日記録2杯, 日常

2015年3月29日(日) 緑茶カウント:2杯

人間、やれば出来るものだなぁと感心しながらランナーズハイを味わっている。

どうしてもやり遂げたいことがあったために、土曜日の昼から作業をしていた。リミットは日曜の夜である。現状かなり厳しく、無理をしなければ完遂出来ない。そのうえ土曜日には水戸さんのライブもあるためその分作業時間が消える。かかるのは正味五時間といったところだろうか、移動時間他含めて。

そして土曜日。十七時に家を出て二十二時に帰宅し、風呂に入って身を清め、さぁやるぞと気合を入れて、二十三時から翌朝十二時までぶっ通しで作業を続け、予約している整体に行き、二時に戻ってまた作業を続けて二十時になってようやく終わって、今。今!

こんなに集中力を発揮したのは久しぶりだ。そのわりに疲れを感じていないのが面白い。作業中はしんどかったが、何だかんだで自分の好きなことややりたいことであればストレスは軽減されるのだなぁ。

さて。あとは自由時間だ。わりと元気もあることだし、ゆっくりと夜を満喫しよう。ちょっとつまみでも拵えて美味いビールでも呑もうじゃないか。

乾杯!



日記録0杯, 日常

2015年3月22日(日) 緑茶カウント:0杯

たまに電話をするたびに、祖母から「何か欲しいものは無いかい? 送ってあげるよ」と言われ、そのたびに大丈夫だよと断るのだが、実に残念そうな様子なので、いつも若干心が傷む。

この歳になってまで身内に物を買ってもらうのもいかがなものかと思いつつ、多分、何かしら要求した方が祖母も喜んでくれるのだろうと理解している。とすると、孝行のためには何かをねだった方が良いのだろう。

しかしここに問題が一つ。欲しいものが無い。

いや、ある。あるにはある。例えばデスクトップパソコンだとか、それを置くスペースだとか、DVDボックスの類に、工具に衣服。あるにはある。欲しいものはあるのだ。しかし、これらは全て、自分で吟味して買うべきもので、祖母のセンスに任せて買っていただくには不向きなものなのだ。

まさか金銭を要求するわけにもいかず。何が適切だろうかと日々考えつつ、あ、これだと思い、緑茶をねだったらめっちゃ届いて、ついでに羊羹もめっちゃ届いたので、しばらくは緑茶と羊羹三昧になりそうである。美味なり。



日記録1杯, 日常

2015年3月17日(火) 緑茶カウント:1杯

初めて見たときまず抱いた感想は「不味そう」というものだった。

街角に新しく出来たラーメン屋の外装はプラスティックがテカテカツヤツヤ光っていて、食べ物屋よりもパチンコ屋を連想させるものだった。ここはもともとテイクアウトの寿司屋であった。寿司屋だったときはごく普通の食べ物屋の外装だったが、それをすっかり塗り替えて作られたのがパチンコ屋のようなラーメン屋。パチンコ屋を改造してラーメン屋にしたならまだしも、もとが食べ物屋であったのに、何故この有様に成り果てたのか。

案の定客足は芳しくないようで、ガラス窓から見える客席にはいつもほとんど人がいない。テカテカツヤツヤの看板は安さを強調しており、確かに近隣のラーメン屋に比べると安い価格帯であるが心惹かれないのはすごい。だってなぁ。鶏がらの香りよりもタバコの臭い、湯切りの音よりもジャラジャラ音が聞こえそうな見た目だものなぁ。

さてこのラーメン屋。出来たのは二ヶ月ほど前のことだが、流石に危機感を抱いたのだろうか。最近になって暖簾や幕や提灯などなどを飾り付けるようになった。以前に比べると食べ物屋っぽくなってきている。生き残れるだろうか、と見守りながら。まだ一度も入っていない。



日記録3杯, 日常

2015年3月14日(土) 緑茶カウント:3杯

一人暮らしを始める際に実家から持ってきたブラウン管テレビを今までずっと使用してきたが、先日映らなくなってしまった。その前からも具合が悪く、映像がブレることが多々ありつつも、バンバン叩くと直っていたのでバンバン叩きながら使っていたが、ついに事切れてしまったのだ。

正確な年数は定かでは無いが、購入してから十五年ないしは二十年は経過しているだろう。よく持ってくれたものである。このテレビはもともと父が単身赴任をしているときに買ったものだ。単身赴任が終わって自宅に持ち帰られてからは、主に己がゲームをするために使っていた。これでよくぷよぷよやマリオRPGをやったものだ。

壊れたテレビに接続している録画機器は今は懐かしいビデオデッキ。VHSのビデオテープも傍らに置かれている。こちらはまだ使える。なかなか息が長いと思う。

これを機にいっそテレビを処分するか、とも考えたが、たまに観たい番組もある。そして何より、ライブDVD再生装置がパソコンだけではやや不便だ。では、ついに買うかなぁと電気屋に足を運び、薄型テレビを購入した。ついでにブルーレイレコーダーも。驚いたよ。電器屋に行ったらDVDレコーダーは今じゃあもう売られていないと教えられたんだぜ。ブルーレイレコーダーでDVDも観られるそうなんだぜ。知らなかったなぁ。

そんなわけで分厚いブラウン管テレビは薄型のフルハイビジョンテレビと入れ替えられ、ブルーレイレコーダーが導入され、ついにで同時期に十年物のトースターも壊れたため、以前よりも奥行きのあるトースターも我が家の一員に加わって、満足感を得つつ、財布の中身を確認することに恐怖を抱く、そんな日である。ひゃっほう。



日記録0杯, 日常

2015年3月10日(火) 緑茶カウント:0杯

昨今何かと話題になっている同性婚のニュースを見聞きして、もし同性婚が日本で可能となったら、己も結婚と言う選択肢を視野に入れるかもしれないと思い、そう感じた自分に少し驚いた。

ちなみに自分は同性愛者では無い。

己について明らかにするなら、自分は男女の枠組みのどちらからも脱却したい人間である。女に生まれても違和感があるだろうし、男に生まれてもしっくり来ないだろう。そんな状態を自覚してそろそろ十年。紆余曲折を経たが、自覚してからは納得している。

自分にとっては、男性も女性も異性に感じられる。それは男女どちらも同じ性に感じられるというわけではなく、男性、女性、どちらもそれぞれ違いがあるのだが、どちらも自分と同じ性ではないという認識である。違和感があると言うだろうか。どちらも同性のように感じられるというわけではない。

では、異性のように感じられるということはどちらも愛する対象になるかと言うとそうでも無く、誰かと結婚したいわけでも無い。じゃあ、そんな自分がどうして同性婚の実現を望むかと言うと、楽になれそうだからである。

自分にとっての苦痛は性の枠組みにはめられることで、異性婚しかない現状で、もし己が結婚をしたとすると、どちらかの枠組みにはめられてしまう。それが辛い。それを思うと、もし好いた相手が出来たとしても己は結婚出来ないだろう。無理である。

だが、もし同性婚が実現し、結婚が男女だけのものという前提が崩れれば。男女の結婚も、男同士の結婚も、女同士の結婚も当たり前のように存在する世の中になれば、枠組みから解放されることが出来る。例え身の回りの人には普通の男女の結婚のように捉えられても、「いや、自分は実はそうではないのさ。ふふふ」とほくそ笑む余裕を持つことが出来るだろう。

同性婚の実現は、男性にも女性にもなりたくない人々にとっても希望になるかもしれない。

まぁ、自分は今のところ結婚を望んではいないし、パートナーもいないのだが。でも、それを望むのさ。