日記録4杯, 日常

2018年1月19日(金) 緑茶カウント:4杯

良いかい。まだ放送されてもいないのに、どんな物語なのか何も知ってやしないのに、たかだかキャラクターデザインが公開されただけで、いったい何をわかったような口が利けるって言うのだ。何も知らないうちに批判するなんざ愚か者のやることだぞ、恥を知れ。

良いかい。時代や流行と共に変遷するストーリーとキャラクターデザイン、その柔軟な変化があるからこそ時代時代の人々に愛されるのであり、それは一つの「作品」から「伝統」へと昇華していく証であって、歓迎すべきことなのだよ。

良いかい。己はまだ何も知らないのだ。まだ何も知らないのだ。まだ何も知らないのだ。

と、自身に言い聞かせつつショックから脱却できない夜。幼少時に原作とアニメ第三期を観て育ち、妖怪図鑑を夢中で読んで、大学生の頃アルバイトで稼いだ給料を使って初めてDVDボックスを買い、それが当時の自分にとってはかなりの大きな金額で、ドキドキしながら振込みをした甘酸っぱい思い出。第五期にショックを受け、しかし同時期に深夜枠で放送された墓場鬼太郎を大喜びで観て、墓場からその後まで原作シリーズをがっつり買い集めて、水木しげるが亡くなったときは放心し、お別れ会で涙を流した。

鬼太郎が。ゲゲゲの鬼太郎が。墓場鬼太郎が。水木しげるが大好きなんだ。そして今日は結構、かなりショックだったんだ。猫娘の、デザインが……。

いや、まだ何もわからない。何も知らない。何も知らないのだ。言い聞かせよう、心に強く。心に強く、始まるまでは。
そのように、自分を言い聞かせて。今。



日記録4杯, 日常

2018年1月15日(月) 緑茶カウント:4杯

充電を満タンにしていたはずなのに、それは半分以下に減っていた。何故なら君は、己が聴いていないにも関わらず、絶えず歌い続けていたからだ。ハンカチと財布とパスケースと携帯電話の奥の、鞄の底でただ一人。

カチ、と電源を切る、この瞬間の虚しさったら。いや、わかっているのさ。家に帰って充電をし直せば済む話だと。たった数十分充電器に差せば良いだけの話だと。しかし思いを馳せてしまうのだ。誰も聴いていないのに、律儀に暗い鞄の底で歌い続ける虚しさを。

彼の名はMr.Walkman。ライトの当たらぬ鞄の底で、六時間のソロコンサートを終えた働き者だ。
誰かひとつ、彼のために拍手を送ってやってくれ。



日記録4杯, 日常

2018年1月8日(月) 緑茶カウント:4杯

ちょうど重いものを持っていて、ちょうど一週間分の食材を買わねばならなかった。大根、人参、ゴボウ、玉ねぎ、生姜、舞茸、しいたけ、ブナシメジ、スナップエンドウ、ピーマン二袋、もやし二袋、ツナ缶四つ、豚肉三パック、ヨーグルト、すりごま、バナナ、エトセトラエトセトラ。これらをひょいひょいと籠に入れていくも、軽快な仕草に反して籠の重いことと言ったらない。しかも籠以外にも己の腕に負荷をかけるものがあるのである。あぁ、痛い。

よたよた歩きつつ、そうだカートを使おうと思い立つ。普段はほとんど使わないがこれがあれば大分楽だろう。そうしてよたよたカート置き場まで歩き、上段に籠、下段に荷物を乗せる。あぁ、そのときの解放感と言ったら! 肩と腕が重力から解き放たれた清清しさ! ジンジン痛む手のひらに血の巡る心地良さ! よし、これならまだまだ買い物ができる!

カートを押しながらあれこれと売り場を回り、ひょいひょいと乗せていく。どんなに乗せても何も苦しくない嬉しさに、己は若干浮かれていた。ハイになっていた。どれもこれも必要なものだったが、確かに必要なものだったが、ノリノリになって頭がパーになっていたのだ。

会計を済ませば大きなレジ袋が四つ。ずっしりした重量。
で、誰がこれを持って帰るのだい?

カートは危ない。自分の能力以上の買い物をさせてしまう。あまりの軽快さに自分の実力を見誤ってしまう。
便利なものだが、二度と使うまいと誓った。心に。



日記録4杯, 日常

2018年1月3日(水) 緑茶カウント:4杯

すごい。我ながらすごい。いや、ひどい。大晦日、元日、二日に書いた日記がどれもこれも記憶に無い。いや、大晦日と元日に書いた分を二日に読んで「いつ書いたっけ」と驚いた記憶はある。そうして驚いたくせにその日に書いた日記の記憶が無い。いや、少しはある。そう言えば書いたような気もするが、翌日になって更新された日記を素面で読むまで何を書いたのかほとんど見当がつかなかった。

そりゃあまぁ、毎日毎日ビールを三リットルも四リットルも呑んでいれば記憶もおぼろげになるだろう。しかし、いや、ひどいな。ひどいな? そのわりに全く二日酔いになっていないあたりはすごいな? すごい。すごいが人間としてダメである。年始からとにかくダメである。

そんな正月三が日。流石に今日は節制した。



日記録4杯, 日常

2017年12月24日(日) 緑茶カウント:4杯

劇場版仮面ライダーの感想を書いたところ、思いのほか多くの人に読んでもらえたという嬉しい出来事があった。感想を書いたのは二週間近く前だったのでまさに青天の霹靂である。アクセスが急増していることに気付いたときには炎上していたらどうしよう、何かまずいことを書いたかしらん、とヒヤヒヤしたが、ちょこちょこ反応を見て回ってみると好意的に受け取っていただけているようで安心した。何より嬉しかったのは、「こんな感想を書くファンがいるなんて、大槻ケンヂさんって素敵な人なんですね」というコメントを拍手とメールで複数いただいたこと。そのように感じ取って受け取っていただけるって、何てありがたいことだろう。嬉しくて嬉しくてニコニコしてしまった。

その中で抱いた小さな違和感と、その正体に気付いた話。驚いたのだが、己が書いた感想に対し「まっすぐ偏見なく受け止めてくれて嬉しい」といったコメントをちらほら見て、それがどうにも不思議だった。仮面ライダーは世間にも認知されていて、ものすごくメジャーな作品なのに、それを愛する人々は何故だろう。全員ではないが、どこか日陰者の感覚を持っているようにも見えた。それは自分にとってとても近しい感覚で、だからこそ、何故こんなに有名で、人気があって、シリーズ化されている作品のファンがそのような思いを? と疑問に思ったのだ。

じっくり考えて思い当たったのは、子供向けと言う言葉。嘘か真かわからぬが、仮面ライダーの玩具を集めている家族に対する辛辣な意見や実力行使の類をインターネット上で目にすることは少なからずある。そこにはまるで自分に優位性があるかのような振る舞いや言動を感じることさえある。そしてそれは仮面ライダーに限らず、趣味者に振り下ろされる斧でもある。どうにも世の中には、大人として適切な趣味なるものが存在し、それ以外に対する風当たりはどうにも強いのだ。

しかし。もし自分が死ぬほど愛好しているものに対し、「早く卒業したまえよ」と声をかけられたらどのような気持ちがするだろう。自分が大切にしているものに対し、軽んじられる視線を投げかけられたらどのような思いがするだろう。

それはきっと、言うまでもない。マイナーだからこその理解されない寂しさは知っていたが、有名か否かが問題ではなく、至るところにそれはある。じゃあ、自分はどうするか? そうだな。メジャーでもマイナーでもどんなものでも、人の大切にしているものを、尊重できる人間でありたい。それがどんなものかはわからなくても、大事にしているなら大事にしたい。意識的にも無意識的にも。

そんなことをじんわりと思った、クリスマスイブの夜である。前日には筋肉少女帯のライブに行って、今日は仮面ライダーの映画を観て、夜にはビールを呑みながらオーケンのラジオをいそいそ聴いた趣味者の夜。誰にも糾弾されない夜である。