日記録0杯, 日常

2014年4月4日(金) 緑茶カウント:0杯

もともと、手足がつる方では無いのだが、最近とみに手足がつる。ちょっと頭上の戸棚に手を伸ばそうとして背伸びをすれば足の裏がつり、座ればつり、ベッドに横になればつり、手を伸ばせばつる。しかしあまり困ってはおらず、昨日などはあまりにも疲れていたため、足のつりを治すのを諦め、つったまま寝た。それもいかがなものかと思うが翌朝特に問題は生じてなかった。

手足がつる原因は水分不足とミネラルバランスの乱れが原因の一つ、とインターネットで検索すると出てきた。そこで思い当たるのが食事量の減少と過労、そして緑茶摂取量の減少で、最近は忙しさのあまり、昼食程度しかろくに食事を摂る時間が無く、朝飯は省略、悪ければ夕食も省略、そして愛飲している緑茶も省略という有様で、非常に良く無い。そして思うのが、やはり緑茶の摂取量の減少が響いているのではないかということで、だってほら、ミネラルも水分もたっぷりなようじゃあないですか。それですよやっぱり。つまり己には緑茶が必需品なわけなのです。しかし飲んでないのです。今日も飲んでないのです。よって足がつるのです。多分、きっと。

緑茶の数杯くらい、ゆっくり飲める生活を取り戻したいものだね。ははは。



日記録1杯, 日常

2014年4月3日(木) 緑茶カウント:1杯

疲れた。今日の自分は必死に生きた。昨夜は終電で帰宅し、一睡もせず始発に乗るため家を出て、ようやく落ち着いて我が家でくつろぐ時間を得ている。疲れた。非常に疲れた。流石に今日はもうくたくただ。これ以上、起きているのは無理だ!

緑茶と赤ワインを飲んだら寝よう。まず緑茶で咽喉を潤し、赤ワインの香りを楽しみ、胃袋に火を点して緑茶で落ち着ける。あぁ、美味いなぁ………。

久しぶりに日付が変わる前に眠ることになりそうだ。今日は寝倒そう。おやすみおやすみ。また明日。



日記録2杯, 日常

2014年4月2日(水) 緑茶カウント:2杯

事象年齢不詳の平沢進が還暦を迎えたとのことで。実に感慨深い。そろそろだとは一年以上前から思っていたが、ついにこの日がやってきたのか。

だからと言って何をするわけでもないのだが。ついにか、すごいな、と思わざるを得ないのだった。

おめでとうございます。これからもどうぞ健やかに。



日記録0杯, 日常

2014年4月1日(火) 緑茶カウント:0杯

ということで今年もエイプリルフールのために嘘サイトを作ったのだが、一つ言っておきたいのは、自分はそこまで炊き込みご飯に執着は無いということで、それだけはどうかわかっていただきたい。決して過激派などでは無いので。絶対に。

今回作ったのは、炊き込みご飯を異常に愛し、白米が食卓のスタンダードの座にいることを激しく憎む人達の同盟サイトなのだが、これは「下宿先のおかみさんの息子が白いご飯が大嫌いで、そこのおかみさんはいつも炊き込みご飯を作らなきゃいけなくて大変そうだった」という、母から聞いた昔話をふと思い出して作ったものである。時間が無かったので突貫工事も良いところなのが悔やまれるが、まぁ仕方が無い。

わざわざこの日に思い出して見に来てくれた方、ハッシュタグを使ってツイートしてくれた方々全てに大感謝。お付き合いいただきありがとうございました。

ちなみに跡地はこちら

そして過去のエイプリルフール跡地はこちら。ずっとこんなことやってんだな。
2013年
2012年
2011年
2010年
2009年
2008年



日記録2杯, 日常

2014年3月28日(金) 緑茶カウント:2杯

学び始めにけっ躓いてそれっきり。以来苦手意識を拭えず、拭えぬまま開き直り、今となっては既に読む気すら無い。目の前にある英文字に対して、読解しようという心は生まれず、ただ模様、もしくは図形として形を捉えている。意味はおろか読みすら想像しようとしない。

故に自分は、海外のワインやビールを選ぶとき、ぼんやりと「ああいう形の文字のもの」と記憶しているらしく、それはレストランなどの様々な施設の名前、映画のタイトル、文房具にも及び、そのわりに特に不自由なく暮らしているのであるが、わりと皆さん、読める、もしくは読もうとする気持ちがあるようで、自分にとってはただの模様だったものに唐突に音と意味が発生し、そのたびにモノクロの世界に色彩が生まれるような、無音の世界に音が満ちるような感動を一瞬覚え、あーちゃんと読むんだなーと感心している。

それはつまり、全く意識を傾けていなかった道端の石ころが喋り出し、つい驚きのまま振り向いて、自分の世界にその石が存在感を持って入り込んでくるような異質感を英語に対して抱くほど、そこまで無関心になってしまうほど、読む必要が生じない日々の暮らしが何年も続いているということで、あれほど昔、英語がわからないと困る困ると言われたのは何だったのだろう、と大人気ないことを考えてしまう。無論、英語を知ることで選択肢が広がり、知らないがゆえに得られるはずの選択肢を失い、困る局面に至る危険性があることは十二分にわかっているのだが。その分世界が狭まると言われればそれまでなのだが。これから困るかもしれないのだが。

しれないのだが、きっと自分の中ではあれもこれも図形と模様に成り果ててしまうのだろう。これからもずっと。恐らく多分。