日記録4杯, 日常

2018年6月27日(水) 緑茶カウント:4杯

身近に性悪説を自称する人がいる。それは良い。まずは疑うことから始めると言う。それもまぁ良い。

ただ、その人は性悪説を免罪符にして事実確認の手間を惜しむ自分を肯定しているだけなんだな。

ということに気づいたのは最近か。何かにつけて疑ってかかるその人は事実を確認しないまま「こうであるに違いない」と決め付け、人を攻撃する。年若い人は驚いて黙ってしまうが、その衝撃を受ける様を見てその人はさらに「それ見たことか」と断罪する。で、結果どうなるかと言うと嫌われる。その空気をその人は感じている。そして「自分は世の中をシビアに見ているから」「自分のような嫌われ役も必要だ」と自身の役どころを自ら設定し、肯定する。

でも違うんだよな。性悪説云々がどうではなくて、単にその人は面倒臭がりなんだ。ところがそのことに気づけずにいるんだ。

距離を置き、眺めながら考える。いつかそのことに気づく日が来たとき、その人は何を思うだろうかと。もう一つ考える。指摘するべきだろうかと。同時に思う。そこまでする義理もないな、と。それは自身もその人に断罪されてきた身ゆえに。

どうだろう。いつか気づく日が来るのだろうか。



日記録2杯, 日常, 筋肉少女帯

2018年6月20日(水) 緑茶カウント:2杯


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疲れたんだ。とても疲れていたんだ。でもその中で無理をしてタワレコに行って良かったと思えたんだ。

筋肉少女帯デビュー三十周年ライブの前日である今日、リマスタリングされた四枚のアルバムに、凍結直前のライブDVDに近年のライブ映像を収めたブルーレイ、そして最新作を含む四枚のアルバムジャケットが美しい存在感を放つアナログレコード四枚。これらが一気に発売され、それを買うために己はタワレコへと走った。レコードだけは予算の関係で来月に回したが。

疲れたんだ。とても疲れていたんだ。でもその中で無理をしてタワレコに行って良かったと思えたんだ。

初めて聴いた「蜘蛛の糸」。初めて手に取った筋少のアルバム「レティクル座妄想」。もう十五年も前にレンタルCDショップで借りてきて、土曜日の昼下がり、母の作った昼食を食べながら皆で一緒に聴こうと家族を誘い、CDプレーヤーにかけたら放たれたるは少女の嘲笑。呆然とし、どうしようと思ったあの日から己は筋少にはまったのだ。

あの十五年前に手に取った、古ぼけたアルバムの新品を今こうして手に取れるなんて誰が想像できるだろう。まるであの日の衝撃を追体験するかのような鮮烈さに心臓を震わせつつ、改めて思ったのは初めて聴いたのがレティクル座妄想で良かったな、ということ。恐らく、他のアルバムが最初であっても己は筋少にはまっていたに違いないが、最初の出会いがレティクルであったことはきっと幸福に他ならない。

そして明日はデビュー三十周年記念ライブだ。筋少がデビューしたときにはまだまだこの世に生を受けたばかりだった自分がこうして、リアルタイムで祝えることのありがたさ。喜び。至福。それらを噛み締めながらリマスタリングされた楽曲に、ボーナストラックのデモ音源を楽しめる幸福。

あぁ、何て最高の前夜祭か。
アルコールを傾けつつ、アルコール以上の酩酊を味わう夜である。楽しい。



日記録0杯, 日常

2018年6月17日(日) 緑茶カウント:0杯

あれは高校生の頃だっただろうか。家の書棚にあった司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を手に取り、夢中になって読んだ数ヶ月。人間くさい竜馬に愛着を持ち、楽しんで読んだ時代小説。あれを読んだのは何年前か。もう十年も経っているだろう。

しかし己は、未だその最終巻を手に取ることができていない。

これを勝手に「竜馬がゆく現象」と呼んでいて、呼んでいるからには類似の現象が発生しているということで。即ちどういうことかと説明するならば、己は竜馬に愛着を持ちすぎた故に竜馬が殺されてしまうことがたまらなく悲しくて、最終巻を読むことができなかったのだ。

同じような現象はゲームでも起こる。もうすぐラスボスだ、全面クリアだと言うところで物語が終わってしまうことが悲しくて手を離してしまう。故に、熱心に遊んだゲームであるくせにそのラストを知らないものがちょこちょこあり、我ながらどうかと思うが、エンディング直前で手が止まってしまうことがままあるのだ。

思い出すのは幼少の頃のこと。遊びに来ていた友人としこたま遊んで友人を玄関から見送ったあと。大抵己は「あー、つまらなかった」と言ったそうで、当初母はそれにカチンと来たという。充分楽しく遊んだのに何を言うのだ、一緒に遊んだ友人にも失礼だろうと。しかし、時が経つにつれその言葉の意味がわかったと己に話してくれた。

きっとそれは自己防衛の言葉だったのだろう。あんまり楽しかったから、楽しい時間から通常へと切り替わる寂しさに耐え難くて出た言葉だったのだろうと。

なるほどなぁ。一桁の年齢の頃から己はなかなか面倒臭い性格をしていたらしい。そうして思うことと言えば、竜馬の行く末。いや、知っているよ。歴史の教科書で彼が最終的に死ぬことは。暗殺されることは。でも悲しかったんだね、あぁ、知っているとも今になっても。

いつかあの文庫本を開ける時が来るだろうか。
まだまだ、時間がかかりそうである。



日記録2杯, 日常

2018年6月15日(金) 緑茶カウント:2杯

twitterのタイムラインを眺めているとたまに回ってくる、ストレッチやマッサージ、肩こり腰痛の解消方法を描いたイラスト。何千何万の人がリツイートしていて、へー、と思いながら眺めるのだが、ふとしたときに思うこと。

あれ、怖くないのだろうか。

お医者さんから聞いたよ、整体師さんから聞いたよとコメントされているものの、よくよく考えてみればツイートしている人の多くは素人で、専門知識があるわけではない。当然のことながら何かちょっとしたポイントを間違っていた場合も責任をとってくれる保障などない。

無論それは親切心によるツイートに違いないのだが、そう思うとなかなか恐ろしく、リツイートされる桁数を見るたびに「怖くないのだろうか」と不思議に思う。発信する側も見る側も。怖くないのだろうか。

自分はあれが、なかなか怖い。



日記録0杯, 日常

2018年6月9日(土) 緑茶カウント:0杯

ねぇ。己には同性愛者と両性愛者の友人知人がいます。しかし彼ら彼女らの苦悩を理解したところで、「よっしゃー今日から同性愛者両性愛者になるわー!」とは思いません。何故なら、彼ら彼女らと自分は違う人間だからです。

故に安心してほしい。同性愛者や両性愛者の存在が認められたとしても、社会が壊されることなどないことを。

だって、考えてもご覧なさいな。今日から同性愛者も結婚できると聞いたところで、もともと異性が好きな人は「よっしゃー同性愛者になるぞ!」なんて思わないでしょう。そこで、結婚するのは、同性と結婚したいと願っていた方々で、つまりその法律がなかったとしても異性と結婚して子供を生む可能性は少なかった方々です。

ねぇ。異性と結婚したくもないのに結婚して無理矢理子供を生ませられる人と、異性と結婚して子供を作りたくて、でも経済的な問題で子供をたくさん作ることができない人、どっちに子供を生めるようにするのが良い社会だと思う?

己は後者を応援したいと思うし、前者の悲しみを減らしたいと思うよ。

中学生のときに書いた人権作文。文章がうまいという理由で担任に抜擢され、同性愛者をテーマに書いたらものすごく嫌そうな顔で「別のテーマにしたら?」と言われたのは十五年ほど前の出来事か。あのとき、差別と認識されないものほどまずいのだろうなぁと知ったのだった。

今どうしてこれを己が書くかって? 心無い言葉によって傷ついて、死んでしまう人を減らしたいと思うためだ。
致死量に相当すると思うためだ。

この一言一言で、少しずつ良くなりますように、と願って。