日記録4杯, 日常

駅の土産物屋で土産を物色していたら、個包装の小さなあられを籠一杯に抱えたおばちゃんが現れ、「試食ですよ~。どうぞ召し上がってくださいな~」と言って二つほど手渡してくれた。そのあられは食べたことがあり、何度か土産にしたことがあるのでもっと目新しいものを、と思っていたが、改めて食べてみると変わらない味、安定の美味しさで、まぁこれなら誰でも喜んでくれるだろうし、と詰め合わせを一つ購入することにした。

するとおばちゃん。詰め合わせを一袋手に取った瞬間、「あら~ありがとうございます、お買い上げのお礼におまけつけちゃう。これいっぱい食べてってね」と言って、籠の中のあられを一掴み。詰め合わせを持つ手とは逆の手に掴んでいたパソコンケースの外側の、せいぜいノート一枚突っ込むくらいしかスペースの無い、ほとんどお飾りの薄いポケットにあられをぎゅんぎゅん突っ込みだすじゃないか。「下の方まで落ちちゃってるからね~後で拾って食べてね~」と言いながらもう一掴みぎゅん。お礼を言いつつおばちゃんの勢いに圧倒される自分。見る見るうちにポケットはパンパンになった。

そして帰宅後せっせとポケットの中を掻き出すと、土産物屋に並べられていた一番小さな詰め合わせ一つ分にはなりそうな量がざらざらと出て来てびっくり。しかもこれがほとんど収納力の無いお飾りポケットに収まっていたのだから尚更びっくりである。このパソコンケースは七年ほど愛用しているが、このポケットがここまで活用されたのは今日が初めてなんじゃないか、と思った。

入るもんなんだな、やってみれば。

日記録3杯, 日常

車酔いしやすい自覚がありつつも学生服を着る年頃になってからは随分マシになり、準備と用意さえしっかりすれば滅多に酔わなくなったのだが、油断した。久しぶりにやられた。車酔いでこんなに苦しんだのは一体何年ぶりだろうか。

しかしこれも自業自得。だってこんなに準備と用意が出来ていなかったのだから。

●体に若干昨夜の酒が残っていた。
●締め付けのきつい服を着ていた。
●ズボンのベルトをしっかり締めていた。
●乗車前にトイレに行かなかった。
●乗車前に清涼飲料水を五百ミリリットル飲んだ。
●ミントガムを常備していなかった。
●車内で文字を読んだ。

体も脳も空っぽに近い状態で、もっと言うなら意識だって飛ばしている状態がベストであると言うのに……! 最低ミントガムは口中に常駐させているべきであったのに、それすら怠っていたとは不覚にも程がある。せめてベルトを外せと言いたい。言いたいが後の祭り。たったの三行程度なら読んでも大丈夫と思った自分が甘い。甘いと思いつつ情けない。だが流石経験を積み重ねただけあって、酔った後の対処は我ながら心得たものだったと思うが理想はそんなもんを積み重ねずに済むことだ。せめて二度と、いやなるべく、これ以上積み重ねずに済むことを願いたい。辛かった。

日記録10杯, 日常

ハイパー寒い。

同じ関東なのだから、と薄着をしていったらひどく寒い。そして連発するくしゃみにより体調管理を失敗したことに気付く。下宿先では半袖で楽に過ごせたが、実家では長袖に半纏を羽織らないとやりきれない。毎度毎度帰省する度に失敗を痛感するがまさか五月に至ってまでとは。今も凍えている。寒い。長年知っていたはずなのに。寒い。

日記録5杯, 日常,

有難いことではあるが、実家に帰省するたびに実感する。やはり食事の量が多い。

この感覚も久しぶりだなぁ、と膨らんだ腹を擦って思う。腹の皮が突っ張ってはち切れそうな感覚。これを感じるのが「満腹」であり、それを普通と考えていたが、一人暮らしをしてから気付く。これは適量では無い。

とはいえ勧められて、多いなぁと思いつつも、料理は美味しいし、作ってくれるのは有難いし、食べられない量では無いし、残すのはもったいないし、食べてしまうんだな。そして消化が出来てしまうんだな。「食べ過ぎた」と思いつつも、何だかんだで。

実家暮らしの友人が、ダイエットを出来ないと悩んでいて、それを知人が「食事を作ってもらっているくせに何を生意気なことを」と糾弾していたことを思い出す。一人暮らしをすれば良い、と軽く言う人もいるが、家庭の事情やその他でそれも出来ない人もあり、そういった中で協力を得られないダイエットをしようとする人は、甘えの一言で断ち切ってしまって良いものでは無かろうなぁ、と思う。善意だからこそ、ということは世の中にいくらでもあるだろう、なんてことを思って。いや自分はそこまでじゃなく、肥満体になるほど食べさせられたことも無く、ただちょっと多いなってだけなんだが。それでもただ思いを馳せてしまうだけ、と一応のフォロー。明日も腹一杯食べるので。

日記録2杯, 中華料理屋, 日常,

重い重い気分で食欲もすっかり失せていたが、食べたい意欲なんぞ全く持っていなかったが、今自分はここに行った方が良いのだろうと判断し、月に一度か二度顔を出す中華料理屋の暖簾をくぐったのであった。

まず二年前。己はあることに全く納得出来ずにいた。その人が良いというものを全く良いとは思えず、むしろ愚の骨頂とまで思っていた。だが自分はその道に関して無知であり未熟だったので、その人の言葉に従った。常識的に考えればありえないと思われるが、それは単に自分が固定観念に囚われているだけかもしれない。挑戦は大切だ。まずやってみることだ。

そして欺瞞の一年間が過ぎ、その人がいなくなった後に現れた新たな人が、一年の間に積み上げられた様々なそれぞれを一つずつ破壊していった。そしてこのときようやく、「あぁ、やっぱりあれはありえなかったんだ」と知ることが出来てほっとしたのである。

くだらない、馬鹿みたい、阿呆らしい、ありえないと思っていたものが一つ一つ潰されるたびに自分の価値観が回復されていくように感じた。嬉しかった。清清しく思った。その解放感はしばらく続いたが、今日になって揺り戻しが来た。その過去の一年間にも不満を抱えていたものの、飲み込むことは出来ていたが、今の自分の立ち位置から当時を思い返してみると、あれは本当に嫌な一年間だった、と過去の自分が封じ込めようとしていた苦しさに気付いてしまったのだ。

そして。破壊されることで自分の正当性が認められた思いはしたが、それでもその破壊されたそれぞれは、積み重ねてきたそれぞれは、押し付けられた無理難題に応えるべく必死になって努力して自分が積み重ねたものだったので、あれはいったい何だったんだろうと、ひどく虚しくなったのだ。

あぁ、やっぱりあのとき反論出来れば良かったな、こんな無意味なことに労力を費やして何になるのかと言えれば良かったな、皆あんたの自己満足だろと指摘してやれれば良かったな、助け舟が欲しかったな、辛かったな、と溢れ出す悲しさ、滅入っていく心。多分きっと、このまま家に帰ったらドツボにはまってしまうだろう。それはそれで被虐的な気分に浸れて気持ちが良いかもしれないが、でも、ここはやはり人のいるところに行くべきじゃないかな。

その中華料理屋には主がいる。おかみさんの友人か常連か両方か、その正体はよくわからない。聞こえてくる会話から察するに毎日のように入り浸っているらしい。主は客であるにも関わらず、他の客の食べた後の皿を片付け、布巾で卓を清め、醤油を取ろうと身を乗り出した客のために醤油とラー油と酢の瓶を寄越してやりながら、お湯で薄めた焼酎を呑んでいる。

おかみさんは主の相手をしながら他の客にも声をかけ、お茶が少なくなれば注ぎに行きつつ料理をし、呑みすぎた酔っ払いに注意をしてやりつつ、月に一度か二度しか顔を出さない自分のことも覚えてくれ、「いっしょの?」と聞いて味噌ラーメンと餃子を用意してくれる。料理が来るまでは暇になるが退屈はしない。おかみさんの人柄によって作られた空間に身を置くことがひたすら心地良いのである。そしてまた美味いのだ、味噌ラーメンと餃子が。だから自分はずっと同じものばかり注文してしまうのである。

今日も店は繁盛している。おかみさんは主と会話をしているが、同時進行で他の客とも会話をし、「ご馳走様!」「美味しかったよ!」「寒くなってきたけど風邪引かないでくれよ!」と食べ終わった人は小銭とともに言葉を置いて店を出て行く。自分は注文と会計のときのみおかみさんと言葉を交わすが、その他はだいたい放っておいてもらえている。あぁ、楽。

店を出る頃には嫌な気持ちは薄らいでいた。やりきれない思いはあるが、乗り越えるしかない。と、少しだけ前向きな気持ちになって。