日記録0杯, 日常

2017年9月18日(月) 緑茶カウント:0杯

あ、これはやばいやばい、と思いながら、パン屋で買った月見バーガーの入った袋を卓袱台に置き、ベッドに背をもたれてゆるゆると床に座り込んだ。

朝十時に起きて、うわー何て良い天気なんだ! と大喜びで布団を干してシーツ、布団カバー、枕カバーを洗濯し、洗い終わるのを待つ間マットの上で二度寝して、洗濯機に起こされてシーツを干し、室内に干しっぱなしにしていた洗濯物を畳み、モップをかけ、よっしゃ飯でも買ってくっかとパン屋に出かけるまでの間、思えば水こそ飲んだものの全く塩分を摂っていなかった。

空腹にも関わらずあるのは食欲よりも気持ち悪さ。冷えた麦茶を飲みつつ目の前の月見バーガーを睨む。恐らくごくごく軽い熱中症だ。水分は摂っているので、塩分を摂れば回復するはず。しかし軽い吐き気のする今、こいつを食べて大丈夫なものか。食塩でも舐めた方がマシなんじゃないか。

ええい、ままよ! 思い切って月見バーガーに齧りつく。ボリュームたっぷりの月見バーガーは二センチの厚さに盛られた千切りギャベツがみっしりで、その上に分厚いハンバーグ、ケチャップ、そして目玉焼きに、それらをサンドする美味しいパン。思いっきり顎を開いて噛み付くも一口目ではキャベツとパンしか入らない。これじゃあ塩分が得られないのでシャクシャクとキャベツを飲み込んでまたガブリ。よっしゃ、ケチャップとハンバーグと目玉焼きが口の中に! 美味しい!! 全身が欲したしょっぱい味だ!!

もっしゃもっしゃと月見バーガーを食べ終えると吐き気は無くなっていた。冷蔵庫から巨峰を取り出して一房つまみ、水を飲んだ。ほう、と人心地。適度に冷房の効いた部屋の外は太陽がギラギラと照っている。夏だなぁ、と思った。



日記録0杯, 日常

2017年9月17日(日) 緑茶カウント:0杯

風が強くなってきたなぁ、と外の音を聴きながら本を読んでいる。

このところはちまちま往生要集を読んでいる。地獄や極楽の詳細や往生の仕方が書かれた本だ。この本をもとに数々の地獄絵が描かれたそうで、地獄の描写と言ったら精細かつ陰惨極まりない。針山に上らせられたり、逆さまにされて溶けた銅を肛門に注がれたり、強風で大空に飛ばされてくるくる回ったところに全身を強い風に叩きつけられてバラバラになったり、死骸と糞の泥沼に落ちて虫に喰われた挙句、生き返ってまた責めさいなまれたりと、とにかく描写がしつこく気持ち悪く、好き好んで読んでいるくせにだんだん嫌な気分になってくる。誰だよこんな細かい設定考えたの。

そして特筆すべきは出てくる数字がとにかく大きいこと。八万由旬、五百億の虫、無量百千年、無量百千万億無数の年歳などなど、その壮大さは限りない。一由旬は一説によると14.4キロメートルとのことだが、この「由旬」が出てきたら己は「めっちゃ広い」と雑に読解している。ちなみに殺生を犯した者が落ちる等活地獄は我々人間が住む世界の一千由旬下にあるそうだ。一千由旬は14,400キロメートルで、地球の直径は12,742キロメートルと考えるとその距離の遠さは果てしない。

そうしてちまちま読むそれは岩波文庫の往生要集で、書き下し文で書かれたものだ。脚注と補注に頼ってちまちまちまちま読みつつ、お、意外と読めるじゃんと喜びながら「一万由旬の広さって何だよ」と心の中でつっこんでいる。このようにしばらくちまちまちまちまちまちま往生要集を読む日々の中、久しぶりに現代語の本に触れたときの目の覚めるような感覚! うわあ、滅茶苦茶読みやすい!! 紙がパッと白く輝き、意味がするする入ってくる快感を得た。大分読みなれたと思ったがやっぱり脳みそ使ってたんだな! 思わぬところで現代語の読みやすさに感銘を受けつつ、またちまちまちまちまちまちま本を読む。面白い。



日記録0杯, 日常, 重陽の節句

2017年9月9日(土) 緑茶カウント:0杯

昼過ぎまで寝て、漫画を読んでサンドイッチとピクルスをつまみつつビールを呑み、また眠る。そんな重陽の節句とは何の関係ない一日を過ごした重陽の節句であった。

七草粥を食べる一月七日の人日の節句、雛祭りを祝う三月三日桃の節句こと上巳の節句、子供の日として祝われる五月五日端午の節句、織姫と彦星の年に一度の出会いの日、七月七日、七夕の節句。それらに比して注目度が低く、知名度も低い九月九日重陽の節句。だから己はこの重陽の節句だけを毎年贔屓しているが、毎年格別これといって特別なことをせずに過ごしている。

というわけで今日も終わるが、今年も良い重陽の節句であった。おめでとう九月九日。おめでとう重陽の節句。



日記録2杯, 日常

2017年9月3日(日) 緑茶カウント:2杯

なれるはずだ、なれるはずなのだ。何故なら己はオタクだからだ。

オタクである。はまれば一直線にその対象を愛で、研究する性質を己は持っている。つまりこの性質をうまく利用できれば、己は掃除オタクになることができるのである。では、どうすればなれるのか。大事なのは「愛でたい」と思う何かしらの存在である。

先週思い切って収納ケースを増やし、整理整頓をして掃除をした結果、部屋は綺麗になった。快適であり、気持ちの良い部屋ができた。この快感を愛でる存在になりたい。この快感を愛する存在になりたい。そのためにはどうするべきか。必要なのはこまめな掃除だ。では、どうしたらできるだろう?

考えてみた結果わかったことがある。それは、己は掃除機の出し入れの面倒くささとあの音が嫌いだということ。つまりそれを解消すれば掃除ができるのだ。というわけで、ハンディモップとクイックルワイパー的なモップを中心に掃除をすることにした。時間は夜、風呂桶を洗い、湯を貯めた後のタイミング。どうしたって年中三百六十五日風呂は洗うのだ。その風呂場から自室へのわずかな帰り道にモップを手に取り、歩くついでに床を拭き、部屋の中をさっと清める。ついでにハンディモップでちょこちょこと棚やテレビを拭いてまわる。これをどうにか習慣化しよう。

そうして続けて一週間、今のところは続いていて、特に精神的負荷もない。また、追加でシンクや冷蔵庫に使える重曹シートも購入した。手軽に拭き掃除ができる優れものである。これらを投入すればどうにか、快適な生活を手に入れられるかもしれない。何てったって己はオタクなのだ。掃除オタクの道へと歩む選択肢もあるのだ。そうでなくても、炊事と洗濯ができている現在、掃除ができないわけがない! そう信じて頑張りたい。頑張って快適を手に入れようと思う。



日記録2杯, 日常

2017年8月28日(月) 緑茶カウント:2杯

二年間、顔にゴミが埋まっていた。ゴマ粒二つほどのカサカサしたゴミが顔の側面に埋まっていた。

それはある日突然現れた。現出した。確か顔を洗っているときに気付いたのだ。水を撫でる指先に違和感があり、鏡で確認したところ顔の側面、こめかみの手前あたりがぷくっと膨れていた。触ると固く、他の皮膚と比べると若干青白かった。その日にあった呑み会で久方ぶりに会った友人に「お前そこどうしたんだ?」とこめかみを指して聞かれ、随分細かいところに気付くものだと感心したことを覚えている。

それからそのデキモノは消えることなくあり続けた。気にはなったが、直に消えるだろうと思い放っておいた。しかし消えない。ずっと消えない。ずっとそれはそこにあった。なるほど、これはイボか何かだろうか、と思いつつ放置を続け二年経ったある日、そのデキモノが変色していることに気付いた。

それはちょうどほくろのようだったが、他のほくろと違うのはその箇所だけプツリと出っ張っていることだった。

何となく嫌な気持ちがした。気持ちが悪かった。そこで、ちょうど汗によるかぶれで悩んでいたところだったので皮膚科に行くことにした。するとどうしたことだろう、二年間も放っておいて平気だったくせに急に心が落ち着かない。ソワソワして、ドキドキして、暗い気持ちになる。ちょっと前までただの邪魔なデキモノだったそれが、悪性の腫瘍であったらどうしよう、と心配の種に姿を変じ、まるで審判を待つ人のような心地で待合室に座り続けることになった。

待つこと一時間。結果、それはイボでも悪性の腫瘍でもなく、硬化した吹出物だった。あっても問題は無いがせっかくなので取り除きましょう、と皮膚科医に診察台へと案内され、靴を脱いで横になると看護士と医師が真上から覗き込むのが感じられる。そうして直後、泣き叫ぶほど痛いわけではないが、やや痛い、くらいの力で、ぎゅううううううう、ぎゅううううううう、ぎゅううううううう、と力いっぱい皮膚を絞られ、吹出物の中身を出してもらった。

「終わりましたよ」と声をかけられ、いったいどんなものが埋まっていたのだろう、見たいな、と思っている最中、目の前に突き出されたのがガーゼに包まれたカッサカサのゴミ。茶色で、乾いていて、ゴマ粒二つほどの大きさのゴミ。どう見てもゴミ。ただのゴミ。

途端、やけに冷静になった頭で思ったことは、二年間も己は顔にゴミを埋めて生活していたのか、ということだった。

ゴミは病院で処分された。ゴミの埋まっていたところは平坦になった。触るとツルツルしていて、何もない。この箇所に二年間もゴミ。しかも顔に。顔の側面を撫でつつ何とも言えない気分になった。ゴミ。顔の側面に、ゴミ。ゴミ。