めでたさの理解と後悔と課題
2014年5月13日(火) 緑茶カウント:2杯
昨日の日記で、思考を整理しきった結果、自分は途方も無く寂しい道を歩いているんじゃないか、ということに気付き、気付かなければ良かったと若干暗い気持ちになっている。「会えない」が常である日常を歩くのは、なかなか寂しい。
そしてまた、今までずっと理解出来なかった結婚の「めでたさ」を理解し、あぁ、今までいくつもの結婚式に出席したのに、自分は祝いの言葉を述べつつも、どうして結婚がめでたいのか、自分の頭で理解出来なかったため、常に不可解な気持ちを抱きながらそこにいて、申し訳なかったなぁと後悔している。結婚がおめでたいことは知っているが、どうしておめでたいのかわからなかったのだ。
では、寂しさに気付き、結婚のめでたさを理解した自分は結婚することを望むのか? という問いに対しては相変わらず答えは変わらない。「会える」日常を求めて結婚したところで無理が生じるのは目に見えている。何故なら自分は性別を脱却したいからだ。根底の願いがそこにあるゆえ、独身に比べカテゴライズされる機会の増える結婚は苦しみ以外の何ものでも無い。想像するだけで恐ろしい。
学校を卒業してからの方が人生は長い。大人になってからの方が人生は長い。「会えない」日常を過ごす時間の方がはるかに長い。気付いたからには自分はそれを受け入れ、その長い道のりを楽しく過ごせる方法を見つけるべきである。多分これが、己の人生の課題なのだろうなぁ。