日記録0杯, 日常,

2019年11月17日(日) 緑茶カウント:0杯

君は割りばし味のドリンクを飲んだことはあるか。

己はある。今日、割りばし味としか言えない飲み物を飲んだ。木の味が染み出ていて甘く、割りばし以外の何物でもなく、確かにそれは割りばしから抽出されたエキスであり、不味かった。

遡ること一日。友人との呑み会で楽しくべろべろになり、帰宅して湯浴みして準備していたサッポロ一番のスープに野菜を煮込んだものを温め、それに麺を投入し、楽しさの余韻に浸りながらビールのプルタブに指をかける。大学の友人との久しぶりの呑み会で、美味しい肉を食べ、ワインを傾け、ビールを呑み、馬鹿話をして、最高に楽しいひとときを過ごした。そうしてあんまり楽しくて、家で呑み直そうと思ったものの己は既に呑みすぎていた。ビールをたった数口呑んだだけでこれ以上は呑めないとギブアップしてしまったのだ。

とはいえ捨てるのは忍びない。だってまだ数口しか呑んでいないのだから。そして、こんなときにはビールの口に箸を突っ込めば炭酸が抜けづらくなるという昔聞いた情報を思い出し、実行することに決めた。で、取り出したのが未使用の割りばし。これをね、ビールの口に挿して、ラップを二重にかけて、厳重に冷蔵庫に仕舞ったんだ。

で、一晩経ち。此はいかなる凶事ぞ。割りばしをチョイスした己が悪かったのだろう。割りばしのね、先をくわえてチューチュー吸うという、行儀の悪いことをした経験が人生で一度でもある人は思い出してください。あの味。あの味が完全にビールに染み出して、ビールを支配していました。

めっちゃ甘い。木の味がして。
それでいて美味しくない。木の味がして。

ちなみに炭酸は完全に抜けていた。まぁ一晩経ったしね。しょうがないよね。と思いつつ割りばし味のビールをぐいぐい呑みながら、想定外の不味さにやられた。呑めないことはない。しかし美味しくはない、割りばし味のアルコール。機会があれば、ぜひ。



日記録0杯, 日常

2019年11月3日(日) 緑茶カウント:0杯

常々……は言いすぎか。時たま、時たま思うのだが、肉を食べたい欲求をそのまま表そうとしたら別の欲求を表す言葉になってしまって、違ぇよ!! 肉を食べたいという意味で使いたいんだよ!! と思うことがある。

そして今日。まさに肉を食べたい欲求が高まりに高まり、夢にまで出たので肉を食べた。がぶりと。ちょうどパペットマペットのお誕生日だったし、そうであれば! 肉を食べない理由などないしね!!

と言いつつ迷いに迷い、外食をしようか否か考えて考えてスーパーに寄ったらアメリカ産牛肉の肩ロースが半額になっていて、たったの四百円で購入できることがわかったのでよっしゃと決意。で、自宅で初めてのステーキ調理に挑戦したのだ。

うしくーーーーん!!

ああああああああ!!

大変おいしゅうございました。

まぁね、固かった。まあまあ固かったけれども、もぎゅもぎゅと噛みしめる顎の動きが満足感をね、また出してくれてね。あと今まで高い肉を買って失敗したらと思ったら怖くてステーキに挑戦できなかったけど、意外と簡単だということがわかったので、次回は高い肉でチャレンジしてみようかな、なんて気持ちになれたし、肉は喰えたしすこぶる満足でした。

ということでじゃがいもと牛肉と調味料合わせて五百円未満の夕食でした。ンマかった。



日記録0杯, 日常

2019年10月22日(火) 緑茶カウント:0杯

昼に起き、ベッドでだらだらしたままテレビをつけ、即位礼正殿の儀の中継を見てそそくさと居住まいを正しながら、オリンピックやワールドカップにワクワクする人の心をほんの少し知れたような気がした。そのくらい自分は、この光景を見られることを喜ばしいと感じていたのだ。

そして同時に、国賓や天皇陛下、皇后様の衣装を見て思う。この中に、性別に違和感のある人がいたら大変だろうなぁと。伝統的な衣装や礼装はしっかり性別で分けられていることが多い。一般でもフォーマルなレストランではドレスコードがあり、結婚式や葬式も同様だ。これらを変えることは容易なことではない。

その中で、不便を感じることがありつつもまだ気楽な衣服や髪型で過ごせる立場と時代を喜びつつ、あらゆる人の選択肢が増え、心安らかに過ごせたら良いなぁと感じる。どうかこの令和の時代、あらゆる人に選択肢が広がり、皆が好きな格好でストレスなく過ごせますように。



日記録2杯, 日常

2019年10月21日(月) 緑茶カウント:2杯

言葉に関してのみ当時の自分は若干大人びていて、故に他の要素もありつつも、クラスメイトと会話をするのが困難になった時期があった。
そう、あれは小学校の高学年から中学にかけて。自分では通常の言葉を使っているつもりであるにも関わらず、クラスメイトからは「ウヲの言葉は難しくてわからない」「わざと難しい言葉を使って馬鹿にしないでほしい」と言われた。そして自分は苦情を申し立てるクラスメイトに対し、この程度の言葉もわからないのかと見下すことでバランスをとろうとした、のかなぁ。

いや、単に純粋に馬鹿にしていたのだろう。
だってそれは、己にとっては難しくもないごく自然な言葉だったから。

しかし、同時に自分はわかりやすい言葉を使う人を尊敬していた。専門用語を使わずに若い人に世界を語れる人に憧れた。その言葉を手に入れたいと思った。果たして今の自分は少しでも手に入れられているだろうか。わからない。わからないから説明しようと思う。どうせ、自分の言葉は誰にも通じないので。

という、誰にも自分の言葉は通じないと思う気持ちが未だに根幹にあるのは困ったものだ。

だから十を説明するために、千の言葉を使う。過剰に説明してしまう。全てを言って、ようやく一部を受け取ってもらえる、その程度の影響力しかないと信じているから言ってしまう。
ところがどうしたことだろう。そうして努力をしたときに限って、己は「過剰」と言う評価を受けるのだ。

難しいなぁ。言うバランス、言わないバランス。己はそろそろ、少しは自分の言葉に自信を持つべきなのだろう。十の言葉が十通じると思うべきなのだろう。十のために千を語ることは慎むべきなのだろう。だが、出来ずにいるんだなぁ。

影響力がないと信じることは、他者への槍を無意識に振りかざすことにも通ずる。どうせ自分の言葉なんて、と思って軽く放った自己肯定感の低い一言が誰かの心臓を突き破ることもありうる。故に自信と責任と言葉の重みを痛感せねばならないと言うのに。

ところがどっこい。今も、根幹では十を伝えるために千を語らなければならないと感じている。いつか、そうだなぁ。どうにかせめて、百に抑えたいと思う。



日記録2杯, 日常

2019年10月15日(火) 緑茶カウント:2杯

そろそろ買い換えようかなぁ、と思っていたんだよ。思い返せばそう、四、五年前から。そう、毎年毎年冬を迎えるたび、さらに言えば冬以外の季節にもこたつを買い換えようと思いつつ、ついぞ実行せずに今日まで過ごしてきたのは、不便はあるものの何となく使えていたからである。

不便は主に三つあった。一つ、狭い。このこたつは秋冬はこたつとして、春夏は布団を取り払いローテーブルとして使っていて、一年三百六十五日ここにノートパソコンを置き、飯を食い、文を書き、絵を描き、本を読み、あらゆることに使用してきた。しかしあらゆることに使うには若干狭く、たまに客人が来た折には皿を乗せきれないこともあり、不便を感じていた。

二つ目、天板がガタガタ。これは己が悪い。確実に悪い。一人暮らしを始めて二年目の秋にこのこたつを買った記憶があるが、大事にしようと思っていたのにかなり雑に扱った。具体的に言えば熱したやかんをそのまま天板に置いた。鍋敷きも敷かずに置いた。何故そんなことをしたのかと言えば熱したやかんを直置きしたら天板がダメージを受けることを知らず、想像もせず、何も考えずにいたからだ。結果、天板はめくれ上がりヒビだらけになってガッタガタになった。そのくせ自分が諸悪の根源のくせに不便だのと罵って申し訳ないと思う。ごめん天板。

三つ目、これが一番重要である。そしてこれは己のせいではない。何かと言うと、温度調整がしづらい。その時のこたつの気分で「最強」か「中」に切り替わるため、気付くとこたつの中が熱くなることがたびたびあり、これは本当に不便だった。だが、熱くなったら電源を切れば良いので持ちこたえてしまった。

そうして不便だ不便だと思いつつこたつを酷使し、十何年目の秋の今日、こたつはついに音を上げた。寒さに震え五月に仕舞ったばかりのこたつ布団と電源を取り出し、よいしょっとセッティングしてスイッチを入れれば、何やら焦げ臭い。当初、布団に何か嫌な臭いでも染みついているのかと思ったが、布団からは洗剤の残り香しかしない。めくれば出汁の焦げるような嫌な臭いは内側からして、明らかに熱源より発せられていることがわかったのである。

そして己は今、電源を切ったこたつにくるまりながら無印良品のオンラインショップを眺めている。寂しいような、良い区切りを迎えたような、何やら不思議な気分である。うん、若干寂しさが勝つかな。

ありがとうこたつ。次が来るまでもうちょいよろしく。