日記録0杯, 日常, 町田康

2014年5月16日(金) 緑茶カウント:0杯

町田康が好きだ。

作家としての町田康も、パンク歌手としての町田康も好きだ。そして自分は、あぁ、パンク歌手としての町田康も、もっと世に広まれば良いのに! 町田康の著作物を読んだ人が、彼の音楽も聴いてくれれば良いのに! と強く願う人間である。

カラオケで町田康の曲を歌いたいのに歌えないジレンマに悲しむ人間である。

メジャーとまではいかずとも、もっと知られれば良いのになぁ、と思いながら「犬とチャーハンのすきま」収録の「頭が腐る」を楽しく歌う。家の中で、汚れた皿を洗いながら。

彼の歌はとても良いよ。



日記録0杯, 日常

2014年5月15日(木) 緑茶カウント:0杯

あぁ、疲れた。

ここ数日激動の時間を過ごしたおかげで非常に疲れた。しかしようやく落ち着いて平静を取り戻したのでほっとした。あー疲れた。

週末は美味いものでも食べて、ゆっくり過ごしたいね。



日記録0杯, 日常

2014年5月14日(水) 緑茶カウント:0杯

頭がくらくらした。二日前の日記で思考を整理し切った結果、ようやくわからなかったものがわかってスッキリしたは良いが、この二十八年間、ずっと路傍の石のように感じていたものが意味を持って存在するようになり、世界がひっくり返るような衝撃を受けた。無意味が意味に転じたその反動たるや凄まじく、一日経って怒涛のように思考の波に襲われて、ぐるぐると考えこまずにはいられなくなり、考えすぎて気持ち悪くなった果てに嘔吐した。せっかく作った煮物がもったいない。

いきなり違う価値観の世界に放り込まれたようだ。実際は、自分の思考が変わっただけであるのだが、脳に体が付いていかないのである。中学生か、と思った。それこそ昔は、とにかく考えて考えて、気持ち悪くなってどうしようもなくなることがあったが、ここ数年はその感覚も忘れかけていたというのに。

この数日は食欲も失せ、寝不足だ。眠りたくても眠れないのが苦しい。とはいえ救いがあるのは、いかに苦しく感じようとも、今までの人生、自分はほとんど死にたいという欲求を抱いたことは無く、今だってしんどいが長生きしたい。八十くらいまで健康に生きたい。健康に幸せに楽しく生き抜きたい。

だから何だかんだで大丈夫なのだと思う。なぁに、何があっても何とかなるさ。なるようになるものだよ。世の中はね。



日記録2杯, 日常

2014年5月13日(火) 緑茶カウント:2杯

昨日の日記で、思考を整理しきった結果、自分は途方も無く寂しい道を歩いているんじゃないか、ということに気付き、気付かなければ良かったと若干暗い気持ちになっている。「会えない」が常である日常を歩くのは、なかなか寂しい。

そしてまた、今までずっと理解出来なかった結婚の「めでたさ」を理解し、あぁ、今までいくつもの結婚式に出席したのに、自分は祝いの言葉を述べつつも、どうして結婚がめでたいのか、自分の頭で理解出来なかったため、常に不可解な気持ちを抱きながらそこにいて、申し訳なかったなぁと後悔している。結婚がおめでたいことは知っているが、どうしておめでたいのかわからなかったのだ。

では、寂しさに気付き、結婚のめでたさを理解した自分は結婚することを望むのか? という問いに対しては相変わらず答えは変わらない。「会える」日常を求めて結婚したところで無理が生じるのは目に見えている。何故なら自分は性別を脱却したいからだ。根底の願いがそこにあるゆえ、独身に比べカテゴライズされる機会の増える結婚は苦しみ以外の何ものでも無い。想像するだけで恐ろしい。

学校を卒業してからの方が人生は長い。大人になってからの方が人生は長い。「会えない」日常を過ごす時間の方がはるかに長い。気付いたからには自分はそれを受け入れ、その長い道のりを楽しく過ごせる方法を見つけるべきである。多分これが、己の人生の課題なのだろうなぁ。



日記録1杯, 日常

2014年5月12日(月) 緑茶カウント:1杯

会える状態と会えない状態は、どちらが普通なのだろう。もしくは、人間は一人であることと二人でいること、どちらがあるべき状態なのだろう。

思えば自分はここ何年も、会いたい人達に気軽に会えない身の上だ。単に学校を卒業して一人暮らしをしているためだが、家族にも、友人にも、愛猫にも、年に数回しか会えない。「会える」のが非日常で、「会えない」のが日常になっている。自分にとっては、会いたい人に会えないことは当たり前。それこそ通常の状態なのだ。

友人から、結婚しようと思うという報告と相談を受けた。そのとき自分は納得しつつ疑問を抱いていた。納得は、まぁするだろうと思っていた、という二人の関係とありように由来するもので、疑問は、何故人は結婚するのだろう、というところにあった。

ずっと同じ人と一緒にいたいとどうして思うのだろう。毎週毎週デートに出かけたり、一緒に住んだり。疲れないのだろうか。何がそうさせるのだろうか。そんなことを思った。

そして気付いたのだ。なるほど、自分は「会えない」のが当たり前になってしまっていたから、「常に会おう」とする心理が理解出来なかったのだ、と。常に会うことはそんなにも負担になるもので無いはずなのに、その感覚をすっかり忘れてしまっていたのだ。

そうだよ。高校まではずっと家族と共にいた。学校では毎日友人を顔を合わせた。それこそ普通であったはずなのに、ずっと「会えない」のが当たり前であるせいで失念してしまったのだ。

また気付く。大人になるとは、会えない状態が当たり前になることだと。無論、例外もあるだろう。ずっと地元の実家で暮らしていれば、家族にもご近所さんにも友人にも会える。だが、いつまでもそのままでは無い。そこから去っていく人もいる。どんどん会えないのが当たり前になっていくのだ。

あぁ、だから人は結婚をするのか。会えないのが当たり前になるから、結婚によって「会える」状態を作るんだ。結婚はそのための仕組みなんだ。

結婚の相談をしてくれた友人は何年か前に、とても楽しい物語を語った。宝くじで三億当てて、俺はアパートを建てるから、そこで皆で住もうよ、と。仲間内での馬鹿話である。談話室のあるアパートで、仲の良い友人達が住み、それぞれに暮らす。それは誰しもが実現するはずないと思っていたが、その物語はとても魅力的で楽しかった。誰がどこの部屋に住む、といった話までされた。

結婚の報告をするとき、友人はすまなさそうな声を出したように聞こえた。そこに一度違和感を抱いたが、後になって気付いた。彼の作った夢物語の幕を閉じることを友人は詫びていたのである。アパートではなく、結婚という仕組みを選ぶことに決めたので。

魅力的な夢だったな、と思う。仮に三億当たってアパートが建ったところで、友人達は埼玉、東京、神奈川、新潟、福島と、全員別々のところで生活している。一つのアパートに集うことなど無理だろう。そうわかりつつ、皆、その物語を楽しんでいた。

間違いなく一番楽しんでいたのは自分だったなぁ、と改めて思う。街中でバッタリ会って、ちょっと立ち話をして、別れる。そんなことが出来なくなって何年経っただろうか。自分はそれに憧れているのだ。その環境が欲しいのである。だが、それを手に入れる仕組みがわからない。