重い重い気分で食欲もすっかり失せていたが、食べたい意欲なんぞ全く持っていなかったが、今自分はここに行った方が良いのだろうと判断し、月に一度か二度顔を出す中華料理屋の暖簾をくぐったのであった。
まず二年前。己はあることに全く納得出来ずにいた。その人が良いというものを全く良いとは思えず、むしろ愚の骨頂とまで思っていた。だが自分はその道に関して無知であり未熟だったので、その人の言葉に従った。常識的に考えればありえないと思われるが、それは単に自分が固定観念に囚われているだけかもしれない。挑戦は大切だ。まずやってみることだ。
そして欺瞞の一年間が過ぎ、その人がいなくなった後に現れた新たな人が、一年の間に積み上げられた様々なそれぞれを一つずつ破壊していった。そしてこのときようやく、「あぁ、やっぱりあれはありえなかったんだ」と知ることが出来てほっとしたのである。
くだらない、馬鹿みたい、阿呆らしい、ありえないと思っていたものが一つ一つ潰されるたびに自分の価値観が回復されていくように感じた。嬉しかった。清清しく思った。その解放感はしばらく続いたが、今日になって揺り戻しが来た。その過去の一年間にも不満を抱えていたものの、飲み込むことは出来ていたが、今の自分の立ち位置から当時を思い返してみると、あれは本当に嫌な一年間だった、と過去の自分が封じ込めようとしていた苦しさに気付いてしまったのだ。
そして。破壊されることで自分の正当性が認められた思いはしたが、それでもその破壊されたそれぞれは、積み重ねてきたそれぞれは、押し付けられた無理難題に応えるべく必死になって努力して自分が積み重ねたものだったので、あれはいったい何だったんだろうと、ひどく虚しくなったのだ。
あぁ、やっぱりあのとき反論出来れば良かったな、こんな無意味なことに労力を費やして何になるのかと言えれば良かったな、皆あんたの自己満足だろと指摘してやれれば良かったな、助け舟が欲しかったな、辛かったな、と溢れ出す悲しさ、滅入っていく心。多分きっと、このまま家に帰ったらドツボにはまってしまうだろう。それはそれで被虐的な気分に浸れて気持ちが良いかもしれないが、でも、ここはやはり人のいるところに行くべきじゃないかな。
その中華料理屋には主がいる。おかみさんの友人か常連か両方か、その正体はよくわからない。聞こえてくる会話から察するに毎日のように入り浸っているらしい。主は客であるにも関わらず、他の客の食べた後の皿を片付け、布巾で卓を清め、醤油を取ろうと身を乗り出した客のために醤油とラー油と酢の瓶を寄越してやりながら、お湯で薄めた焼酎を呑んでいる。
おかみさんは主の相手をしながら他の客にも声をかけ、お茶が少なくなれば注ぎに行きつつ料理をし、呑みすぎた酔っ払いに注意をしてやりつつ、月に一度か二度しか顔を出さない自分のことも覚えてくれ、「いっしょの?」と聞いて味噌ラーメンと餃子を用意してくれる。料理が来るまでは暇になるが退屈はしない。おかみさんの人柄によって作られた空間に身を置くことがひたすら心地良いのである。そしてまた美味いのだ、味噌ラーメンと餃子が。だから自分はずっと同じものばかり注文してしまうのである。
今日も店は繁盛している。おかみさんは主と会話をしているが、同時進行で他の客とも会話をし、「ご馳走様!」「美味しかったよ!」「寒くなってきたけど風邪引かないでくれよ!」と食べ終わった人は小銭とともに言葉を置いて店を出て行く。自分は注文と会計のときのみおかみさんと言葉を交わすが、その他はだいたい放っておいてもらえている。あぁ、楽。
店を出る頃には嫌な気持ちは薄らいでいた。やりきれない思いはあるが、乗り越えるしかない。と、少しだけ前向きな気持ちになって。