仮面ライダービルドの最終回を観て
2018年8月28日(火) 緑茶カウント:0杯
半ば呆然としながらテレビの前に佇む。これは……ハッピーエンドなのだろうか?
それはジョジョ六部の読後感に似ていた。世界は救われた。しかし命を賭けたヒーローの活躍を知る者はこの世界のどこにもいない。共に戦った仲間すらその記憶を持たない。ただ一人、相棒の万丈を除いては。
びっくりしたよ。これまでの人生で仮面ライダーに出会う機会を持たず、オーケンの出演をきっかけに劇場版を観て、それから本編の仮面ライダービルドを観るようになった人間にとって、このラストは予想外だったんだ。
それはどこかに楽観視している自分がいて、無意識のうちに子供を対象としているからにはと安心しきっていたからだろう。またもう一つの理由としては、劇場版でラスボスの最上魁星が倒された後、割れた大地が事件の痕跡も残さず綺麗に元通りになったこと。だから途中で死んだ仲間が生き返るかはさておいて、何もかもが解決し、晴れやかで気持ちの良いハッピーエンドが訪れると思っていたのだ。
まさかこんな終わり方だったとはなぁ。
必死で戦ったヒーローを讃える者は誰もいない。感謝する者もいない。最終回を観終わった後、ビルド後夜祭を観に渋谷へ出かけ、映画館で「平成ジェネレーションズFINAL」と最新映画の「仮面ライダービルド Be The One」を観た。仮面ライダーは悪と洗脳された民衆に追われ、追い詰められながらもLOVE & PEACEのために戦うヒーロー。平ジェネで「LOVE & PEACE!」とにこやかに笑う姿を見たときは、この言葉にそれほどの重みがあるとは思っていなかったよ。
自分でも驚くほど悲しく思ったのは美空が戦兎を思い出さなかったことだ。本編で丁寧に二人の信頼関係と擬似家族のような間柄が描かれた。確かに戦兎と美空には特別な絆があった。しかし、「絆」から奇跡が生まれることはない。ビルドは「科学」の物語だ。よって、物語の中の科学で説明がつかない現象はどうしたって起きないのである。例え視聴者が望んだとしても。
シビアだ。とてもシビアだ。決して子供向けだからと舐めているつもりはなかった。なかったけど驚き、そして悲しく思った。きっと大団円で終わるに違いないと思っていたから。
オーケンの出演をきっかけに毎週観るようになり、気付けば物語の展開を楽しみに思うようになって、登場人物に愛着を持つようになった。カズミンが活躍するたびに喜び、美空への想いに共感した。子供の頃は楽しみにしている番組がいくつもあったが大人になって徐々に減り、ビルドを楽しみに思う感覚はどこか懐かしく嬉しかった。己が子供の頃には仮面ライダーは放映されていなかったというのに、大人になった今こうして楽しんでいるのは不思議な縁に感じた。
オーケンファンの自分としては、劇場版のラスボスである最上魁星がビルド本編にも深く関わっていたことが嬉しかった。最上がやろうとしたことと戦兎がやったことの共通性と、二つの違い。最上は自己の欲望を叶えるため、戦兎は世界を救うため。そして、明示されてこそいなかったものの、結果的にエボルトから世界を救うためにもう一つの地球を犠牲にした戦兎。
もう一つの地球の人々にとっては、最上魁星も桐生戦兎も大差なかったかもしれない。
もう一つの地球がエグゼイド側の世界だったかどうかはわからない。しかし、もしそうだったとしたら、最上魁星の再来を暗示するかのように迫り来る地球を見たレジェンドライダー達は何を思っただろう。そしてそれをやったのがかつて最上を倒すため、共に戦った戦兎と知ったなら。
ハッピーエンドと言い切れないもやもやが残るのはこのあたりも由縁だろう。では、戦兎は間違っていたか? そうとは言い切れないし、思いたくない自分がいる。だからこそ考え込んでしまう。
もし皆が生き返って、大団円なハッピーエンドだったらどうだろう。きっとスッキリして晴れやかな気持ちになれただろう。
でも己は、このもやもやが残るビルドの終わり方が好きなんだ。
あぁ、なるほどなぁ。そういうことか。大人も子供も夢中になる理由がとても良くわかった。そして、それを知れた自分はきっと運が良い。
来週もまた同じように録画を続けよう。次のジオウはどんな物語を見せてくれるだろう。楽しみだ。