文字の読み方を知らない人の意識の片鱗を味わう機会
2014年3月28日(金) 緑茶カウント:2杯
学び始めにけっ躓いてそれっきり。以来苦手意識を拭えず、拭えぬまま開き直り、今となっては既に読む気すら無い。目の前にある英文字に対して、読解しようという心は生まれず、ただ模様、もしくは図形として形を捉えている。意味はおろか読みすら想像しようとしない。
故に自分は、海外のワインやビールを選ぶとき、ぼんやりと「ああいう形の文字のもの」と記憶しているらしく、それはレストランなどの様々な施設の名前、映画のタイトル、文房具にも及び、そのわりに特に不自由なく暮らしているのであるが、わりと皆さん、読める、もしくは読もうとする気持ちがあるようで、自分にとってはただの模様だったものに唐突に音と意味が発生し、そのたびにモノクロの世界に色彩が生まれるような、無音の世界に音が満ちるような感動を一瞬覚え、あーちゃんと読むんだなーと感心している。
それはつまり、全く意識を傾けていなかった道端の石ころが喋り出し、つい驚きのまま振り向いて、自分の世界にその石が存在感を持って入り込んでくるような異質感を英語に対して抱くほど、そこまで無関心になってしまうほど、読む必要が生じない日々の暮らしが何年も続いているということで、あれほど昔、英語がわからないと困る困ると言われたのは何だったのだろう、と大人気ないことを考えてしまう。無論、英語を知ることで選択肢が広がり、知らないがゆえに得られるはずの選択肢を失い、困る局面に至る危険性があることは十二分にわかっているのだが。その分世界が狭まると言われればそれまでなのだが。これから困るかもしれないのだが。
しれないのだが、きっと自分の中ではあれもこれも図形と模様に成り果ててしまうのだろう。これからもずっと。恐らく多分。