日記録2杯, 日常

2016年7月7日(木) 緑茶カウント:2杯

少し前からブクログを始めた。読んだ本をメモする意味合いで使用しているのでレビューは特に書いていない。最近は昔読んだ本の再読が続いていて、日々青空文庫の便利さとkindleの使い勝手の良さを噛み締めている。

あぁ、でも太宰治の「女生徒」を読んだのは今日が初めてだ。電子のページをめくりながら思い出したのは高校生の頃、母が祖父の本棚を眺めながら話してくれたこと。母の父、即ち己の祖父は母が太宰を読まないよう隠していたらしい。それは多感な年頃に太宰を読んで影響を受けすぎてしまうことを危惧したためだそうだ。しかし、母は祖父の本棚から太宰を見つけ出してこっそり読んだ。そして祖父はそれを知ったが、止めることはしなかった。祖父は嬉しかったのだ。

ツルリとした画面に浮かぶ文字を追う。全くどうして、この人はこんなにも若い娘さんの内面をそのまますくい出したかのように書けるのだろう。確かあのとき、母も近いことを言っていた。言葉の仔細は忘れてしまったが、太宰という作家に対する何とも言えない気恥ずかしいような愛おしいような印象が乗せられていたことは覚えている。

あれからおよそ十五年。どうして当時「女生徒」を読もうと思わなかったのかは今では既にわからない。ただ、今読んでみて十五年越しに母の印象に納得する自分を確認している。そうして己は記憶の母に「確かに」と相槌を打ったのだった。

ブクログ – ウヲの本棚



日記録4杯, 日常

2016年7月4日(月) 緑茶カウント:4杯

一月ほど前、フローリングで力なくうずくまっていたアダンソンハエトリグモがその後どこに行ったか知れないが、彼の家族か友人か親戚かが我が家の壁とカーテンをぴょこぴょこ跳ね回っていた。

アダンソンくんが繁殖している。

アダンソンハエトリグモは可愛い。まるっとしたフォルムで短い脚をわきわき動かしぴょこぴょこ跳ねる姿は非常にキュートだ。ずっと眺めていたくなる愛らしさがある。そのうえ部屋の害虫を食べてくれる益虫なので、我が家に滞在していただけることを己はとても嬉しく思う。ある一点から意識を逸らしさえすれば。

アダンソンくんが元気にぴょこぴょこ動き回っているということは。栄養がたっぷりとあるはずで。まぁ、いるだろうよ最近あまり出会っていないが。ホウ酸ダンゴをしかけているが。だってここは己と同い年か年上の木造アパートの二階なんだぜ。

アダンソンくんが繁殖している。可愛いが、家具の後ろを想像すると、ちょっと怖い。



日記録4杯, 日常

2016年7月3日(日) 緑茶カウント:4杯

土曜日は十六時に起床した。日曜日は十二時半に起床した。そうして二日連続でたっぷりと睡眠をとり、今日はゆったり過ごしたのである。

思うこと、考えることは山ほどある。

永田カビ作の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んで思ったことを先日の日記に書いた。半分は作品の感想であり、半分は自身の体験を綴ったものである。友人から「実は風俗で働いている」と告白を受けたとき、己は確か二十歳かそこらで、しかも非常に厄介な性質を抱えており、大分緩和されてきてはいるものの、未だそれを解消しきれていない。

何を抱えていたかというと、己はとにかく性的な話題に乗ることが苦手で、どのAV女優が素晴らしいかといった猥談はもちろん、友人の誰と誰が付き合っているという話すら苦手で、耳にすれば大げさでなく気分が悪くなり、自室の床に突っ伏して動けなくなることがままあった。とにかく、受け付けなかったのである。

幸運だったのは友人の多くが己の性質を慮ってくれていたことで、猥談はもとより恋愛の話すら己の前ではしないでくれていたので、だいたいは平穏に日々を過ごすことが出来た。全くもってありがたい話である。故に、親しい友人の交際関係を全く知らずに過ごし、大学卒業後に誰と誰が付き合って別れたといった話を知って仰天したことも多々あったのだが。

そんな性質を抱えた中での友人の告白である。友人から告白を受けた後、風俗の労働内容を調べてショックを受けたのであるが、友人がどんな名前の業種で働いていたのかを己は覚えていない。記憶が抜け落ちたかのようにすっぽりと忘れてしまった。もしかしたら調べたらわかるかもしれないが、忘れたままで良いだろうと思っている。

ただ印象的なのは、告白を受けた後に友人から食べかけの食べ物を差し出されたとき。己は親しい間柄あれば、わりと食べかけを口に含むことに抵抗がない。歯型のついた大福だろうが先方が嫌がらなければ齧ることができる。しかしそのとき己は確かに「汚い」と思ったのだ。

例えば、ものすごく奔放で、経験人数の多い友人が差し出した食べかけの食べ物を口に含むとき己は逡巡するだろうか。愛の有無が問題なのか? では、奔放な人がものすごく色好みなだけで、その関係に愛がなかったら? もしくは、食べかけを差し出す人が、頻繁に風俗を利用する立場の人であったなら?

このように色々考えた末に、きっとあのとき抵抗を感じたのは、労働内容を思い出してしまったからなのだろうなぁ、と思う。リンクしてしまったのだ、生々しく。

あのときの逡巡を悟られただろうかと思うことが未だにある。答えはずっと知りえない。



日記録2杯, 日常

2016年6月30日(木) 緑茶カウント:2杯

ある日突然告白される衝撃を君は受け止められるだろうか。学食で飯を食べている最中、いきなり、「あたし、風俗で働いているの」と言われる衝撃を。

その告白を受けた後、ウィキペディアで風俗の労働内容を調べた。後日友人と学食で昼食をとった際、「これ美味しいよ」と差し出されたフォークを口に受けることに己は逡巡した。彼女は変わらず友人だった。しかしその口が受けていたものを己は知ってしまっていたので。

あのとき己は確かにひと時「嫌だな」と感じたのだ。しかし数秒後、何事も無い顔をしてフォークの先にある食べ物を口に含んだのだ。

永田カビ作の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んだ。これは風俗体験を主軸にした漫画ではない。むしろエロスを期待して買えば肩透かしを食らうだろう。これは作者が、自分自身を抑圧するもう一人の自分と相対しながら、自分という存在を苛烈に紐解く物語である。そこには悲しさと息苦しさが混在していて、どうにか作者を解き放てないだろうかと願いつつ、作者と同じ感覚を抱いている自分の一箇所に気付く。そんな辛さがあった。

人によっては肝腎の、風俗体験部分もひたすら悲しい。だって、読んでも読んでも作者の求めるものは得られていないので。

友人は結婚した。何事もなく。いや、色々あったが。彼女は自傷をしていて、己を保つためにタトゥーを入れていて、会うたびにピアスの数を増やしていた。己はそれを否定しなかった。何故なら、己は彼女の辛さの全てを理解することはできなかったからだ。そして、死ぬくらいなら例え傷が増えても、生きている方がずっと良いと思っていたからだ。死ぬことを止める術が自傷やタトゥーなら、それらを利用しながら生きてくれる方がずっと良い。そう思っていた。だから何も言えなかった。本当は、風俗で働くことを止めたかったのに。しかし、それを止めることすら彼女の負担になると感じていた。

作者も誰も彼も皆、幸せになって欲しいと願って。
ひたすらぐるぐるして眠れない、そんな漫画であった。



日記録2杯, 日常

2016年6月25日(土) 緑茶カウント:2杯

二十年近くインターネットの海を泳いでいて思うことは、閉鎖してしまったサイトを二度と見られないことがとても悲しく寂しいということ。本であれば連載が終わっても読み返せる。そうして記憶を辿ることができる。しかしウェブページは違う。閉鎖してしまったらもう二度と見られない。そして、この二十年のうちにいくつものサイトが閉鎖した。思い返すたびに懐かしさを抱きつつ、もう二度とそのコンテンツを楽しめないことを思い知って悲しむのである。

だからこそ、長く続いているサイトは嬉しい。

十代前半から後半にかけて、夢中になっていたコミュニティサイトがあった。一日に何時間もそこに入り浸り、世界観にどっぷり浸かる日々が続いた。しかし月日は流れ、毎日多くの人が出入りしたそのサイトも今や閑古鳥が鳴いて幾年月。誰も来ない日の方が多い。しかしずっと残っている。

思い出してはサイトに訪れ、日ごとのアクセスカウンタを確認すると夜更けにも関わらずその日の一人目の来訪者が自分自身ということも少なくなく、何一つ更新されない日が続く中も、管理人の方はずっと管理し続けてくれていて、今もその場所は残っている。だから自分は何度となくその地に降り立ち、思い出に浸ることができるのである。

また別のサイト。以前は毎日のように訪問していたが、興味が別に移り、数年見ていなかったところがあった。しかし己が見ていない間もそのサイトは更新を続けていて、今日ふと思い出して見に行けば更新日時は本日で、己はたまらなく嬉しくなったのである。

かと思えばサイトは残っているものの、更新日は三年前で止まっているサイトもある。だが、残ってくれていることが何より嬉しく、己はにんまりと笑いながらあちこちをクリックしてコンテンツを読むのである。

今使っているパソコンは二台目だ。ブックマークは一代目のパソコンから引き継いだものである。故に、跡地すら残っていないサイトも多い。しかしそれを確認するのは忍びなく、既に無くなっていることを類推しつつ見ないふりをしてて、だからきっと、己のブックマークはゴーストタウンに成り果てているのだ。

だから。もし誰かがうちのサイトに来て、「あぁまだやってたんだな」と思ってくれたら嬉しいし、そのようにほっとしてもらえるよう、続けていきたいと思うのである。

続けるさ。これからも。