日記録0杯, 日常,

2018年10月23日(火) 緑茶カウント:0杯

作りたいものと食べたいものが一致しないとき、人はどうするべきだろう。

少しの間料理から遠ざかっていて、久しぶりに包丁を握ったとき。トントンとまな板を叩く金属の音を聞き、自らの右手が鳴らすリズミカルな感触を得て、あぁ、料理は楽しいなと思った。好きなんだ、何だかんだ言って。面倒臭くても好きなのだ。

そのうえで思った。作ってみたことのない料理にチャレンジしてみたいと。
具体的には、刺身をさばき、海老をボイルし、貝を抉り取りたいと。

どれもやったことがない。何故なら己は水棲生物が基本的に苦手だからだ。
魚であれば火が通れば食べられる。ただしその他は基本的においしく感じない。生き物としては可愛いと思う。ただし口に入れても嬉しくない。

故に、イカをさばいたことも無ければ生のタコをまな板に乗せたこともなく、貝はもちろん、パックの刺身を買ったこともない。

しかしやってみたい。でも食べたくない。

この欲求をどのように処理すべきか。わからない。故に悩んでいる。
あぁ、触ってみたいなぁ。



日記録4杯, 日常,

2018年10月18日(木) 緑茶カウント:4杯

こうも寒くなってくると、屋台の暖簾をくぐって味の染みた大根とごぼう巻をつつきながら、くいっと熱燗を傾ける……なんて背中に憧れる。

ところが残念なことに、とても残念なことに。己は日本酒が苦手なのである。

日本酒も焼酎もピンと来ず、美味しく呑めるのはビールばかり。ハイボールもあまり得意ではなく、好んで呑むのはウイスキーの香りが消えるほど大量にレモンを絞ったレモンハイボールのみ。何にせよ呑めるのは冷たい酒ばかりで、お湯割りや熱燗とは縁がないのだ。

故に憧れる。あの温かな湯気に含まれるアルコールと出汁の香りを嗅ぎながら、胃の腑の底に火を点す寒い夜の晩酌に。

あぁ、良いなぁ。やってみたいなぁ。
いつか楽しめるときが来れば良いなぁ、と願って。



日記録0杯, 日常, 漫画

2018年10月7日(日) 緑茶カウント:0杯

今も覚えている。十年以上前に一人暮らしを始めたその日、何が嬉しかったって、これでもう二度とちびまる子ちゃんを観ないで済むのだと思ったこと。
そして実際、遠ざかったことによりしっかりとストレスから解放され、以来ずっと自分はちびまる子ちゃんとさくらももこを苦手だと思っていた。嫌いだと思っていた。嫌悪していた。

さくらももこが亡くなったとき、ショックを受けた。
言葉にならなった。
何故なら己はずっとちびまる子ちゃんのアニメを観ることが苦痛で、嫌で、故にさくらももこが苦手だったからだ。

しかし幼少期に真似をして描いた絵はマリオとヨッシーとサムライスピリッツとちびまる子ちゃん。当時の己は確かに、ちびまる子ちゃんが好きだった。
そのことを知りながらも、嫌悪の方がずっとずっと強かった。

アニメで描かれる藤木へのいじめの描写が笑いとして扱われることが嫌だった。明らかに藤木は悪くないのに糾弾される様子に辟易した。とりあえず藤木を卑怯と罵っておけという風潮に異常を感じた。
故に、こんなクソみたいなアニメが国民的アニメと尊ばれ、ちょっと下ネタが露出するだけのクレヨンしんちゃんが下品だと非難されることに納得いかなかった。下品以上に、ずっと藤木いじめの方がひどいだろうと。何故そっちを問題視しないのかと。

高校生までは家族四人で暮らしていた。日曜日にはサザエさんとちびまる子ちゃんを観るのが常だった。己はこのニ作品を観るのが本当に嫌だった。しかし、自分の都合でチャンネルを変えることも団欒の場から抜け出すこともできなかった。

だから嬉しかったんだ、一人暮らしをして、初めてサザエさんとちびまる子ちゃんと遭遇しない日曜日を手に入れて。

以来、一度もそのニ作品は観ていない。ずっと平和に過ごしていた。
その中で。

かつて、己はちびまる子ちゃんが好きだった。実家の本棚にあった漫画を読んでいた。面白かった。幼少時に楽しく読んだ漫画と高校生の頃に観たアニメは繋がるようで繋がらないような、そんな不可解な印象がある。

さくらももこが亡くなり、ショックを得た。
どうしてショックを感じたのだろうと考えて、アニメの、一番初めの頃の、ごく初期のちびまる子ちゃんを観た。

面白かった。

どうかと思う毒や共感できない描写もありつつも、そこには一人の小学生の日常が描かれているだけだった。あの、いじめを笑いに変える気持ち悪さは今のところ、ない。
画面を観ながら呆然とした。だってそれは、あまりにも屈託なく面白かったから。

あぁ、そうか。そうなんだなぁ。
己が苦手に思っていたのは、さくらももこ自身ではなかったのかもしれない。ただの、「ちびまる子ちゃん」として醸成していった結果だったのかもしれない。
気付いた途端、ずっと胸に抱えていたわだかまりが溶けた気がした。身勝手だなぁ、と思った。少しだけ、安心した。

今度実家に帰ったら単行本を読んでみよう。当時の感覚を掘り起こせたら、嬉しい。



日記録0杯, 日常

2018年10月6日(土) 緑茶カウント:0杯

深夜に干しっぱなしにしていた洗濯物を畳んでいたら、ブゥンと羽ばたくものがあった。思わず身構え、着地した先を見やればそれはゴキブリでも蜂でもない四角くて平たい見慣れた姿。ザラザラした茶の色合いが美しいカメムシだった。

ガスを噴射されては困るが、刺激しなければ害は無い。とはいえずっとここに居てもらうわけにもいかないので、彼が着地した枕を手に取り、サッシをカラカラと開けて闇に手を伸ばし、枕を揺すぶった。

パタンとサッシを閉じ、カチャリと鍵を閉める。外では風が轟々吹いていてやかましい。何の歓待もせず強風の中に帰したことに罪悪感がないでもないが、きっと彼なら元気にやっていってくれるだろう、と何も知らないくせにそう自己完結して満足する。

まぁ、湿った洗濯物に虫が潜むのはよくあることだ。いつだったかなぁ。子供の頃にパンツを穿いたら、中にミツバチがいて、お尻を刺されてびっくりした記憶がある。あのときは泣いたかどうだったか。ミツバチも災難だったよなぁ。

思い出を懐かしみながら残りの洗濯物を畳む。一つだけ不思議に思うことは、彼がいつから潜んでいたかということ。というのも、己は基本的に洗濯は部屋干ししかしないからね。

ずっといたのだろうか。いつからいたのだろうか。うちは居心地が良かっただろうか。窓ガラスを揺るがす風の音を聞きながら思う。まぁ、またいつか気が向いたらいらっしゃい。



日記録0杯, 日常

2018年9月30日(日) 緑茶カウント:0杯

何とかギリギリ滑り込みセーフ! 十月一日に閉幕を迎える荒木飛呂彦原画展に行き、ちょいとその前に腹ごしらえを、と美術館の中にあるカフェでハッシュドビーフをもぐもぐと食べ、お腹一杯になって入り口から伸びる列に並んだ。

チケットが日時指定ということもあり、さほど待つことなく列はスムーズに進む。せっかくなので荒木先生が語る解説が聴ける音声ガイドを借りてソワソワしながら中へと入る。原画はテーマごとに分けて展示されていて、天井高くまで引き伸ばされた大きなカラーイラストを間近で眺める興奮にドキドキし、単行本で見るよりもずっと大きな原画にぽっこり乗せられた盛り上がったホワイトに目を奪われ、全体的にとても修正が少ないことに感服した。

嬉しかったのは六部の終盤、徐倫がエンポリオを逃がし、プッチ神父に立ち向かう瞬間の原画を見られたこと。あのシーンは何度見てもぐっと来るのだが、原画の迫力を前にすると胸に迫るものが凄まじく、涙の膜が眼球をじんわりと覆い、目が熱くなった。

この原画展のフィナーレとも言える、大型原画の書き下ろしも素晴らしかったなぁ。あれをあんなに近くで凝視出来て良かったと切に思う。しばらく自分はずっと疲れていて、好きなことをするにもエネルギーが必要でなかなか動けずにいたのだが、良いなぁ。自分の身長を超える大きな紙を前にして、インクをこぼさないようにペンの向きに気をつけながら線画を描き、途中で色が無くならないようたっぷりと絵の具を溶かし、壁に立てかけた紙に絵の具を乗せて、こぼれ落ちないよう苦心する荒木先生を見て、楽しそうだな、と思った。

しばらくあまり絵を描いていない。自分の好きなことは何だろう。それは絵かもしれないし絵ではないかもしれないが、好きなことを続けていきたい、どんなときにも楽しんでいたい、と思った。

あぁ、そうだな。そうなりたいものだな。何歳になっても。
三時間半じっくり原画を見て、あまりに集中して見たものだからすっかりくたくたになって、帰りの電車で痺れた脳を休めながらぼんやりそんなことを思った。そうありたい。そうなりたい、と。