日記録0杯, 日常

2020年2月23日(日) 緑茶カウント:0杯

ゲームを買ったのだ。一年ほど前にニンテンドークラシックミニのスーパーファミコンを買ったが、最新機種を買ったのは実に64ぶりだ。

買ったのはニンテンドースイッチ。いやあびっくりしたよ。据え置き機がWiiで携帯ゲーム機がスイッチだと思い込んでいたら全然違ったね! いつの間にやらこんなにスリム且つコンパクトになって、初期設定でインターネット接続設定が必要になるあたりにとても時代を感じる。すげーなぁ。

きっかけは運動をしようと思ったこと。長く続けていた筋トレに飽きてしまい、代わりに何か始めようと思ってフィットボクシングをチョイスした。で、思い切ってスイッチを買って、フィットボクシングの体験版をダウンロードして、己は人体の動かし方がへったくそだなぁと思いつつあわあわとコントローラーを振り回し、あー、ゲームって良いなぁと思った。

思い出すのは高校の頃、ヴァルキリープロファイルというRPGにはまっていたこと。あのときくらい熱中し、ゲームの中にはまりこむ楽しみに浸りたい。その楽しみ方はフィットボクシングでは得られないと思うが、せっかくならフィットボクシング以外にも何かやってみようかしらん。

あぁ、あれはいつだっただろう。ゲーム内のアイテムを必死で取得しようとする人に対し「ただのデータじゃん」と思ってしまった自分に愕然としたのは。そのただのデータを得るために全力を尽くして何度も何度も何時間も挑戦を繰り返していたのに、あのときの感覚を己は失ってしまっていたのだ。それがどうにも寂しくて、またあの世界に没頭できるようになりたいと思った。だってそれは、すごく楽しかったから。

せっかくなら活用しよう、このスイッチを。どんな世界に誘われるか今から楽しみでならない。さぁ、何をしようかな。



日記録0杯, 日常

2020年2月22日(土) 緑茶カウント:0杯

実に楽しい一日だった。

今日は友人が我が家に遊びに来る日だったのて昼過ぎに買い物に出かけ、あれこれと必要なものを買い、よっしゃと台所に立って野菜を刻んだ。今日初めてチャレンジする料理の名は手羽餃子。手羽先の中にミンチにした豚肉を詰めるというなかなか猟奇的な料理である。そして豚肉を詰めるためには手羽先の中の骨を取り除く必要があるのだがその説明書きがまた猟奇的で、「ハサミで肉と骨のコリコリしたところを切断する」「関節を上下に曲げて脱臼させる」など、料理のレシピというよりも遺体の解体指南書のような表現で、「ひえー」と思いつつ己はピンクの肉にハサミを差し入れコリコリしたところをジョキジョキと切断し関節を脱臼させた。

準備を済ませ友人を迎えに行き部屋に通すと、友人は勝手知ったる様子で特に断りなく本棚から漫画を取り出し読みだした。あー、良い。こういうの良い。とても良い。何かね、友達がふつーにリラックスしてくれるのってすごく嬉しいんだよね。とはいえこの間来た別の友人が「本棚見て良いー?」と断りつつガッタガッタ奥の本を漁り出したときは焦ったが。おいやめろ。妙なものがあったらどうするんだ。無いけどよ。

焼きあがった料理を食べつつ本日の一大イベント、平沢進の大阪ライブ配信を観る。いやーたまらんね。BLUE LIMBOと救済の技法が大好きだから興奮しちゃったよ。そんでもってやっぱヒラサワの歌声って素晴らしく美しいなぁ。あぁ、来月と再来月のライブが待ち遠しい。配信で聴けるのももちろん嬉しいが、早く生で聴きたいものだよ。

そして友人を途中まで送り、己もまた帰路について皿やら何やらをガチャガチャ洗い、風呂に入ってまたビールを開けている。あぁ、楽しい一日だった。しかも明後日にはまた別の友人に会う予定があるんだ。嬉しいなぁ。

そんなこんなで、楽しさと嬉しさを噛みしめながら呑んでいる。贅沢な心地良い夜である。



日記録2杯, 日常

2020年2月19日(水) 緑茶カウント:2杯

何年かぶりに「ねこあつめ」を始めた。庭先に餌や玩具を置いておくと猫が遊びに来て可愛らしい姿を見せてくれる穏やかなゲームである。久しぶりにこれで遊ぼうと思ったきっかけは特にない。朝起きたらいつの間にかスマートフォンにインストールされていた。前夜は深酒をしていた。つまりそういうことである。

さて、この「ねこあつめ」は前述したとおりとてもキュートなゲームで、庭先に餌や玩具を置けば猫が遊びに来てくれて、満足した猫ちゃんはお礼ににぼしを置いて去っていき、そのにぼしを通貨としてプレイヤーである人間は餌や玩具を買うことができる。ちょくちょくログインすれば様々な種類の猫々が自由気ままに遊ぶ様子を眺めることができて、ゲーム内で写真を撮ってアルバムを作ることもできる。そう、ちょくちょくログインすれば。

そう。ちょくちょくログインすれば。

そして自分がここ数日このゲームで何をしているかと言うと、誰もいない庭先で空になった餌を補充し、にぼしを回収し、餌を補充し、にぼしを回収し、餌を補充し、にぼしを回収することである。猫はいない。何故ならちょくちょくログインしないからだ。

ただ空の餌皿に餌を補充しにぼしを回収するにぼし回収業者 is 我。いや、ちょくちょくログインすれば良いんだけどさ! うっかりしてさ! スマートフォンよりもパソコンばっかり触っているからさ! 気付くと! 猫が!! 帰っているんだよ!! 猫好きなのに!!!!!

ふと思う。これはもう、猫が置いていったにぼしを他の猫が食べて、食べた猫がにぼしを置いていくだけで良いんじゃなかろうかと。別に己は庭先さえ貸していれば良いのではなかろうかと。なんてことを思いながら今日も誰もいない庭先で猫の餌を補充しにぼしを回収する。にぼしはひたすら溜まっていく。明日こそは気配だけでなく、実像の猫ちゃんに会いたい。ゲームの中で。



日記録2杯, 日常

2020年2月18日(火) 緑茶カウント:2杯

出来ることもあって、得意なこともあって、自炊をし、掃除をし、自活してそれなりに生きているのに、何故こうも自分に自信を持てないのだろうとここ数日うむむと考えていたところ、ふとあることに思い至った。

それはこれまで、己は出来ることを頑張ることはしてきたが、苦手なことを克服する努力からは全力疾走で逃げ続けてきた、ということである。つまり、苦手に対してタチムカウ苦しい努力をしたことが一切無いのだ。出来ることだけやっていて、今も出来ることだけやっている。マジで。

そもそも学生時代は予習をほとんどしたことが無く、テスト前のみ復習をしていた。宿題はしていたがそれ以外の勉強はあまりやっておらず、中学高校に至ってはインターネットばかりしていた。勉強しなくても得意な現代文古文漢文は点をとれたが数学英語はからっきしで、数学に至っては高二の段階で文系コースに進んでおさらばし、英語からは逃れられなかったものの結局英語がネックで一浪した挙句、現代文古文漢文の三教科という名の一教科で受験し志望校に合格した。そして大学時代も自由気ままに好きな単位ばかりとって楽しく過ごし、卒業後も出来ることだけやって過ごしている。ということで、思い返すとマジで苦手に全力でタチムカい、克服した経験が無い。一切無い。

それはある意味ラッキーな生き方かもしれない。ただ、これまでの人生で「努力をした」実感がほぼ無いために、世の中の努力をして苦手を克服し前進している人達に対する劣等感が凄まじい。苦労はそれなりにした。しかし努力はしていない。だって無理なく続けられることしかしていないから。結果、続けたかったけど続けられなかったものをいくつも投げ出している。同時にいつまで経ってもやりたいことしかやらない自分は、徐々に未来が狭まって行っているような、そんな焦燥感を抱いている。

あー、これか。自分に自信が持てない原因は。じゃあ、それを克服したらいいのかしら。
と言って、結局出来ることしかやらんのが目に見えているからどうしようもないのだ。だって努力の仕方がわからないのである。どうしたら出来るようになるのだろう、いったい。

で、だ。そうやって自信が無いのに自己肯定感だけはあるのがどうにも不思議で、何故だろう。自分が肯定しなきゃ誰が自分を肯定するのだ、って思っているからだろうか。

まぁ、それはそれで潔くて良し。変だけど。バランス悪いけど。



日記録3杯, 日常

2020年2月17日(月) 緑茶カウント:3杯

すごく嬉しいことがあったんだ。歯牙にもかけられていないというかそもそも視界にすら入っていないと思っていた、己がとても尊敬している方から嬉しい言葉をいただいたんだ。それはもう、予想外に。
で、気付かされたんだ。自分はいつまでも自分に自信がなくて、故に自分の影響範囲などほぼ無いと信じ込んでいることがとても危ういということに。

己はそれなりに頑張っていて、頑張って生きているものの、未だに「UNDERGROUND SEARCHLIE」の歌詞の後半で描かれる鬱屈とした気持ちを脱しきれなくて、ずっとそんな気持ちを抱いている。そしてそれが良くない方向に出ると、自分のできることを「誰でもできる」と過小評価した挙句、それができない人を理解できなかったり、自分の言葉なんか滅多に届かないと信じ切った挙句強い言葉を使ってしまい、言わなくて良かったじゃんと思ったり、手前ぇがどれだけ偉いんだよと後悔したりして、ダメだなぁと思ったりしつつ、ちゃんと自分のできることに自信を持って、自分の持つ言葉にもそれなりの威力があることを意識していかなきゃならんよなぁと思うのだ。

この間のこの日記もさ。内容的には正しいんだ。正しいに違いないんだ。ただ、それを言うのは自分なのだろうかとも改めて思うのさ。そりゃあ無断転載には気を配るし、しないよう注意しているし、無断転載系botをリツイートしないよう意識もしている。運良く都合が悪くなってチケットを手放さなければならない事態に陥ったこともなく、誰かに譲ってもらう必要が生じたこともない。まぁ、落選したことはそれなりにはあるが、自分で申込みするチケットに全ての運を賭けているため現状を受け入れて終わりである。ということでそれなりに気を使ってはいるのだが、ただ、それを最低ラインと信じ込んでしまっているのが良くない。

これは本当にどうにかしないとならんのだけど、こいつはインターネットの外の話なのだが、自分の影響範囲がほぼないと思って作ったものに「感動した」「泣いた」みたいなでっかい反響をいただいて滅茶苦茶びっくりすることもあれば、逆に傷つけることもある。つまり常に己は自分を最低ラインだと思っていて、最低である自分ができることをできない人を理解できなかったり、最低ラインを超える事象に対し攻撃的になったりするきらいがあるのだ。

しかしそれはそれで驕りなのだ。自分自身を最低ラインと信じることも。

そうだ。いつまでも弱者気分でいたら、場合によっては斧を持ちながらまるで丸腰のような口ぶりで攻撃する人になってしまう。というか最早なりかけている。

せっかくすごく嬉しいことがあったんだ。尊敬している方から嬉しい言葉をいただいたんだ。だからそれを糧にしてきちんと自信を持ち、自分の言葉の威力を自覚しよう。ということを思い知らされて、反省した。どうにかこうにか、バランス良く生きられるようになりたい。