日記録2杯, 日常

2016年6月30日(木) 緑茶カウント:2杯

ある日突然告白される衝撃を君は受け止められるだろうか。学食で飯を食べている最中、いきなり、「あたし、風俗で働いているの」と言われる衝撃を。

その告白を受けた後、ウィキペディアで風俗の労働内容を調べた。後日友人と学食で昼食をとった際、「これ美味しいよ」と差し出されたフォークを口に受けることに己は逡巡した。彼女は変わらず友人だった。しかしその口が受けていたものを己は知ってしまっていたので。

あのとき己は確かにひと時「嫌だな」と感じたのだ。しかし数秒後、何事も無い顔をしてフォークの先にある食べ物を口に含んだのだ。

永田カビ作の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」を読んだ。これは風俗体験を主軸にした漫画ではない。むしろエロスを期待して買えば肩透かしを食らうだろう。これは作者が、自分自身を抑圧するもう一人の自分と相対しながら、自分という存在を苛烈に紐解く物語である。そこには悲しさと息苦しさが混在していて、どうにか作者を解き放てないだろうかと願いつつ、作者と同じ感覚を抱いている自分の一箇所に気付く。そんな辛さがあった。

人によっては肝腎の、風俗体験部分もひたすら悲しい。だって、読んでも読んでも作者の求めるものは得られていないので。

友人は結婚した。何事もなく。いや、色々あったが。彼女は自傷をしていて、己を保つためにタトゥーを入れていて、会うたびにピアスの数を増やしていた。己はそれを否定しなかった。何故なら、己は彼女の辛さの全てを理解することはできなかったからだ。そして、死ぬくらいなら例え傷が増えても、生きている方がずっと良いと思っていたからだ。死ぬことを止める術が自傷やタトゥーなら、それらを利用しながら生きてくれる方がずっと良い。そう思っていた。だから何も言えなかった。本当は、風俗で働くことを止めたかったのに。しかし、それを止めることすら彼女の負担になると感じていた。

作者も誰も彼も皆、幸せになって欲しいと願って。
ひたすらぐるぐるして眠れない、そんな漫画であった。



日記録2杯, 日常

2016年6月25日(土) 緑茶カウント:2杯

二十年近くインターネットの海を泳いでいて思うことは、閉鎖してしまったサイトを二度と見られないことがとても悲しく寂しいということ。本であれば連載が終わっても読み返せる。そうして記憶を辿ることができる。しかしウェブページは違う。閉鎖してしまったらもう二度と見られない。そして、この二十年のうちにいくつものサイトが閉鎖した。思い返すたびに懐かしさを抱きつつ、もう二度とそのコンテンツを楽しめないことを思い知って悲しむのである。

だからこそ、長く続いているサイトは嬉しい。

十代前半から後半にかけて、夢中になっていたコミュニティサイトがあった。一日に何時間もそこに入り浸り、世界観にどっぷり浸かる日々が続いた。しかし月日は流れ、毎日多くの人が出入りしたそのサイトも今や閑古鳥が鳴いて幾年月。誰も来ない日の方が多い。しかしずっと残っている。

思い出してはサイトに訪れ、日ごとのアクセスカウンタを確認すると夜更けにも関わらずその日の一人目の来訪者が自分自身ということも少なくなく、何一つ更新されない日が続く中も、管理人の方はずっと管理し続けてくれていて、今もその場所は残っている。だから自分は何度となくその地に降り立ち、思い出に浸ることができるのである。

また別のサイト。以前は毎日のように訪問していたが、興味が別に移り、数年見ていなかったところがあった。しかし己が見ていない間もそのサイトは更新を続けていて、今日ふと思い出して見に行けば更新日時は本日で、己はたまらなく嬉しくなったのである。

かと思えばサイトは残っているものの、更新日は三年前で止まっているサイトもある。だが、残ってくれていることが何より嬉しく、己はにんまりと笑いながらあちこちをクリックしてコンテンツを読むのである。

今使っているパソコンは二台目だ。ブックマークは一代目のパソコンから引き継いだものである。故に、跡地すら残っていないサイトも多い。しかしそれを確認するのは忍びなく、既に無くなっていることを類推しつつ見ないふりをしてて、だからきっと、己のブックマークはゴーストタウンに成り果てているのだ。

だから。もし誰かがうちのサイトに来て、「あぁまだやってたんだな」と思ってくれたら嬉しいし、そのようにほっとしてもらえるよう、続けていきたいと思うのである。

続けるさ。これからも。



日記録4杯, 日常

2016年6月22日(水) 緑茶カウント:4杯

ひしめきあっていた建物の一箇所にぽっかりと空き地が出来ていて、その前を歩いた瞬間、そこに何があったのか思い出せない自分が生まれた。何度となく通りかかった場所であるというのに、ほんの一週間通らなかっただけなのに。

まるでパズルのピースが一つ抜けてしまったかのような空白。あるのは違和感ばかりなり。絶対に知っていたはずなのに思い出せない気持ち悪さが脳を渦巻く。出前屋か? 薬局か? わからない。

そうしてまた別の一所が先日空き地になり、翌日にはアスファルトで塗り固められ、今日にはよく見る駐車場に変化していた。変わる風景を眺めながら過去ここにあったものを思い返そうとするもごちゃりと混ざってしまって見えない。利用したことのない店だった。しかしずーっと見かけていた。その風景に己は馴染んでいた。馴染んでいたのに全く見えない。

今日も空き地を眺めながら、何があったかなぁと考える。日に日におぼろげになっていく。そのうち、違和感を払拭するために適当な記憶を上書きするかもしれない。そうすることでパズルのピースをはめたような気分になって安心することを期待して。

そうだ、あそこはきっと薬局だったのだ。と。



日記録2杯, 日常,

2016年6月19日(日) 緑茶カウント:2杯

意識して避けていたわけではなかったが、たまたま口にする機会がなく食べたことのないものがあった。一つがカントリーマアムであり、もう一つがつけ麺である。そうして、ならばいっそ死ぬまで口にしないのも面白いかもしれないと思い、意識的に避けているのがカントリーマアムで、数ヶ月前についに口にしたのがつけ麺である。

そうして初めて口にしてから今日で四度目となるつけ麺の味はまぁ美味しく、美味しいが、汁にいちいち浸すのが面倒くさいなぁ、最初っから浸かっていれば良いのになぁ、と思うあたり、己はつけ麺に向いてない人間なのだと思う。

近所に美味しいつけ麺屋が出来たのだ。いつも行列が出来ていて賑わっているその店が、たまたま通りかかったとき空いていたのである。そしてそのとき己は腹が減っていた。これも縁かと思って入り、つけ麺を注文。出てきた麺は冷たく、汁は熱く、口の中で混ざればぬるく、「これは本当に美味いのか?」と衝撃を受けたのが第一印象だ。その後、麺を温かくする「あつもり」なる食べ方を知り、以来「あつもり」にて注文したら美味しく食べられるようになったがやはりいちいち汁に浸すのは面倒くさい。

つけ麺を食べて人心地。思えば久しぶりにまともな食事をしたものだ。昨日の夕飯はきゅうりとハムと味海苔とマヨネーズ。その前は一日一食生活が続いていた。そりゃあ体力も尽きるというものだ。睡眠時間も足りず、栄養も足りずでは体が持つはずもない。もうちょいきちんと栄養を摂らねばならんな、と思った次第である。改めて。



日記録4杯, 日常

2016年6月14日(火) 緑茶カウント:4杯

ストレスを溜めに溜め、途を見失い気力を失っている最中に発表された筋肉少女帯・秋のツアー情報。おい、こんなに簡単に、空気入れを踏み潰すかのような勢いで生きる希望が漲るものかい? と思ってしまうが仕方がない。

しんどいのは事実だが、希望を与えられ、嬉しい。このために頑張ろうと思えてしまう心の灯火。それがある幸福。ありがたい。

これのために、どうにかこうにか踏ん張ってみよう、と思った。