日記録0杯, 日常

2014年12月14日(日) 緑茶カウント:0杯

そういえば昨年の十二月にも中野ブロードウェイに行ったな、と思い出す。もしや己は一年ぶりに来たのだろうか。別に年に一度十二月に中野ブロードウェイに参ることを恒例行事としているわけではなく、ただの偶然でしかないのだが。

特に目的はなく、まんだらけを中心にぶらぶら歩いて、メカノでヒラサワのライブDVDを購入した。シャッターの下りた空のテナントもある。ここに住めたら面白かろうなぁ。異界の住人になった気分を味わえそうだ。だが、それが日常となるとすぐに慣れてしまうことも想像され、それはもったいないので、たまにここに来て迷い込むくらいがちょうど良いのだろう。

一年前にここに友人と来て、帰り道に告白をされて以来会っていない。今友人はどうしているだろうと思う気持ちもあるが、まだしばらく会う気にはなれないだろう。あのとき自分は嬉しいと思うよりもがっかりしたのを覚えていて、そう感じた自分を人でなしのように思った。

友情とは難しいものである。



日記録1杯, 日常,

2014年12月13日(土) 緑茶カウント:1杯

傾けた醤油は傾けすぎた醤油であり、己は「しまった」と思いつつ、もうどうにもならない。とりあえず目の前の挽肉と微塵切りの野菜をこねて混ぜて、スプーンで一すくいしたものをラップでくるみ、電子レンジにかけて加熱の後に味見をし、「うわあ辛い」と呟いて悲嘆にくれたのだ。それはほぼ醤油の味の肉だった。

餃子会。各々の家の餃子を作って持ち寄りましょうという会合の当日、我が家で作っていた我が家の味の餃子は、うっかり醤油を入れすぎたがためにただの醤油味の肉と成り果てた。大量の醤油味の肉。これをどうする? いくら味が濃すぎるとはいえ捨てるにはもったいなく、今より一から材料を揃えて作り直していては餃子会まで間に合わない。とはいえこのまま包んでしまうのは暴挙に余りある。どうすれば良い?

どうもこうも無い。己は近所のスーパーまでダッシュをして挽肉と餃子の皮を買い足した。味が濃くなってしまったなら薄めるしか他に無い。結果、当初の予定の倍の量の餡が出来た。もう死に物狂いで包むしかない。ひたすらひたすら餃子を包みまくった。

苦し紛れの末に出来た餃子だったが、肉を増やしたことにより「肉がたっぷりで美味い」という評価を得て、これこそ災い転じて何とやらだなと思いつつ、どうせなら本当の我が家の味を味わってもらいたかったなと思いつつ、ほっと一息ついたのであった。とはいえ楽しい会合であった。普段家で餃子を食べる場合、そうそう多種類のものを食べることなぞ無いが、本日は野菜餃子、肉餃子、スタンダード、洋風、水餃子、餃子もどきなど、いろいろな味を楽しめた。おかげで酒も進む進む。よって己は今とても良い気分であり、良い気分を味わいながら酔い覚ましに緑茶を飲んでいるのである。

あぁ、美味し。



日記録2杯, 日常

2014年12月9日(火) 緑茶カウント:2杯

日記の書き方を忘れてしまったように感じるのは、日常を拾う感度が弱まっているせいかもしれない、というほど、大したことは書いちゃあいなかったが、今日一日何があっただろう、何を考えただろうと思い返すも、あまり出て来ないのが不思議だ。

とりあえず今日はお茶を二杯飲んだ。甘くて苦くて爽やかで美味しい。明日は筋トレを再開したい。それと、ヒラサワのライブDVDを新しく購入したもののまだ封を開けられていないので、これも観たい。ただ、今はひたすら筋少だけを聞き続けたい気持ちもある。

あぁ、こういう風に書いていたんだったかな。



日記録2杯, 日常, 非日常

2014年12月7日(日) 緑茶カウント:2杯

一区切り、ついたのだろうか。

お骨を母の生まれ故郷に運んだ。五十日祭には子供の頃、母とよく遊んだという従兄弟や親戚の方々が集まってくれた。母に似ている、似ているとよく言われた。かと思えば父に似ている、似ているとも言われた。そりゃあそうか。だが当人らに自覚は無く、不思議な心持になる。

忌明けもへったくれも無いほど、己は通常通り生活をしていた。よってここから何か生活が変わるわけでは無い。きっとこれからも思いを馳せるだろうし、悲しみを噛み締めることもあるだろう。だが、ここを区切りとして、何か生活を変えてみようかという思いもある。

とりあえず今日と明日はゆっくり過ごそう。



日記録0杯, 日常

2014年12月1日(月) 緑茶カウント:0杯

一ヶ月経った。まだいまいち現実感が無いが、少しずつ慣れてきているのを感じている。ただ、ふとした折に喪失を感じては泣きそうな気持ちになる。

この一ヶ月、筋少とオーケンに大いに助けられた。葬儀から十日ほど経った頃、机の中を整理していたらすっかり忘れていた筋肉少女帯のライブチケットが出てきた。チケットを見たとき「あぁ、そういえば、買っていたんだなぁ…」と、まるで他人の持ち物を見つけたような、他人事のような気持ちになったが、行ってみたら楽しめた。鬱々としていたのに楽しめた。びっくりした。

十二月の筋肉少女帯のライブチケットを発券したらこれまでに見たことのない番号だった。そしてまた、応募したことすら記憶の外に追い出してしまっていたのに、筋肉少女帯の握手会当選券が届いて、涙が出そうになった。十年間聴き続けた音楽を演奏する人々と握手をし、会話を交わすことが出来た。涙が出た。その五日後に、電車のサインお渡し会に行ったら、何と電車のメンバーと、オーケンと握手して会話をすることが出来た。一週間のうちに、二回も。

まるで神様が慰めてくれているようだ、と思った。ほらほら、あんたの大好きなものだよ大好物だよ! と咽喉にスプーンを押し込まれているようで。無論それは己の主観であり、全てはただの偶然なのだが、確実に己は励まされたのだ。

ただ、それら全ての幸運が無くても良かったので、どうか、と思う気持ちもあり、悲しみを感じつつ、悲しみに慣れながら生きている。