「会える」が非日常の日常

2014年5月12日(月) 緑茶カウント:1杯

会える状態と会えない状態は、どちらが普通なのだろう。もしくは、人間は一人であることと二人でいること、どちらがあるべき状態なのだろう。

思えば自分はここ何年も、会いたい人達に気軽に会えない身の上だ。単に学校を卒業して一人暮らしをしているためだが、家族にも、友人にも、愛猫にも、年に数回しか会えない。「会える」のが非日常で、「会えない」のが日常になっている。自分にとっては、会いたい人に会えないことは当たり前。それこそ通常の状態なのだ。

友人から、結婚しようと思うという報告と相談を受けた。そのとき自分は納得しつつ疑問を抱いていた。納得は、まぁするだろうと思っていた、という二人の関係とありように由来するもので、疑問は、何故人は結婚するのだろう、というところにあった。

ずっと同じ人と一緒にいたいとどうして思うのだろう。毎週毎週デートに出かけたり、一緒に住んだり。疲れないのだろうか。何がそうさせるのだろうか。そんなことを思った。

そして気付いたのだ。なるほど、自分は「会えない」のが当たり前になってしまっていたから、「常に会おう」とする心理が理解出来なかったのだ、と。常に会うことはそんなにも負担になるもので無いはずなのに、その感覚をすっかり忘れてしまっていたのだ。

そうだよ。高校まではずっと家族と共にいた。学校では毎日友人を顔を合わせた。それこそ普通であったはずなのに、ずっと「会えない」のが当たり前であるせいで失念してしまったのだ。

また気付く。大人になるとは、会えない状態が当たり前になることだと。無論、例外もあるだろう。ずっと地元の実家で暮らしていれば、家族にもご近所さんにも友人にも会える。だが、いつまでもそのままでは無い。そこから去っていく人もいる。どんどん会えないのが当たり前になっていくのだ。

あぁ、だから人は結婚をするのか。会えないのが当たり前になるから、結婚によって「会える」状態を作るんだ。結婚はそのための仕組みなんだ。

結婚の相談をしてくれた友人は何年か前に、とても楽しい物語を語った。宝くじで三億当てて、俺はアパートを建てるから、そこで皆で住もうよ、と。仲間内での馬鹿話である。談話室のあるアパートで、仲の良い友人達が住み、それぞれに暮らす。それは誰しもが実現するはずないと思っていたが、その物語はとても魅力的で楽しかった。誰がどこの部屋に住む、といった話までされた。

結婚の報告をするとき、友人はすまなさそうな声を出したように聞こえた。そこに一度違和感を抱いたが、後になって気付いた。彼の作った夢物語の幕を閉じることを友人は詫びていたのである。アパートではなく、結婚という仕組みを選ぶことに決めたので。

魅力的な夢だったな、と思う。仮に三億当たってアパートが建ったところで、友人達は埼玉、東京、神奈川、新潟、福島と、全員別々のところで生活している。一つのアパートに集うことなど無理だろう。そうわかりつつ、皆、その物語を楽しんでいた。

間違いなく一番楽しんでいたのは自分だったなぁ、と改めて思う。街中でバッタリ会って、ちょっと立ち話をして、別れる。そんなことが出来なくなって何年経っただろうか。自分はそれに憧れているのだ。その環境が欲しいのである。だが、それを手に入れる仕組みがわからない。



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