日記録2杯, 日常

2016年8月28日(日) 緑茶カウント:2杯

サイトの片隅にひっそり置いているカウンターが九万をカウントしていて嬉しい。と言うと、中には「カウンターとは何ぞや」と思う人もいるかもしれない。カウンターとはそのサイトに訪れた人の数をカウントする代物である。と、わざわざ説明すると、「何を言っているのだこいつは」と思う人もいるかもしれない。

いつだったか友人との会話の中で、カウンター、キリ番、掲示板、足跡帳、お絵かき掲示板などが過去の遺物になりかけているらしいという話をした。聞くに、今インターネットを利用している若い人はこれらの存在を知らないこともあるそうで、なるほどなぁ、確かに今はわざわざ個人サイトを作らなくても、SNSで交流や作品の発表が出来ると考えればさもありなんだ。

統計をとったことがなく、調べたこともないのであくまで体感としてであるが、十年前に比べ明らかに個人サイトは減ってきているように思う。で、あれば同時に個人サイトに付随する文化もだんだんと失われるのは必然だ。寂しいか否かと問えば若干寂しいが、それは止められるものでもなく、復興の努力をしようとも思わないが、ただ「なるほどなぁ」と思うのだ。

はるか昔に設置した、このサイトの片隅に置いているカウンターもいつか動かなくなる日が来るかもしれない。それまではひっそりと置いておこう。ひっそりと。



日記録2杯, 大槻ケンヂ, 日常

2016年8月18日(木) 緑茶カウント:2杯

言ってしまえばたったの数日だ。たかが数日憂鬱が続いているにすぎない。しかし辛い。しんどい。空腹感はあるのに食欲がなく、眠りたいのに眠れない。

どうにかこの憂鬱を緩和すべく、黙々と本を読んだり、深呼吸をしたり、新明解と三省堂の辞書の引き比べをして語釈の違いを楽しんだり、筋肉少女帯人間椅子のライブブルーレイを観たり、好きな音楽を聴いたり、友人にしんどさをこぼしたり、シン・ゴジラのチケットの予約をして先の楽しみを作ったり、アニメを観たりしたが、束の間楽になるも、動けない。座り込んだまま何も出来ない。

そんなとき。オーケンのオフィシャルLINEスタンプが発売されたことを知った。LINEはやっていないが、見てみようと思ってページを検索した。そこには見慣れたオーケンネコがいた。オーケンがいつもサインに描き添える猫の絵。あぁ、これを一つ一つオーケンが手描きしたんだなぁ、と思うとほわりと癒され、ちょっと楽になったところに、ある一つのスタンプが目に入り、その言葉を飲み込んだ途端、比喩でなく、ドバッと目から涙が溢れた。

「おはよう 晴れでも雨でもいい日だよ!」

しばらくそのまま涙が止まらず流れ続け、あぁ、自分は結構参っていたんだなぁと知った。

こんなものは受け取り手の問題だと言ってしまえばそれまでだが。どうしてオーケンはいつも、己が欲しいときに欲しい言葉をくれるのだろう。まるで巌に染み入るようにここ数日抱えていたしんどさが溶かされていくのを感じた。覚えている。このスタンプはオーケンが声帯手術を受けた後、声を満足に出せない時期に描いたものだ。何とはなしに書いた言葉かもしれない。しかし、思ってしまうのだ。つい。どんな想いからこの言葉が出てきたのだろうと。そうしてもう一つ思い出すのだ。かつてエッセイでオーケンが、長年不定愁訴に苛まれていることを語り、「いつか霧が晴れたように、気分爽快な朝が来ればいいな」と呟いていたことを。

そのオーケンが「おはよう 晴れでも雨でもいい日だよ!」と。

泣き終えると気分はずっと楽になっていた。明日からはどうにかなるかもしれないと思えるほどに。

大丈夫。きっと、晴れでも雨でもいい日だよ!


大槻ケンヂ オフィシャルLINEスタンプ


日記録0杯, 日常

2016年8月16日(火) 緑茶カウント:0杯

祖父母の家に行って帰ってきた。疲れた。しんどかった。ここ十年ほど、祖父母の家に行くたびに己の精神は疲弊する。出来ることならば行きたくないのが本音である。しかし年老いた祖父母は会いたがっている。では、年に一度の盆くらい向かおうか、と思うもののしんどさはそのままあり続け、とにかく辛い。

そこで、己がどこにしんどさを感じるのか書き上げて行ってみようと思う。

(1)言葉がわからない
冗談でもなく、馬鹿にしているわけでもなく、事実として半分ほどわからないのである。大分に住む祖父母と、群馬で育った自分。方言の種類が違うのである。そうして祖父母の方言は、つらつらと語られると文節の区切りも判断がしづらく、何を話しているのかよくわからないのである。

さらに、今の話をしているのかと思いきや昔話だったり、地域独特の固有名詞を当たり前のようにスルッと出されると、話を聞き取るのも難しく、相槌を打つしか方法が無く、ろくな返答を得られない祖父母は穏やかな笑みを浮かべたままがっかりするのである。

(2)共通の話題が少ない
まず己はさほどテレビを観ない。映画も観ない。テレビは朝のニュースを見る程度、映画はこの間数年ぶりにシン・ゴジラを観たくらい。オリンピックにもワールドカップにも興味がなく、当世流行の俳優もろくに知らない。ドラマも観ない。

祖父母の家では自然居間に集うことが多く、そこで映っているチャンネルを観る。そうして「この俳優は誰か」「このドラマを観ているか」と質問を受けるのだが、「知らない」「観ていない」としか答えられず、何故観ないかと問われれば「時間が合わない」「興味がない」としか答える術がないのである。

また、音楽番組が流れたとき、「最近の若いもんはこういう音楽が好きなんじゃろう」と話を振られるものの、己の好きなミュージシャンは基本テレビに出演せず、その番組に出ているミュージシャンも己が知らない人ばかり。彼らに対して何かしらの講釈を行うこともできず、「自分は知らないので何とも言えないですが、流行っているみたいですね」としか言えないのである。

(3)食事の量が多い
つらい。とてもつらい。炎天下出かける先もなく、外に出ても店もない山奥である。やることと言えば専ら室内で本を読むことばかりでろくに体を動かさないのに、きちんきちんと三食たっぷり食事が出され、おやつまでついてくる。腹の中がこなれる前に次の食事が出てきて、量がまた多いのだ。己はもう三十で十代の頃の食欲はない。しかし伝えても実感として沸き起こらないらしいのである。

(4)テレビの人に対し根拠なく暴言が飛ぶ
テレビに向かって好き勝手喋っていると言えばそれまでだが、例えば美しい女優が映ったとき、「こういうのはどうせ料理なんかでけんぞ」と言う。もしかしたら、そう言うことでその場にいる「平凡な容貌の女性」を褒めているのかもしれない。その場にいる男性陣に「容貌だけを重視するべきではないぞ」と伝えているつもりなのかもしれない。ただテレビに映る美しい人はただ美しいだけであり、何の根拠もなく暴言を吐かれる言われなどないのである。

己の両親はそんないい加減なことを口にしなかったし、そんなことをしてはいけないと教えてくれていただけに、ただ悲しい。

(5)家族は一緒に住むのが良いと諭される
祖父母と食卓を囲みながら、「やはり大勢で食事をするのは美味しかろう?」と言われる。そうして、現在父・自分・妹がそれぞれ一人暮らしをしていることに言及されるのである。そうして己や妹の生き方にまで言及されるのである。知っているよ家族の団欒が楽しいってことは! ただそれぞれ事情もあるし、この食卓と比べたら一人でささっと食べる飯の方がずっと美味しいよ! 気楽だから! と思うも流石に口は閉ざしている。

(6)結婚とひ孫を望まれる
良いじゃないかあなた方は四人の孫に恵まれたのだから! それで充分じゃあないかと言いたいが欲望は尽きることがない。良い人はいないか、見合いをしないか、ひ孫を作ってくれ……勘弁してくれ!

ちなみに自分は跡取りもしくは跡継ぎという立場であり、よそ様に紹介されるときには必ずそれを言われている。オーケー、後は継ごう。ただし先は続かないけどな!

(7)男性らしさ女性らしさを望まれる
仕方ないのかもしれないが、その傾向が強い。やれ髪が長い短い、男んじょうはそんなリュックは持ち寄らん、などなど。放っておいてくれよ! このリュックはメンズだよ! 料理が出来るから何だよ! 炊事洗濯なんざ人間として生きるための必須スキルだよ!

(8)欲しいものがない
こんなことを言っちゃあいけないかもしれない。ただ事実として、八月の前半己は非常に忙しかった。疲れていた。くたくただった。そんな中で大分への移動。飛行機と高速バスと自動車を組み合わせてようやく着いたスーパーもない山奥で、己はただ寝たかった。
ただ祖父母は、ずっと家にいてもつまらなかろう、と言って、片道一時間以上かけて己を道の駅とスーパーに連れて行ってくれた。何でも欲しいもんを買うちゃるぞと言われた。しかしその時点で昼に食べた飯がまだこなれていなく、欲しいものもさほどなく、ただただ休息をとりたくて、長旅の末巨峰だけ買って我々は帰ったのだった。
申し訳ないと思ったが、欲しいものが見つからず、親切心はありがたかったが、その温度差がしんどかった。

(9)小遣いをくれる
以上のことにより、どちらかと言うとぐったりしていて、あまり好意的なやりとりが出来ていないにも関わらず、小遣いをくれるのである。いらないと言っても「小遣いをやるのが楽しみだから」と言われ、結局受け取るのである。十三万。小遣いという額だろうか、これが。
そうして自分は、ろくろく期待に応えられてもいないくせに、小遣いをもらってへらへら笑う卑怯者に成り下がるのである。


以上。これが分析の結果であり、帰宅した後己はしばらく鬱々としていた。幼少の頃は屈託なく話が出来たのにいつから出来なくなったのか。そうして、憂鬱を愛する音楽で癒したのであった。

しんどい。申し訳ないが。申し訳ないのだが。



日記録2杯, 日常

2016年8月11日(木) 緑茶カウント:2杯

今日は自分にしては早い時間に起きて「シン・ゴジラ」を観るために映画館に行った。「シン・ゴジラ」を己が知ったのはツイッターのタイムラインだった。映画にあまり関心がないため公開自体を知らなかったのである。ところがある日から突然、フォローしている人々が「シン・ゴジラ」という単語を口々に語り出し、その頻度と勢いたるやオリンピックやワールドカップもびっくりな熱量。これは何か、ちょっと観たくなってしまうじゃあないか。

せっかくだから堪能しようと思いわくわくしながら溶かしバターのかかったポップコーンSサイズとコカコーラLサイズを購入し、両手に抱えて座席について、ふふふこれは気分が盛り上がる、とにやつきながら馬鹿でかいコーラの容器とは明らかに不釣合いなサイズのストローをくわえた。「シン・ゴジラ」とは関係の無い映画の予告編を十五分も見せつけられるのにうんざりし、これがあるから嫌なんだよな、とぐったりしていたらようやく上映開始。場内の明かりが落ち、目の前のスクリーンにようやく目当てのものが映し出された。

終わった。あっという間の二時間。コーラもポップコーンも半分以上残っていた。しかし己は急いで座席を立った。

売り切れたらたまらない。飲みかけのコーラと食べかけのポップコーンを抱えたままロビーに出て売店に向かう。あった! そうして己は半端なコーラとポップコーンとパンフレットを両手に抱えロビーの隅で一人立ち往生しつつ、何とか容器を空にして身軽になって外に出たのだった。

「シン・ゴジラ」は滅茶苦茶面白かった。一人で観に来たことを後悔した。これは……!! これはこれはこれは、もう! 終わった後すぐに、誰かと語り合いたくなる。それが出来ないのが実に惜しい。

絶対最低もう一回は観なければ! と意気込みつつ町を歩き買い物を終えて帰宅。帰宅後も語りたくてたまらず語れないのがたまらなく、パンフレットを読みながら熱を持て余している。

面白かった……。



日記録6杯, 日常,

2016年8月7日(日) 緑茶カウント:6杯

食べ過ぎてぼーっとしている。

昨日の昼からずっと冷麺を食べたかった。しかし冷麺を食べるのは難しい。ラーメンが食べたければラーメン屋に入れば良く、うどんを食べたければうどん屋に入れば良く、蕎麦を食べたければ蕎麦屋の暖簾をくぐれば良い。しかし冷麺を食べたくても冷麺のみを供してくれる店はなく、焼肉屋に入るか自分で拵えるかのどちらかしか選択肢がないのである。

暑かった。日差しがカンカン照りだった。
嫌だった。蒸し風呂のような台所で熱湯を沸かすのは。
そして焼肉屋は閉まっていた。時刻は午後の二時。半端な時間だったのである。

厳しい日差しの中をうろうろし、ようやく観念してつけ麺屋の暖簾をくぐった。味玉をトッピングしたつけ麺はうまかった。しかし、満たされなかった。

そうして満たされなかった昼。夜になるとさらに執着が増し、コンビニを回るも何故か冷麺は品切れ。いっそ焼肉屋に入ろうかと思うも焼肉屋に入ったら焼肉を食べたくなる。時刻は二十三時過ぎ。そこまでがっつり食べたいわけではない。

結局己はろくに夕飯を摂らずに寝て、昼過ぎに起きた。未だ冷麺への執着は消えなかった。こうなればもう自炊するしかない。どうせピクルスのストックも切れているのである。常備菜も作っておきたい。せっかく台所に立つのなら一気に作ってしまえば良い。

勢いに乗じてピクルス、ピーマンとツナの和え物、きゅうりの和え物、豚汁、おにぎりを作り、野菜を刻み、ゆで卵を切り、キムチをスタンバイさせて熱湯に麺をくぐらせた。勢いがあった。とにかく勢いがあった。勢いがあったから二人前の冷麺を作った。だって空腹だったのだ。昨日の昼から渇望していたのだ。いけると思ったのだ。だって勢いがあったから!

丼にこんもりと盛り付けられた冷麺は美しかった。ハム、きゅうり、トマト、キムチの彩が食欲をそそる。早速箸をつけた。食べた。食べている間に思った。一人前で良かったな、と。だってさ、冷麺って固いから。よく噛むから。噛んでいる間に満腹中枢が刺激されるんだよね。

とはいえ食べすぎに感じるのも一時的なものだろう、しばらくすれば落ち着くはずだ、と思ったものの、空きっ腹に詰め込んだ冷麺はなかなか重く、消化のために胃袋に多量の血液が集まっているのか、食後ずーっとぼーっとしていて、何だか眠くなってきて、あぁ、このまま布団に入って本を読みながらうつらうつらするのも悪くないかもしれない、と思い始めている。

そんな日曜の夜である。