日記録4杯, 日常

2016年5月8日(日) 緑茶カウント:4杯

「今日は帰りたくない気分なんだ……」
「今日は君を帰したくないんだ……」

図書館めぐりを楽しみ、読みたい本に思いを馳せる。そんな週末の日常を書き記したいと思っているにも関わらず、こんなドラマのような台詞を老若男女誰かれ構わず呟きたい気分になっているのは何も発情しているからではない。ただただ本気で家に帰りたくない。というか、帰りたいのは山々だが帰りづらいためである。

イヤホンをしていたら気付かなかったかもしれない。新しい図書館に行こうと適当な住所と地図を頭に入れて玄関扉を開けたとき、ブンブンブブブンと不穏な音が頭上で鳴っていた。羽音である。大きな生き物の羽音である。そうして見上げてみれば、玄関開けたら二秒で対面の目と鼻の先の天井にスズメバチ様が巣をお作りになっていたのだ。

スズメバチ。格好良い。あのフォルム、色彩、どれをとっても好みである。しかしだからと言って、玄関先に巣を作られて喜べようか。

喜べない。

うわあ。エアコンの排気口か何かわからんが、天井に括りつけられた直径十センチほどのホースの中に巣を作っていやがる。うわー狭いところに既にもう結構巣が出来てる。うっわーーーー。

とりあえず管理会社に電話をした。携帯電話に管理会社の電話番号を登録していた過去の自分はなかなか良い仕事をしたと思う。管理会社はすぐに対応してくれた。だが、巣の駆除は早くて明日になるという。日曜日だから仕方がない。

仕方がないが、一度外に出てしまったからには戻らないといけないわけで。ということはスズメバチがブンブンブブブンと舞うすぐ近く、至近距離でドアーの開閉をしなければならないということで。そうして己は図書館で「家畜人ヤプー」を読みながら憂鬱な気分を噛み締めていたのである。そうしてまた、挑戦してみたは良いが、まぁある程度予想はついていたのだが、読んでいて気持ち悪くなってしまって早々とリタイヤしたのである。だめだった。

やめときゃ良かったと後悔しつつ別の本を借り、スーパーに寄ってしこたま食材を買い込んだ。その道すがら、もう日が落ちる寸前の夕暮れ時を歩きながら、ひたすら冒頭の台詞を脳内で呟いていたのである。かえっりたくねえ……。

家には帰れた。ご飯も食べた。本も読んだ。しかし明日はまた家を出なければならず、出て帰ってくるまでには駆除がされているはずだが出るまでが憂鬱で、ひたすら引きこもってしまいたいなぁと思いながらキーボードを叩いている。

あぁ。あぁ!!



日記録0杯, 日常

2016年5月7日(土) 緑茶カウント:0杯

ここ数日の天気と言ったらまるで夏のようである。まだこたつは仕舞えていないが電源はずっと切ったままでコンセントはとうに外してしまった。日中は半袖で過ごすのが常で春よりもむしろ夏の装いに近い。すると飲み物も必然冷たいものを欲するわけで、じゃあそろそろ冷たい緑茶でも淹れようかなと棚の奥からガラス瓶を取り出し、茶葉まで用意は出来たが良いが、茶葉を包む紙パックが無いことに気付きがっかりした、そんな夜。

じゃあ緑茶の代わりに何か、ティーバッグのお茶はなかったかなと探してみるといつぞやお土産にいただいたフレーバーティーが一つ。まだ開封されていないそれの配合物を確認してみると、ジャスミンやら何やら華やかな植物がたっぷりで、我が家の台所においては異質な存在だ。じゃ、これを水出しにするかなとティーバッグをガラス瓶にポンと入れて水を注ぎ、ある程度エキスが抽出されるまでしばらく台所に置いて己は隣の部屋に移った。

そうして三十分後に台所に入ったら、台所全体がにおいで満たされていた。
華やかさとは程遠い、痒み止めの塗り薬・キンカンのにおいで。

……さっき己は台所でキンカンをブチ撒けただろか。いや、ブチ撒けていない。何だこれ? いやにおいの発生源と言えば目の前のガラス瓶しか心当たりがないが、何故? ジャスミンやら何やらの華やかな植物やドライフルーツが詰まったティーバッグからどうしてこんなにおいが発せられているのか皆目見当がつかない。疑問符を浮かべつつガラス瓶の蓋を開き鼻を近づける。もしかしたら原因は他にあるかもしれないと思って。

原因はここにしかなく、においはやはりキンカンだった。キンカンの原液だった。とりあえず冷蔵庫に入れた。問題を先送りした。

台所にはまだキンカンのにおいが満ちていた。

明日の朝、キンキンに冷えたキンカンの原液を己は飲むのだろうか。すごく目が覚めそうである。
明日は紙パックを必ず買おう。何だあれ。



日記録0杯, 日常

2016年5月5日(木) 緑茶カウント:0杯

最近酔いやすくなったなぁ、数年前よりも呑めなくなった気がするぞ、と思っていたのだが、連日五百ミリのビールを五、六本呑んでも二日酔いにならないという事実が判明したので、意外とまだまだ呑めるのかもしれない。問題はペースなんだろうなぁ。ゆったり呑めば大丈夫なのである。

相変わらず「おそ松さん」にはまっている。先日、小学校の友人の家に伺い、お茶を飲みながら話す機会があった。もともとは昼食を食べに出かけようと話をしていたのだが、友人が出かけられなくなったため友人の家でお茶会をすることになったのだ。茶菓子を持って友人を訪ねると「ごめんね、急なお葬式があって家族が出払っちゃって」とのこと。友人の家はお寺であり、友人はお坊さんなのである。「夏休みはお盆、シルバーウィークはお彼岸があるから、忙しくない連休って行事のないゴールデンウィークくらいなんだけどごめんねー」と言いながらアールグレイを淹れてくれた。

友人は仏教で、自分は神道。互いの宗教観について話をする機会はなかなかないので、友人との会話はちょっとだけ特別だ。お坊さんの年間行事の話や檀家さんとのお付き合いについて聴くのは楽しい。

友人に「おそ松さんに滅茶苦茶はまっている」と言うと、「ウヲもなんだ! すごく流行ってるよね、周りにもはまってる人いっぱいいるよ」と話してくれた。そしていつだったか偶然テレビで「おそ松さん」を観たとき驚いたという話も。友人曰く、すごく早口に聴こえたそうだ。登場人物がすごく早口で喋り、言葉に言葉を被せていくスピード感に面食らったという。なるほど確かに。言われてみれば早口だ。

ちょうど前日十年ぶりくらいに家で「サザエさん」を観たが、彼らの言葉は非常にゆっくりだ。誰かが喋った後に、間を置いてから他の誰かが喋りだし、老若男女が聴き取りやすいように作られている。家族皆で観ることが前提に作られた「サザエさん」と、アニメに慣れた大人が観ることを前提に作られた「おそ松さん」。その違いが言葉のスピード感にも表れているのかもしれない。

酒が入らなくても話は弾むもので、四時間喋り通しだった。素面でもこんなに喋れるもんなんだねと笑いあいつつお寺を出て家に帰り、その日もビールを五本呑んだ。そんな連休を楽しんだのである。



日記録0杯, 日常

2016年4月29日(金) 緑茶カウント:0杯

おはよう!! と、勢いよく挨拶する現在の時刻は三時半である。早朝というよりも深夜の。では、何故このような時間に「おはよう!」と言っているのかと言うと、起きてしまったからである。では何故こんな時間に起きてしまったのかと言うと、変な時間に寝てしまったからである。

まず昨日の朝六時に寝た。
そして十四時半に起きた。
その後十九時半に眠くなったので眠り、日付が変わって二時半に起きた。

八時間半睡眠をとった後、五時間後に寝て、五時間経って起きたということである。何だこの睡眠。何だこの生活。金曜日に起きていた時間が五時間しかないというのもすごい。すごいと言うかひどい。己は何のために生きているのだろう。

そして今はすっかり眼が冴えてしまったのでこうして日記を書いている。明日は朝から活動したいのだがいったいどうしたものだろうか。とりあえず寝てみようと考えている。



日記録2杯, 日常, 筋肉少女帯

2016年4月24日(日) 緑茶カウント:2杯

筋肉少女帯の新曲「週替わりの奇跡の神話」。発売されてからここ数日、何度も何度も延々と繰り返し聴いている。アニメ「うしおととら」のために作られた主題歌であるこの曲は、潮ととらの二人の関係性を歌うと同時に、「だけど変わらないあいつらいると言う ああ 時を超え生きてるからさ」と、物語が完結した二十年後にアニメとなって現代に蘇った「うしおととら」という作品そのものについても歌っているのが実ににくい。

そして特筆すべき点は、筋少にしては珍しく「永遠がある」と歌っていること。これは今までの筋少の歌詞にはなかったことだと思う。

「愛など存在はしない、この恋もどうせ終わるさ だが二人の出会えたきらめき」と歌う「きらめき」。

「いつか恋も終わりがくるのだから、一人ででも生きてけるように君の頭をよくしてあげよう」と歌う「香菜、頭をよくしてあげよう」。

「たった一つの輝きを失くしたとしても大丈夫、形が変わっていくだけさ」と歌う「ワインライダー・フォーエバー」。

永遠と思っていたものも、愛も恋もいつかは終わる。でも大丈夫だよ、と終わりがあることを受け入れさせ、声をかけてきたのが今までの筋少である。そんな中で、「永遠なんだと信じていたものもいつかは終わる、だけど変わらない絆がある」と歌う「週替わりの奇跡の神話」は異端な歌詞だ。永遠がないという前提を覆し、「ある」に転じる歌詞。「うしおととら」のための曲だからこそなのか、それともオーケンの考え方が変わったのか。

しかし。「永遠がある」と希望的なことを歌っているように聴こえるが、結局「奇跡の神話」の中にしか「変わらないもの」はないのであった。もっと言えば、物語の中にしか「永遠」はない。つまり、神話の外の世界である我々の世界は移ろい行くのが常であり、永遠など存在しない。ないはずの永遠があるからこそそれは「奇跡の神話」なのである。ギリギリを生きて、命を賭けてつるむほどのことをしなければ永遠なんぞ手に入らないのである。

オーケンは何も変わっていなかった。表現方法を変えただけで、今までと同じように「永遠なんて滅多にない」と歌っていた。ただ、表現方法が変わっただけで、「あるかもしれない」と錯覚しそうになるのである。その点で「週替わりの奇跡の神話」は、「ない」と言い切る他の歌詞よりも残酷であり、そして切ない。

だが、だからこそ物語の中の永遠が輝きを放つのだ。そうしてそれが、移ろい行く現実を生きるうえでの糧となる……が、輝きに目が疲れることもある。そんなときに己は「ワインライダー・フォーエバー」を聴いて足元を確かめ、コトコトコトコト歩き出すのである。

永遠は、神話の中にしかないのだ。