葬式帰りの朗らかな人々

2013年7月1日(月) 緑茶カウント:0杯

下宿先の目と鼻の先にお寺があり、その関係で黒い服を来た人々がぞろぞろ歩くところを頻繁に目撃する。特に休みの日などは葬式帰りの人に出会うことが多く、ネギやじゃがいも、醤油などを買い込んででっかいビニール袋を両手に提げて歩いていたら、向かいからお骨を抱えた人がやってきて、日常と非日常のぶつかり合いにぎょっとしたこともあった。

しかし不思議と、今のところ悲しそうな顔をして歩く人を見たことが無い。わいわいと賑やかに喋りながら歩く人、にこにこ楽しそうに笑っている人、ごく普通に世間話をしながら歩く人ばかりで、件のお骨を抱えた人も悲壮な面持ちはしておらず、それこそネギや醤油でも抱えているかのような顔つきで、隣を歩く人とごく普通の話をしていた。

全く縁もゆかりも無い赤の他人のこととはいえ、悲しそうな顔をしながら歩く人はなるべくなら見たいものではないので、朗らかでいてくれるのは有難く、また、そういった場面しか目にしないのは運が良いとも思えるが、皆が皆サッパリした顔をしているのはどこかバランスが悪い気がして、日常の中にいるのに異世界に紛れ込んだ気分でいる。何だろう、このバランスの悪さは。

無論、これは葬式帰りのくせに笑顔でいるなんて恥を知れ、と憤っているわけではなく、葬式帰りとはこうあるべきだ、と主張したいわけでもない。ただ、まるで目的の結果を得るために作られたアンケートによって得られた結果を見せられているような、何か偏ったものを見せられているような違和感があって具合が悪いのである。

「葬式帰りの人は悲しみに溢れている」という自身の思い込みが先にあり、だからこそそれを覆されてショックを受ける。また、喪服と笑顔という組み合わせのギャップの強さも違和感の原因だ。だが、朗らかな人もいて当然だが、どうして朗らかな人しか目にしないのか、という疑問と違和感が何よりあって、心底不思議だなぁ、と思いつつ、何と無く居心地の悪さを感じつつ、たまにそれを思い出しながら日々を生きている。単なる偶然なのだろうか。わからない。



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