日記録2杯, 日常

2016年2月6日(土) 緑茶カウント:2杯

何年か前に描いたオーケンの模写。確か蔦Q時代である。

あぁ、何てめでたいことだろうか! 今日はオーケンこと、大槻ケンヂの五十歳の誕生日である。五十歳! 己が知ったときはまだ三十代で、初めてライブを観たときには四十一歳。それから毎年毎年、歳を重ねる姿を見つめ続けて五十歳。こうして五十歳のオーケンを見られることが、たまらなく嬉しい。

髪型が少しずつ変わり、容貌にも変化が生じていく。思えばターバンを巻いていた頃もあったなぁ。中野サンプラザの復活ライブを今観ると、若いなぁとびっくりする。蔦Qの頃は輪郭が丸くなっていたが、その後ダイエットに励みシュッとして、茶髪になったり白髪に戻したり。茶髪は茶髪で格好良かったが、白髪の非現実感はまさしくオーケンにぴったりですこぶる格好良い。

そしてやっぱり、ヒビが入っているオーケンが一番好きだ。昨今は筋少ライブでしかヒビワレメイクを見られないのが若干残念でありつつも、だからこそ筋少のオーケンがより一層特別なものになる。

遡れば高校時代。レンタルして聴いた「蜘蛛の糸」が全ての始まりだった。あれからオーケンの声と言葉は心の支えを超え、己の血肉になっている。大好きだ。これから先もずっと、六十歳七十歳八十歳九十歳、ずっとずっと見つめ続けて行きたい。

五十歳、半世紀! おめでとう!



日記録2杯, 日常

2016年2月4日(木) 緑茶カウント:2杯

ちょうど二ヶ月ほど前である。長年使っていた急須の取っ手がポロリと取れてしまった。約十年使い込んだ愛用の急須が壊れてしまった。しかしこれは一つの機会である。毎日緑茶を愛飲しているのだ。少しくこだわりを発揮して、良い急須を買ってみるのも良いかもしれない。

そう思うと、壊れてしまった悲しみも依然存在するものの、新しい急須に対する期待が膨らみ、わくわくする思いも生まれた。わくわくした。確かにわくわくしたのに己は今も同じ急須を使っている。

どういうこった。

こういうこった。つまりだ。せっかくなら良い急須を、こだわりの急須を購入したいと思った。そのためには様々な急須が置いてある店に出かけ、あれこれ吟味し、その中からたった一つの素敵な急須を選ばなければならない。それは時間のかかることである。時間をかけたいことである。だが、困ったことに己には一つの習慣があったのだ。緑茶を毎日飲むという習慣が。

つまり。新しい急須を買いに行くよりも瞬間接着剤を買いに行く方が簡単だったのだ。

いや、これは繋ぎだ。新たな出会いの前の繋ぎに過ぎないのだ。と思いつつ、結局毎日緑茶を飲めてしまっているのでずるずるずるずる。今日も今日とて一度欠けた急須で何不自由なく緑茶を淹れて飲んでいて、己の今までの人生を振り返ると、あ、これ時機を逃したな。このまま行くな。ということが感じ取れて。思えば携帯電話だってそうなんだよ。今使っているのが今年で六年目。そして二台目。しかもどちらも一度電池交換をしている。どうしたって完全に動作がおかしくなるまで使い続けてしまうのだ。ちょっと不便があっても工夫を凝らせば使えるなら使ってしまうのだ。周囲からはいい加減スマートフォンにしたらいかがかと言われているのに。でも、だって、使えるんですもの。

不自由ない欠けた急須と共に、今日も今日とて一服二服。明日も明日とて同じことを繰り返すのだろう。ははは。



日記録4杯, 日常

2016年1月31日(日) 緑茶カウント:4杯

土曜日は十五時頃に起床して、三時間ほど活動するもまた眠くなり、布団に入ってまどろみ、二十三時頃に起床した。あわせておよそ十八時間の睡眠である。そしてさらにその後八時間寝て日曜日の昼。予定は無い。何も無いが頭にあるもの。どうしよう。行こうかな。

迷いつつも、ちょっと足を延ばせば行ける距離に住んでいる幸運を思い、出かける用意を始めた。行く先は青山葬儀所である。

悩んでいたのは受け入れられなかったからである。受け入れたくなかったからである。だが、これが唯一最後の接触になるかもしれない。そして自分は電車を乗り継ぎ、ほてほてと歩き、同じように集まった人々と共に行列に並び、入り口で花を受け取り、水木サンの献花台に花を供えた。絶え間なく聞こえるカメラのシャッター音を煩わしいなと思いつつ、賑やかで良いのかもしれないと思いつつ、献花台で笑う水木サンの遺影を見上げた。

あぁ、寂しいな。

最後。帰り際に渡された鬼太郎と目玉おやじとねずみ男が描かれたポストカード。水彩で描かれたそれを見た瞬間、ぐっとこみ上げるものがあった。思いがけずありがたいものをいただいてしまった衝撃と、この会を開いてくれた方々の優しさが身にしみて。寒空に並ぶ行列の人々を温めるために設置された暖房器具、水木サンと縁の深い人々のお悔やみの言葉、水木サンへの手紙を届けるために用意された妖怪ポスト。喪失感は計り知れないが、確かに、埋めようとしてくれているのだ。

寂しいが、これでどうにか一区切り。受け入れよう。



日記録4杯, おそ松さん, 日常

2016年1月26日(月) 緑茶カウント:4杯

十月に発売された筋肉少女帯の新譜「おまけのいちにち(闘いの日々)」に収録されている、たった三分ちょっとの楽曲「枕投げ営業」。十月である。三ヶ月前である。三ヶ月前に発売されたにも関わらず、ほぼ三ヶ月間枕投げ営業の歌詞についてあれこれ想像を巡らせてはにやにやし、あぁ何て素晴らしい歌詞なんだ枕投げ営業……! 何て元気になる曲なんだ枕投げ営業……! うっうっ女の子が幸せになって良かった……ありがとうありがとう筋肉少女帯……と感動し続ける日々を送る自分は言うまでもなくはまるとしつこい人間であり、このままでは来週も再来週も三ヵ月後も一松事変の面白さについて語り続けそうなので、ここで思うさま書き連ねようと思う。

アニメ「おそ松さん」第十六話「一松事変」。もうさいっこうに面白かった。深夜にも関わらず最初から最後まで大笑いし、視聴が終わった直後に再生ボタンを押して二周三周と観直してゲラゲラ笑い続けた。テレビの電源を落としたのは三時過ぎだった。よって寝不足の状態で朝を迎えたが、大笑いしまくって寝たおかげか気分は爽快だった。ありがとう一松事変。最高に面白かったよ一松事変。

己にとって「おそ松さん」はちょっと気味が悪くて怖いアニメであった。怖さを感じる由縁については「おそ松さんに感じる恐怖」という記事で書いたが、特に二クール目に入ってからはより一層怖い。分裂して増殖し兄弟の体内に入ってウイルスと戦う十四松や、面接官の頭をかじる十四松を観て、「え? え? 何、このアニメ、どういうこと……?」と胸にざわざわしたものを抱え、不安を感じながら視聴を終えることが多かった。面白いのにスッキリ笑えない、どこかに気持ち悪さや怖さを感じる。そこが面白くありつつ、いつも落ち着かない気分にさせられていた。

その「おそ松さん」でここまで屈託なく笑ったのは久しぶりである。話の筋を簡単に説明すると、自分の服を脱ぎ捨ててソファで眠るカラ松が部屋にいて、それを一松が発見した。一松はカラ松が愛読しているファッション雑誌に興味津々の様子で、こっそりカラ松の服を着てしまう。そこにタイミング悪くおそ松が帰ってきて、一松はカラ松の服を着たことを知られたくないあまりにカラ松になりきろうとするが……というものだ。

この話が面白いのは、しっかりと六つ子の人間関係を視聴者が把握出来ている頃に公開された話であることと、おそ松・カラ松・一松という少ない人数で物語が展開する点にあると思う。十五話かけて、大人になったおそ松さん達はそれぞれどのような個性を獲得し、互いにどういった人間関係を築き上げていったかゆるやかに語られている。何て言ったって六つ子である。六人もいるのだ。六人六様の個性と関係性を限られた時間で表すのは時間がかかる。そうして時間をかけてじっくり舞台が整えられた後に、三人という少人数の、いつもよりも「個」が目立ちやすい状況で物語が展開したら、面白くないわけがない。

また、もう一つの要素として、己がF6の話があまり好みでなかった、というのもあるだろう。十六話では「一松事変」の前に、美青年のおそ松さん達「F6」の物語が描かれたのだが、これの笑いどころがわからなかったのだ。もっと言うとちょっと気持ち悪さを感じていて、退屈していた。F6もじょし松さんも一発ネタとしては笑えるのだが、己はどちらかと言うと普通の形態の六つ子の織り成す物語の方を観たいのだ。

そのため、前半パートでは若干フラストレーションがたまっていた。そこへ来ての一松事変だったので、笑いが爆発したのだろう。

カラ松と一松はあまり仲が良くない。カラ松は一松を嫌っていないようだが、一松はカラ松を毛嫌いし、フォローしたカラ松の胸倉を掴んで涙目にさせ、カラ松が誘拐されれば舞い踊り、クソ松と罵り、カラ松愛用のサングラスを割るなど、お前カラ松に何をされたんだよ何がそこまで気に入らないんだよ……と突っ込みたくなるような言動を繰り返している。

その一松がカラ松の所有する雑誌に興味津々なだけでも面白いのに、こっそり盗み読むのかと思ったら、ちゃっかりとカラ松の服を着てポーズを決めている。この瞬間己は本当に、比喩ではなく、口に含んでいた緑茶を噴き出しそうになった。もしこの話を序盤でやっていたらここまで笑わなかっただろう。一松という人間がわかった、気になった後だからこそ面白いのである。

そこからずっと笑いっぱなしである。死ぬかと思った。

何が面白いって、普段ボソボソ喋る一松が焦るあまりに心の中で絶叫しまくっていることである。お前そんな声今まで一度も聞いたことねーよって声で叫びまくり、焦りつつ叫びつつ合間合間に「俺のことカラ松だと思ってるー! 普段そう思われたら地獄だけどー!」とカラ松を罵倒しつつ、「正しいカラ松のやり方がわからねー! いや正しいカラ松のやり方って何だー!?」と悩みながらカラ松になりきろうとする必死さが滑稽で仕方が無い。

さらに笑えるのが、正しいカラ松のやり方がわからないと言う一松以上に、カラ松のやる一松の真似がへったくそであることだ。カラ松にとって一松と言ったら「猫」のようだが、猫以外に無いのか。何も無いのか、と突っ込みたくなる。それともカラ松の目には一松があのように見えていると言うのか。それはそれでどうかと思う。

あと煮干し。おそ松は一松のポテトチップスを食べた後にも関わらず、一松の隠していた徳用煮干しに手を出して、「すげーうまいんだよな~」「こんなの猫にあげるなんて一松も馬鹿だよな~」「ん~うまぁい」と言ってまるでご馳走を食べるかのように煮干しをむしゃむしゃ食べる。煮干しを。徳用の煮干しを。

そしてこの場に生ずるのは、煮干しの持ち主である一松にマジ殴りされるおそ松と、煮干しを食べられてマジ泣きする一松である。煮干ししか食べ物がないならまだしも、ポテトチップスを食べた後に煮干し。煮干しが火種となって殴り殴られ涙が流されるこの状況っていったい何だよ。

イタイイタイと言われているカラ松のファッションにおそ松と一松二人が興味を持っているのも面白い。おそ松はまだ興味本位な様子だが、一松はわりとお前そういうファッション好きなんじゃねーのって思わされる両者の違いも面白い。何て言ってもトト子ちゃんの部屋にビジュアル系バンドマンの格好をして行った男だ。こいつもなかなか大概である。

一松が、自分はカラ松の服を着ている一松だと告白しようとしたものの、結局出来ず、こうやって素直になれないから自分は友達が出来ないんだと唐突に自己分析をしながら悔やみ始めるあたりも面白い。忙しい男である。というかお前友達いないの結構なコンプレックスなんだな……わりと本気で……。

びっくりしたのはカラ松の機転。眠りから覚めたカラ松が、カラ松の服を着た一松を見て驚いたとき。てっきり「うわー俺が二人いるーどうしてだー!?」とポンコツな驚き方をするかと思いきや。寝起きの頭で瞬時に状況を判断し、一松になりきることで一松をかばおうとする。すごい。何がすごいって、一松が自分の服を着ていることがおそ松にばれたら、一松が社会的に死ぬということを理解している点である。こいつ……本当に可哀想だな。

そうしておそ松が部屋から去り、めでたしめでたしかと思いきや、思いっきり恩を仇で返されるカラ松。すげぇよ。直前まで「神か! 神なのかこいつ逆に死ねェ!!」「マジなんなんだよこいつの優しさ! 逆に死ねよ!」「俺はもうカラ松ボーイズだよ!!」と混乱極まる感謝の台詞を吐いていたくせに、胸倉掴んで逆切れする一松。すごい。普通だったらここでカラ松は感謝の一つもされていいはずなのに……何と言う容赦のなさだろう。

しかも急いで服を着替えようとしたところにおそ松が帰ってきて、もつれ合う二人の様子から誤解が発生。ここもすごい。自分を助けてくれたカラ松を保身のために切り捨てる一松のクズっぷりもひどいが、おそ松もひどい。おそ松はさっき一松扮するカラ松に告白されたときドン引きしていたくせに、「おじゃましましたー」「ごめんねー誰にも言わなーい」と言って、嘘泣きをする一松を置いてその場を去ろうとする。いや助けてやれよそこは! 止めろよ! ちゃんと! これ誤解だったから良いけど事実だったら一松滅茶苦茶可哀想だろ……。いや一番可哀想なのカラ松だけど。

カラ松事変のときはカラ松がひたすら可哀想だったが、今回の一松事変でもカラ松がひたすら可哀想というすごい構図。しかし一松のダメージも計り知れないものだろう。この一連の騒動、夜中に思い出したら死にたくなるんじゃないのか。恥ずかしくて。

と、このように書き上げて見ると己は「すごい」と「ひどい」しか言っていないのだが、普段物静かな一松の全力の絶叫と必死さ、カラ松の意外な機転と不憫さによる怒涛のような勢いがとにかく面白く、己は今もゲラゲラ笑っているのである。「おそ松さん」で一番好きな話になるかもしれない。



日記録0杯, 日常

2016年1月23日(土) 緑茶カウント:0杯

恥ずかしながら、己は苦手な食べ物が多い。

子供の頃は野菜全般が食べられたので、あまり好き嫌いが多いという印象を抱かれなかった。ニンジンもピーマンもセロリもパセリも食べられた。だが、子供の頃から生魚と貝類が苦手だった。食べられなくもないが、食べても美味しく感じられないのである。特にエビは大嫌いだ。だからなるべく食べたくなかった。

ところが大人になると、子供時代にはあまり縁が無かったものも皿に乗せられるようになった。それが己は苦手だった。それはレバーやモツと言った内臓系の食べ物であった。食べたことはある。だが、だめだった。美味しく感じられなかったし、何より受け入れられなかったのだ。頭が。好んで食べる人を拒絶する気持ちこそ無いものの、自分自身は受け入れられなかったのだ。

そして大人になった今。己は食べ物の好き嫌いの多い人間として認識されるようになった。食べたくないものは生魚、生肉、海や川に住む魚以外の生物、内臓、動物の舌。結構ある。わりと結構ある。特に動物系の生臭いにおいが苦手らしい。内臓を食べるイメージに負けるらしい。口の中に動物の舌があるという状況に耐えられないらしい。そこには恐怖もあるのかもしれない。どうしても美味しく食べられなかった。

そんな中。今日の新年会の会場で。平等に取り分けてもらった海鮮サラダの皿。己の取り分の一枚の皿。野菜だけ食べて、刺身には手をつけられず、持て余してぬるくなっていたマグロと何かの白身魚。食べられなくもないが食べたくない。そんな思いで逡巡していた結果、できてしまったぬるい刺身を、隣に座る友人がにこにこしながら食べてくれた。「刺身苦手なんだっけ? 食べていい?」と言って。

海鮮サラダは宴会の序盤に運ばれてきていて、己は長いこと持て余していた。その三切れの刺身を。とっくにぬるくなっている刺身をその人はにこにこしながら食べてくれた。きっと、絶対、もっと早い段階の方が美味しかったに決まっているのに、美味しかった時期を過ぎてしまっているのに食べてくれた。

感動。

感動と共に生まれたのは、取り分けてもらう前に、己は刺身が苦手であることを告白すべきであったという後悔で、同時に、いやしかしそれを言ってしまっては、海鮮サラダを注文した人が気を遣うもしくは悪いことをしたと悔やむかもしれないということで。だけど、良いのだよ! 海鮮サラダを注文しても! 己が勝手に苦手なだけなんだから! と思いつつ、自分が海鮮サラダを注文する人の立場であったなら注文しづらいよなと考えて。とするとこのタイミングでぬるい刺身を食べてくれた友人はベストな判断を下してくれたのではないかと類推して。己は牛タンの隣に添えられたマッシュポテトを舐めつつ、ただただありがたいなと思っていたのであった。嬉しい。