日記録2杯, 日常

2020年2月18日(火) 緑茶カウント:2杯

出来ることもあって、得意なこともあって、自炊をし、掃除をし、自活してそれなりに生きているのに、何故こうも自分に自信を持てないのだろうとここ数日うむむと考えていたところ、ふとあることに思い至った。

それはこれまで、己は出来ることを頑張ることはしてきたが、苦手なことを克服する努力からは全力疾走で逃げ続けてきた、ということである。つまり、苦手に対してタチムカウ苦しい努力をしたことが一切無いのだ。出来ることだけやっていて、今も出来ることだけやっている。マジで。

そもそも学生時代は予習をほとんどしたことが無く、テスト前のみ復習をしていた。宿題はしていたがそれ以外の勉強はあまりやっておらず、中学高校に至ってはインターネットばかりしていた。勉強しなくても得意な現代文古文漢文は点をとれたが数学英語はからっきしで、数学に至っては高二の段階で文系コースに進んでおさらばし、英語からは逃れられなかったものの結局英語がネックで一浪した挙句、現代文古文漢文の三教科という名の一教科で受験し志望校に合格した。そして大学時代も自由気ままに好きな単位ばかりとって楽しく過ごし、卒業後も出来ることだけやって過ごしている。ということで、思い返すとマジで苦手に全力でタチムカい、克服した経験が無い。一切無い。

それはある意味ラッキーな生き方かもしれない。ただ、これまでの人生で「努力をした」実感がほぼ無いために、世の中の努力をして苦手を克服し前進している人達に対する劣等感が凄まじい。苦労はそれなりにした。しかし努力はしていない。だって無理なく続けられることしかしていないから。結果、続けたかったけど続けられなかったものをいくつも投げ出している。同時にいつまで経ってもやりたいことしかやらない自分は、徐々に未来が狭まって行っているような、そんな焦燥感を抱いている。

あー、これか。自分に自信が持てない原因は。じゃあ、それを克服したらいいのかしら。
と言って、結局出来ることしかやらんのが目に見えているからどうしようもないのだ。だって努力の仕方がわからないのである。どうしたら出来るようになるのだろう、いったい。

で、だ。そうやって自信が無いのに自己肯定感だけはあるのがどうにも不思議で、何故だろう。自分が肯定しなきゃ誰が自分を肯定するのだ、って思っているからだろうか。

まぁ、それはそれで潔くて良し。変だけど。バランス悪いけど。



日記録3杯, 日常

2020年2月17日(月) 緑茶カウント:3杯

すごく嬉しいことがあったんだ。歯牙にもかけられていないというかそもそも視界にすら入っていないと思っていた、己がとても尊敬している方から嬉しい言葉をいただいたんだ。それはもう、予想外に。
で、気付かされたんだ。自分はいつまでも自分に自信がなくて、故に自分の影響範囲などほぼ無いと信じ込んでいることがとても危ういということに。

己はそれなりに頑張っていて、頑張って生きているものの、未だに「UNDERGROUND SEARCHLIE」の歌詞の後半で描かれる鬱屈とした気持ちを脱しきれなくて、ずっとそんな気持ちを抱いている。そしてそれが良くない方向に出ると、自分のできることを「誰でもできる」と過小評価した挙句、それができない人を理解できなかったり、自分の言葉なんか滅多に届かないと信じ切った挙句強い言葉を使ってしまい、言わなくて良かったじゃんと思ったり、手前ぇがどれだけ偉いんだよと後悔したりして、ダメだなぁと思ったりしつつ、ちゃんと自分のできることに自信を持って、自分の持つ言葉にもそれなりの威力があることを意識していかなきゃならんよなぁと思うのだ。

この間のこの日記もさ。内容的には正しいんだ。正しいに違いないんだ。ただ、それを言うのは自分なのだろうかとも改めて思うのさ。そりゃあ無断転載には気を配るし、しないよう注意しているし、無断転載系botをリツイートしないよう意識もしている。運良く都合が悪くなってチケットを手放さなければならない事態に陥ったこともなく、誰かに譲ってもらう必要が生じたこともない。まぁ、落選したことはそれなりにはあるが、自分で申込みするチケットに全ての運を賭けているため現状を受け入れて終わりである。ということでそれなりに気を使ってはいるのだが、ただ、それを最低ラインと信じ込んでしまっているのが良くない。

これは本当にどうにかしないとならんのだけど、こいつはインターネットの外の話なのだが、自分の影響範囲がほぼないと思って作ったものに「感動した」「泣いた」みたいなでっかい反響をいただいて滅茶苦茶びっくりすることもあれば、逆に傷つけることもある。つまり常に己は自分を最低ラインだと思っていて、最低である自分ができることをできない人を理解できなかったり、最低ラインを超える事象に対し攻撃的になったりするきらいがあるのだ。

しかしそれはそれで驕りなのだ。自分自身を最低ラインと信じることも。

そうだ。いつまでも弱者気分でいたら、場合によっては斧を持ちながらまるで丸腰のような口ぶりで攻撃する人になってしまう。というか最早なりかけている。

せっかくすごく嬉しいことがあったんだ。尊敬している方から嬉しい言葉をいただいたんだ。だからそれを糧にしてきちんと自信を持ち、自分の言葉の威力を自覚しよう。ということを思い知らされて、反省した。どうにかこうにか、バランス良く生きられるようになりたい。



日記録0杯, 日常

2020年2月16日(日) 緑茶カウント:0杯

気付いたらこたつ布団を膝にかけ、ソファに倒れて眠り込んでいた。目の前には空になった皿と呑みかけのビール。二本目のほとんどを残した状態で墜落していて、起きたときにはやけに頭がぼーっとしていた。

毎週日曜日は二時間かけて常備菜作りをしているのだが、今日は作りきった後やけに体に疲労を感じた。思えば寝不足だったのかもしれない。そして風呂を洗い、部屋の掃除をし、風呂に入って晩酌にありついて、満腹とアルコールの威力にくらくらして己は眠り込んでしまったのだ。

起きたら二十三時頃。とりあえずまだそこそこ冷えていたビールを呑み、食器を洗い。歯を磨いて何となくこの日記を書いて、終わったら布団に潜り込んで今度こそ本格的に寝るとしよう。もうちょっと遊びたい気分もあったが今は何よりも睡眠が恋しい。そうだ、布団に包まれながらとろとろとラジオを聴こうかな。それはとても心地よく気持ち良いだろう。

では、おやすみ。



日記録2杯, 日常

2020年2月13日(木) 緑茶カウント:2杯

玄関を出て角を曲がると、それはもう見事なまっすぐな道があって、それはまるで果ての果てまで続いているように見えるのだけれども、たった十分早歩きするだけでその果てに着いてしまうんだ。そうして大通りを目の前にして振り返ると、やはりそれはもう見事なまっすぐな道が果ての果てまで広がっているのさ。

果てってのはたった十分の早歩きの距離なのかしら。あんなに遠くに見えるのに。

玄関を出て角を曲がり、早歩きでずんずん歩く。ずんずん歩くうち、霞んでいた果ての先を分断する大通りが見えて、和菓子屋を越え、赤いポストを越え、ついに、と言うには近すぎる、なんてったってたったの十分だから。十分歩いて左に曲がると図書館があって、さらにもっとずんずん歩くと大きな郵便局がある。図書館まで十分、郵便局まで二十分。そこで己は荷物を受け取り、本を借りて、またずんずん果てを目指して歩いて、すぐに我が家に着いてしまう。

この小さな小さな果ての行き来が楽しい。
まっすぐな道は、楽しい。



日記録0杯, のほほん学校, 日常

2020年2月11日(火) 緑茶カウント:0杯

あっという間だ。気付けばこのサイトを開設して今日で十八年目、つまり十七周年を迎えたことになる。もう人生の半分以上をこのサイトと共に歩んでいるのだと思うと感慨深い。始めた当初はメモ帳にHTMLをタグ打ちしてFFFTPでアップロードして、だんだんサイトの形式も変わっていき、何年か前にWordpressに移行して、今はサイトと言うよりもブログと表現する方が近しい思いもするものの、「個人サイト」という古めかしい響きが好きで今もその名を使っている。今後も時代の流れに乗ってサイトの形は変わるのだろうが、やっていることは恐らくずっとそんなに変わらないのだろうなぁ。いや、イラストサイトからスタートして日記サイトになるという小さな変遷もあったけどね。

今日はオーケンのお誕生日を記念して開催されたオーケンのトークイベントであるのほほん学校に行ってきた。ゲストはFANTaさん、怒髪天の増子さん、高橋竜さんにタカハシヒョウリさんの四名。お誕生日記念ということで満員御礼のソールドアウト。己の整理番号は後ろの方だったため何とか座ることは出来たものの、終始首を傾けなければならなかったためなかなか大変だった。

しかしイベント中は首の痛みを忘れるほど楽しく面白く、ケラケラ笑って最高の気持ちになれた。増子さんのトークの切れっぷりの素晴らしさったら! イベント中、オーケンはYoutuberを目指すと言い出し、世界に筋肉少女帯を英語で紹介する動画を撮ったことを明かした。結局イベントではその動画は披露されなかったが帰宅したらアップされていた。Hello world! We are Kinnikushoujotai!





弾き語りに英語にインスタグラム。いくつになっても新しいことに意欲的なオーケンはすごいなぁ、と新しいことへの腰が重い己はシンプルに尊敬の念を抱く。こうありたいなぁと思いつつ、己はずっと同じことをやってんだろうなぁとも思っていて、それはそれでまぁいいか、と思いつつ、ちょっとした焦燥感も胸の内に湧くのであった。