日記録0杯, 日常

2018年9月30日(日) 緑茶カウント:0杯

何とかギリギリ滑り込みセーフ! 十月一日に閉幕を迎える荒木飛呂彦原画展に行き、ちょいとその前に腹ごしらえを、と美術館の中にあるカフェでハッシュドビーフをもぐもぐと食べ、お腹一杯になって入り口から伸びる列に並んだ。

チケットが日時指定ということもあり、さほど待つことなく列はスムーズに進む。せっかくなので荒木先生が語る解説が聴ける音声ガイドを借りてソワソワしながら中へと入る。原画はテーマごとに分けて展示されていて、天井高くまで引き伸ばされた大きなカラーイラストを間近で眺める興奮にドキドキし、単行本で見るよりもずっと大きな原画にぽっこり乗せられた盛り上がったホワイトに目を奪われ、全体的にとても修正が少ないことに感服した。

嬉しかったのは六部の終盤、徐倫がエンポリオを逃がし、プッチ神父に立ち向かう瞬間の原画を見られたこと。あのシーンは何度見てもぐっと来るのだが、原画の迫力を前にすると胸に迫るものが凄まじく、涙の膜が眼球をじんわりと覆い、目が熱くなった。

この原画展のフィナーレとも言える、大型原画の書き下ろしも素晴らしかったなぁ。あれをあんなに近くで凝視出来て良かったと切に思う。しばらく自分はずっと疲れていて、好きなことをするにもエネルギーが必要でなかなか動けずにいたのだが、良いなぁ。自分の身長を超える大きな紙を前にして、インクをこぼさないようにペンの向きに気をつけながら線画を描き、途中で色が無くならないようたっぷりと絵の具を溶かし、壁に立てかけた紙に絵の具を乗せて、こぼれ落ちないよう苦心する荒木先生を見て、楽しそうだな、と思った。

しばらくあまり絵を描いていない。自分の好きなことは何だろう。それは絵かもしれないし絵ではないかもしれないが、好きなことを続けていきたい、どんなときにも楽しんでいたい、と思った。

あぁ、そうだな。そうなりたいものだな。何歳になっても。
三時間半じっくり原画を見て、あまりに集中して見たものだからすっかりくたくたになって、帰りの電車で痺れた脳を休めながらぼんやりそんなことを思った。そうありたい。そうなりたい、と。



日記録0杯, 日常

2018年9月15日(土) 緑茶カウント:0杯

弱り目に祟り目とはこのことか。現在、ちょっとしたトラブルに巻き込まれていてちょいと余裕が無い。報告ができるのは諸々落ち着いて人心地着いた頃だろうか。

いやあ、人生何があるかわからないね! 困ったものだよ!

とはいえそれなりに健康に楽しく過ごしているのでご安心を。今日は核P-MODEL大阪公演のライブ配信を観てハッピーな気持ちになったし、来週には筋少のイベントもある。楽しいこともたくさんあるのだ。

しかし精神的疲労も甚だしく困ったものだなぁと思う次第。体重が三キロ減ったが運動の成果かストレスの結果かわからないぜ。困ったものだよ。ははは。

ま、最後には笑い話になるのでご期待ください。ね!



日記録0杯, 日常, 重陽の節句

2018年9月9日(日) 緑茶カウント:0杯

本日は重陽の節句でございます。五節句の中の一つの菊の花の節句。ただし一番目立たず、端午の節句や七夕と違い人々から忘れ去られるどころか、そもそも知られていない節句。故に己は毎年この日に、今日は重陽の節句だよと語り歩いているのです。何故なら、何だか可哀想だから。

そんな重陽の節句の本日、酒に菊の花を浮かべて呑む、といった風流なことはせず、いつも通りビールを傾けて肴をつまみつつ観ていたのは仮面ライダーオーズの最終回。長らく、最終回を観るのが寂しくて、物語が終わってしまうのが切なくて観ることが出来ていなかったのだが、本日ついに最後まで観た。アンクの最期も何もかも見届けた。この目で。

あぁ、こういう物語だったのか。

ある程度察していたとはいえ寂しい。思い出すのは平ジェネの映画を観に行ったとき、映画が終わった後に一つ前の座席の女性がわんわん大泣きしていたこと。友人と思われる女性が背中を撫でてなだめていて、過去作を知らない自分には読み取れなかったが、きっと涙を流すだけの理由がそこにあったに違いない、と確信を得つつその場を去ったのだった。

あぁ、こういうことだったのだなぁ。

平ジェネをきっかけに仮面ライダーに触れた己はまだビルドとオーズしか最終回を見届けていない。そしてどちらも円満解決なハッピーエンド、ではなく切なさと寂しさが残る後味で、仮面ライダーとはどれもこんなに悲しいのだろうかと考えつつ杯を傾けている。

さて、ではジオウはどこへ向かうだろうか。まだまだ先が見えないまでも前作と深く関わっているだけに興味深い。どんなエンドが観られるのだろう。まだ気が早いが、楽しみに思っている。



日記録2杯, 平沢進, 日常

2018年9月7日(金) 緑茶カウント:2杯

今日は時間があったのでたらたらと家具屋を回り、己が欲しい家具はどれなのだろうなぁと思案しつつ歩いて好きな服屋に寄り、新作の発売日を教えてもらって帰った。

手にはビールが三本とカマンベールチーズ。ちょいと晩酌でも楽しもうと思って。

冷凍庫からこの間作ったラタトゥユを出し、解凍して器に盛る。チーズと共に最寄のパン屋で買ってきたガーリックトーストも並べ、頭から湯気を立てながらどかりと座る。風呂上りの一杯に美味しい肴。そして最高のつまみは平沢進の新譜。

パカリと蓋を開け、CDをセットする。
穏やかでゆったりとした音楽が部屋に流れた。

今回は核P-MODEL名義だった故激しい曲を期待していただけに一瞬拍子抜けしたが、一切の激しさがない平穏は耳に心地良く、空間を気持ち良く揺らした。若干、物足りないとも思ったが。
しかしきっと回数を重ねるうちに見えるものがあるのだろう。今までの他の楽曲と同じように。

核P-MODELでこれを作ろうと思ったヒラサワの心境とはどんなものだったのだろう、と考えながらビールを傾ける。美味しい。壁を揺らす音を楽しみながらまったりと過ごす夜は至福であった。

あぁ、楽し。



日記録0杯, 日常

2018年8月28日(火) 緑茶カウント:0杯

半ば呆然としながらテレビの前に佇む。これは……ハッピーエンドなのだろうか?

それはジョジョ六部の読後感に似ていた。世界は救われた。しかし命を賭けたヒーローの活躍を知る者はこの世界のどこにもいない。共に戦った仲間すらその記憶を持たない。ただ一人、相棒の万丈を除いては。

びっくりしたよ。これまでの人生で仮面ライダーに出会う機会を持たず、オーケンの出演をきっかけに劇場版を観て、それから本編の仮面ライダービルドを観るようになった人間にとって、このラストは予想外だったんだ。

それはどこかに楽観視している自分がいて、無意識のうちに子供を対象としているからにはと安心しきっていたからだろう。またもう一つの理由としては、劇場版でラスボスの最上魁星が倒された後、割れた大地が事件の痕跡も残さず綺麗に元通りになったこと。だから途中で死んだ仲間が生き返るかはさておいて、何もかもが解決し、晴れやかで気持ちの良いハッピーエンドが訪れると思っていたのだ。

まさかこんな終わり方だったとはなぁ。

必死で戦ったヒーローを讃える者は誰もいない。感謝する者もいない。最終回を観終わった後、ビルド後夜祭を観に渋谷へ出かけ、映画館で「平成ジェネレーションズFINAL」と最新映画の「仮面ライダービルド Be The One」を観た。仮面ライダーは悪と洗脳された民衆に追われ、追い詰められながらもLOVE & PEACEのために戦うヒーロー。平ジェネで「LOVE & PEACE!」とにこやかに笑う姿を見たときは、この言葉にそれほどの重みがあるとは思っていなかったよ。

自分でも驚くほど悲しく思ったのは美空が戦兎を思い出さなかったことだ。本編で丁寧に二人の信頼関係と擬似家族のような間柄が描かれた。確かに戦兎と美空には特別な絆があった。しかし、「絆」から奇跡が生まれることはない。ビルドは「科学」の物語だ。よって、物語の中の科学で説明がつかない現象はどうしたって起きないのである。例え視聴者が望んだとしても。

シビアだ。とてもシビアだ。決して子供向けだからと舐めているつもりはなかった。なかったけど驚き、そして悲しく思った。きっと大団円で終わるに違いないと思っていたから。

オーケンの出演をきっかけに毎週観るようになり、気付けば物語の展開を楽しみに思うようになって、登場人物に愛着を持つようになった。カズミンが活躍するたびに喜び、美空への想いに共感した。子供の頃は楽しみにしている番組がいくつもあったが大人になって徐々に減り、ビルドを楽しみに思う感覚はどこか懐かしく嬉しかった。己が子供の頃には仮面ライダーは放映されていなかったというのに、大人になった今こうして楽しんでいるのは不思議な縁に感じた。

オーケンファンの自分としては、劇場版のラスボスである最上魁星がビルド本編にも深く関わっていたことが嬉しかった。最上がやろうとしたことと戦兎がやったことの共通性と、二つの違い。最上は自己の欲望を叶えるため、戦兎は世界を救うため。そして、明示されてこそいなかったものの、結果的にエボルトから世界を救うためにもう一つの地球を犠牲にした戦兎。

もう一つの地球の人々にとっては、最上魁星も桐生戦兎も大差なかったかもしれない。

もう一つの地球がエグゼイド側の世界だったかどうかはわからない。しかし、もしそうだったとしたら、最上魁星の再来を暗示するかのように迫り来る地球を見たレジェンドライダー達は何を思っただろう。そしてそれをやったのがかつて最上を倒すため、共に戦った戦兎と知ったなら。

ハッピーエンドと言い切れないもやもやが残るのはこのあたりも由縁だろう。では、戦兎は間違っていたか? そうとは言い切れないし、思いたくない自分がいる。だからこそ考え込んでしまう。

もし皆が生き返って、大団円なハッピーエンドだったらどうだろう。きっとスッキリして晴れやかな気持ちになれただろう。
でも己は、このもやもやが残るビルドの終わり方が好きなんだ。

あぁ、なるほどなぁ。そういうことか。大人も子供も夢中になる理由がとても良くわかった。そして、それを知れた自分はきっと運が良い。
来週もまた同じように録画を続けよう。次のジオウはどんな物語を見せてくれるだろう。楽しみだ。