己は今恵まれた環境にいるのだが、未だに自信を回復出来ていないらしく、思いがけないプレゼントをもらうたびにビクビクするのだが、そろそろ慣れねばなるまいな。自信を持ってありがとうと言えねばなるまいな。と思っているのさ。
だからホワイトデーには、きっと、喜んでもらえるものを贈るんだ。