2018年6月27日(水) 緑茶カウント:4杯
身近に性悪説を自称する人がいる。それは良い。まずは疑うことから始めると言う。それもまぁ良い。
ただ、その人は性悪説を免罪符にして事実確認の手間を惜しむ自分を肯定しているだけなんだな。
ということに気づいたのは最近か。何かにつけて疑ってかかるその人は事実を確認しないまま「こうであるに違いない」と決め付け、人を攻撃する。年若い人は驚いて黙ってしまうが、その衝撃を受ける様を見てその人はさらに「それ見たことか」と断罪する。で、結果どうなるかと言うと嫌われる。その空気をその人は感じている。そして「自分は世の中をシビアに見ているから」「自分のような嫌われ役も必要だ」と自身の役どころを自ら設定し、肯定する。
でも違うんだよな。性悪説云々がどうではなくて、単にその人は面倒臭がりなんだ。ところがそのことに気づけずにいるんだ。
距離を置き、眺めながら考える。いつかそのことに気づく日が来たとき、その人は何を思うだろうかと。もう一つ考える。指摘するべきだろうかと。同時に思う。そこまでする義理もないな、と。それは自身もその人に断罪されてきた身ゆえに。
どうだろう。いつか気づく日が来るのだろうか。