日記録0杯, 日常

2018年7月16日(月) 緑茶カウント:0杯

恐らくそろそろ三ヶ月経つが、まだあのシャッターは開かれない。

一度も利用したことがないながらも、頻繁に前を通っていた眼鏡屋。壁いっぱいのガラスに季節ごとの文字やイラストのカッティングシートを貼って、脚立に座り細々と手入れする店主を己は好いていた。

しかし三ヶ月ほど前から「都合によりしばらくお休みします」という手書きの貼り紙がシャッターにつけられ、以来ずっとその貼り紙は剥がされず、シャッターが開けられることもない。

店の前を歩くたびに見つめるもやはりシャッターは閉じられたままで、もしや、と思うと切ない気持ちが募るながらも、名前も知らず買い物もしたこともなく、ただカッターを握る背中にそれだけ思い入れを持っていたことを不思議に感じる。そして思うことは、明日は開けば良いなと言うことで、明日は開けば良いなと思いながら駅までの道を歩いている。

明日は開かれるだろうか。どうだろうか、と思いながら。



日記録1杯, 日常

2018年7月14日(土) 緑茶カウント:1杯

事情により引っ越しの必要性が生じたため物件探しを行っている。ちなみにこの一週間の間に海へ出かけたり体調不良で軽く死に掛けたりとちょっとしたいろいろがあったが基本的には健康に過ごせているので何よりなことだ。

さて、家。今住んでいる家は広さはあるもののなかなか古く、玄関のチャイムは壊れているわ換気扇は回らないわトイレの水は異常に流れるわと様々な困難が発生していて、しかしまぁ安いしね、仕方ないよね、と納得しながら住んでいるが、次はもうちょっと良い家に住みたい。

と思って物件を探してみれば、今住んでいるところはそういったマイナス面もあるもののなかなかの破格なんだなぁ、と改めて思い知らされる。というのも、そういったマイナスを除去した家を探そうとすると平気で二万三万賃料がアップするのである。マイナスの要素のわりには良い家であると思わざるを得ない。

そうして不動産屋の人と相談しながらピックアップしてもらった家の間取りを眺めつつ考えていたら、追加で出された一枚。担当の方は言う。「これはわけあり物件なんですが」

ほう、わけあり物件とな。

「人が死んだりとかはしてないんですが」
「ではどうしてわけありに」
「隣人が常軌を逸した方なのです」
「常軌を逸した方ですか」

細かく話を聞いてみれば、今ではあれやこれやのトラブルは収まっているものの、いつそれが再発するかもわからず安い賃料になっているとのこと。そしてその内容はと言えば、玄関のチャイムが壊れていたり換気扇が回らなかったりトイレの水が異常に流れることと比較すると、いや絶対後者の方がマシだろと思うレベルのものであった。

「流石にちょっと遠慮したいです」と言えば「ですよねー」とさもありなんとでも言うように担当の方はわけあり物件の紙をしまった。そして目星をつけた物件のいくつかを内見し、明日また探しに行くこととなった。

さぁ、引っ越しまでのタイムリミットはそこそこ。果たして己は良い住まいに移ることが出来るのだろうか。乞うご期待。



日記録2杯, 日常

2018年7月2日(月) 緑茶カウント:2杯

あっれー、どうしたことだろう。この間眼鏡を新しくしたばかりだと言うのにもうピントが合わない。あ、なるほど、レンズが汚れているのだな。こりゃあしまった。ちゃんと綺麗にせねばなるまいな。

と、眼鏡拭きを手にとって眼鏡を外しレンズを確認すると小さな汚れ。よしよし、こいつを拭けば解決だ、と意気揚々とかけ直し、再度パソコンの画面を見れば。

ピントが合わない。
全然ピントが合わない。

マジかよ。この間変えたばっかりだってのにもう視力が下がったのかよ。むしろ目の病気を疑うよ、って若干恐怖を感じた一週間。そして昨日、早いうちから昏々と眠り、すっきりと目覚め、改めてパソコン画面を見てみれば。

そういうことだった。視力が低下したわけではなかった。体力が著しく低下していただけだった。

なるほど。疲れていたものなぁ。つまりこれは疲れ目か。ピントが合わなくなるほど疲れていたのか。思えばここ最近、疲労と睡眠不足で体力が低下していて、やたらと栄養ドリンクの世話になっていた。なるほどなぁ。

納得しつつ思い知る。これは一つのバロメーターだなと。見えにくくなったら気をつけよう。



日記録4杯, 日常

2018年6月27日(水) 緑茶カウント:4杯

身近に性悪説を自称する人がいる。それは良い。まずは疑うことから始めると言う。それもまぁ良い。

ただ、その人は性悪説を免罪符にして事実確認の手間を惜しむ自分を肯定しているだけなんだな。

ということに気づいたのは最近か。何かにつけて疑ってかかるその人は事実を確認しないまま「こうであるに違いない」と決め付け、人を攻撃する。年若い人は驚いて黙ってしまうが、その衝撃を受ける様を見てその人はさらに「それ見たことか」と断罪する。で、結果どうなるかと言うと嫌われる。その空気をその人は感じている。そして「自分は世の中をシビアに見ているから」「自分のような嫌われ役も必要だ」と自身の役どころを自ら設定し、肯定する。

でも違うんだよな。性悪説云々がどうではなくて、単にその人は面倒臭がりなんだ。ところがそのことに気づけずにいるんだ。

距離を置き、眺めながら考える。いつかそのことに気づく日が来たとき、その人は何を思うだろうかと。もう一つ考える。指摘するべきだろうかと。同時に思う。そこまでする義理もないな、と。それは自身もその人に断罪されてきた身ゆえに。

どうだろう。いつか気づく日が来るのだろうか。



日記録2杯, 日常, 筋肉少女帯

2018年6月20日(水) 緑茶カウント:2杯


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疲れたんだ。とても疲れていたんだ。でもその中で無理をしてタワレコに行って良かったと思えたんだ。

筋肉少女帯デビュー三十周年ライブの前日である今日、リマスタリングされた四枚のアルバムに、凍結直前のライブDVDに近年のライブ映像を収めたブルーレイ、そして最新作を含む四枚のアルバムジャケットが美しい存在感を放つアナログレコード四枚。これらが一気に発売され、それを買うために己はタワレコへと走った。レコードだけは予算の関係で来月に回したが。

疲れたんだ。とても疲れていたんだ。でもその中で無理をしてタワレコに行って良かったと思えたんだ。

初めて聴いた「蜘蛛の糸」。初めて手に取った筋少のアルバム「レティクル座妄想」。もう十五年も前にレンタルCDショップで借りてきて、土曜日の昼下がり、母の作った昼食を食べながら皆で一緒に聴こうと家族を誘い、CDプレーヤーにかけたら放たれたるは少女の嘲笑。呆然とし、どうしようと思ったあの日から己は筋少にはまったのだ。

あの十五年前に手に取った、古ぼけたアルバムの新品を今こうして手に取れるなんて誰が想像できるだろう。まるであの日の衝撃を追体験するかのような鮮烈さに心臓を震わせつつ、改めて思ったのは初めて聴いたのがレティクル座妄想で良かったな、ということ。恐らく、他のアルバムが最初であっても己は筋少にはまっていたに違いないが、最初の出会いがレティクルであったことはきっと幸福に他ならない。

そして明日はデビュー三十周年記念ライブだ。筋少がデビューしたときにはまだまだこの世に生を受けたばかりだった自分がこうして、リアルタイムで祝えることのありがたさ。喜び。至福。それらを噛み締めながらリマスタリングされた楽曲に、ボーナストラックのデモ音源を楽しめる幸福。

あぁ、何て最高の前夜祭か。
アルコールを傾けつつ、アルコール以上の酩酊を味わう夜である。楽しい。