日記録0杯, 日常

2018年8月19日(日) 緑茶カウント:0杯

このたびの引っ越しでは梱包サービスを使ってみた。引っ越しまで時間がなく、またお盆期間と重なる故友人に手伝いを頼むこともできず、自分一人で詰め込める自信も無かったためだ。

引っ越し業者によるだろうが、己が使ったサービスの値段は三万円。二人の作業員が六時間派遣され、ひたすら梱包してくれると言う。ありがたいなぁ、食器類なんか特に自信が無いしなぁ、としみじみしていればすぐさま当日は訪れ、ありがたく全ての作業をそのお二人に任せることとなった。

いやー、すごかった。

もう容赦なしにバンバン詰め込む。当人であれば思い出に浸ったり、あ、これ捨てようかなどうしようかなと迷うだろうが、そんなことは一切なく目の前の物をひたすら詰め込む。明らかに捨てて良い空になったスパイス瓶も、ちょっと拭いた方がよろしいんじゃないかしらと言うような埃を被った物品もバンバン詰め込む。そこに一切の迷いは無い。

すげえ。これは確かにプロの仕事だ。

そしてたったの三時間で全ての梱包が終わり、二人の作業員は颯爽と帰って行った。途中、転入届の提出のため一時間ほど家を出たのだが、戻ってきたときには粗方詰め込まれていた。

さて、そうするとだね。梱包サービスを使う利点は梱包を自分で行わなくて良いことに他ならないのだが、欠点というか当たり前の事象として、どこに何が詰め込まれているかようわからんと言うことがある。いや、ダンボールには書いてくれているんですよ。「机の上の品々」とか「本」とか「ベッド下のもの」とか、場所や種類を書いてくれてはいるんですよ。でもわかんないんですよ! 解くまで、どこにあるのか!

よって厳重に紙に包まれたものを「何だろう……」と思いつつくるくる開くのだが、そのうちの一つで己はついつい笑ってしまった、やけに厳重に保護されている物品があり、これは何だと開いてみたら……

オーケンのチェキをまとめたアルバムだった。

あぁ、なるほど。作業員の方々はわかってくれだのだ。この部屋の主がとんでもない筋少ファン、そしてオーケンファンであることに。

まぁ、狭い部屋にでかでかと額に入れた筋少のサイン入りポスターなんか飾られていて、DVDやらCDが大量にあったら流石におわかりいただけるだろうなぁ、と笑いつつ、それぞれの小物と共に雑多に袋に詰め込まれた箸置きがある中で、やけに丁寧に紙に包まれた物品があって、解いてみて出てきたのはギターの形の箸置き。おいちゃんの持つストラトにそっくりな。

なるほど、部屋の主の特性を見越して仕事をしてくれるんだね。たは、と笑い、己は箸置きを引き出しに入れた。ありがたいことである。

ちなみに梱包サービスのデメリットとしては、ガンガン詰め込まれてしまうため荷解きをしたときにゴミが発生するってことかな。いや、もっと事前にこちらが準備しとけば事足りるのだが。お金を払って運んでもらい、荷解きの後吟味の挙句結局捨てるという作業が行われるのは若干、まぁ、うん、あれだな、阿呆らしい。可能であれば、その場で捨てる捨てないの判断もさせてもらえたらナイスだなぁ、と思った。

とはいえ大変お世話になりました。また次回もあれば利用しよう。



日記録0杯, 日常

2018年8月17日(金) 緑茶カウント:0杯


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ありがとう。様々な不具合に見舞われましたが、一番枯渇している時期に生きていかれたのはこの部屋があったおかげです。おかげさまで、どうにか生きていけました。感謝の気持ちを込めて磨きました。

ありがとうありがとう。

ありがとうこれまでの部屋よ。大変お世話になりました。



日記録0杯, 日常

2018年8月15日(水) 緑茶カウント:0杯

「マジかよ」「嘘だろ」「どうすんだよ」部屋の中心でバンザイをしながら思わぬ現実に己は途方に暮れていた。右手にはビニール。足元には買ったばかりの踏み台があって、破いた外箱はすぐ近くに落ちていた。

買ってきたばかりの踏み台以外何もないまっさらな部屋。引っ越し前にバルサンを焚こうと思い、踏み台とバルサンを買って新居に入ったものの、踏み台に乗っても天井の火災報知機に手が届かないなんて誰が想像できるだろう。しかもギリギリ、あと三センチほど届かない。

いや、知っていた。自分が小柄な方とは知っていた。まず郵便ポストの中がギリギリ見えない。小さなビルの最上階の部屋に決めたところ、地上にある郵便ポストが一階二階三階と順番に重ねられていて、最上階のポストは必然的に背が高くないと届かないのだ。おい、今までの住民は全員背が高かったのか、不便を感じなかったのかよと心の中で悪態をついても仕方が無い。まぁ、ギリギリ届くんだよ。届くんだよ。奥と底面は見えないけどね! はは、何が入っているかわかりゃしねえ!

ただ、今回ばかりは届きもしない。背伸びをしても肩を回しても届かない。どうしたって届かない。ダメだ、踏み台ではなく脚立を用意すべきだったと後悔しつつ考える。どうにかこの問題を解消する術はないか。しかしこの部屋にはほとんど物がなく、もちろん机も椅子もない。どうしよう。どうすべきか!

で、どうしたと思う? 何とか手は届き、己は無事バルサンを焚くことが出来たのさ。で、いったいどうしたって? 履いてきた靴を踏み台の上に乗せ、さらにその上に踏み台の外箱を畳んだものを乗せて、その上に立ったのさ。そうしてようやく三センチの距離を埋めたのさ。あぁ、しんどかった。しんどかった!! でもバルサンを焚けて良かった!

何となく、その後にも身長ならではの何かしらがあるのではないかと恐怖しつつ、引っ越しの準備を進めている次第である。はは、頑張ろ。



日記録0杯, 日常

2018年8月10日(金) 緑茶カウント:0杯

「大丈夫ですよ、まだ蓋を開けていません。安全な水ですよ」

そう言って差し出した水を素直に受け取り咽喉へと運ぶのは必ず男性で、同じ数くらい女性に水を差し出したことはあっても、一度としてまっすぐに受け取ってもらうことはできなかった。「いいです」「ありがとう」「持ってるので大丈夫です」と断られてばかりで、故に己は駅員もしくは警察官を呼ぶか、彼女達が蹲る隣に座って新しく電車が来るのを待ち、それに乗せることしか出来なかった。

そうして思うのは、彼ら彼女らが生きる世界の違いである。同じように酔っ払っていたとしても、見知らぬ人間から水を受け取れるのは男性ばかりで、女性は決して受け取らない。それはきっと、過去に数々の教育と教訓を得たからであろう。その水に毒が仕込まれているかもしれない可能性を彼女達は考えながら生きているのだ。

ところが酔っ払って地面にひれ伏しぐーすかと眠る男性は、体をつついて起こしてペットボトルを差し出せば、蓋の開閉も気にせず素直に中身を飲み干す。差し出した己さえ、そんなに信用して良いのかと不安に思うほどに安易に。そして水を飲み干して、「ありがとー」と礼を言うとぐーすかと駅のベンチに横たわって眠ってしまう。そんなことがありなのかと思うほどに、あっていいのかと思うほどに容易く、気楽に寝てしまうのだ。

同じように眠れる女性がどれほどいるだろう。あぁ、生きる世界が違うのだなぁ、と思いながらほてほてと歩きつつ、きっと見えている世界も違うのだろうなぁと思うと何とも言えない気分になるのである。



日記録6杯, 日常,

2018年7月30日(月) 緑茶カウント:6杯

二日前に開けて以来口をつけていない牛乳があったとしよう。さて、この牛乳は己にとって毒か否か。

毒か否か、と考えた時点でそれは毒に変貌する。例え傷んでいないとしても。

どうにも食品に対しての不安に己は弱いらしく、「大丈夫だろうか」と思った時点で必ず腹を壊す。大丈夫に違いないと思い直しても壊す。そして不思議なことに、同じ二日前に開けた牛乳であっても二日前と一日前に口をつけて安心して飲めていれば同じ日数が経っていても腹を壊さない。何故なら、そこに不安が無いからだ。

どうやら、目を離している間に何かが作用しているに違いないと信じてしまうらしい。目を見張ってさえすれば安心だが、一度範囲の外に出てしまうとそれはもう毒と成り果てるのだ。

いったいどこでどの信仰を抱くに至ったかは不明だが、抱いているからには上手に付き合うしか道がなく、なるべく毎日口をつけようと努力する次第である。あぁ、不思議な習性だ。