日記録4杯, 展覧会, 日常

2013年7月29日(月) 緑茶カウント:4杯

読み直してみたら昨日の日記、レオ・レオニの絵本の思い出ばかり書いていて、肝腎の展覧会については何も書いていなかった。

展覧会は夏休みの影響か流石の人ごみ、特に入り口付近は大混雑で、既に子供が飽きて泣いたりぐずったりしていてなかなかの混沌状態。先に進むにつれだんだんと見やすくなり、「フレデリック」や「アレクサンダとぜんまいねずみ」などのねずみのイラストが描かれた原画の前は人気が高く混雑していたが、「ペツェッティーノ」の前はかなり空いていた。

後ろの方にはスイミーのコーナーがあり、巨大なスクリーンに赤と黒の小魚の群れが映し出されていて、人が近付くと魚が逃げる仕掛けになっており、子供達が大喜びで魚を追っていた。また、スイミーの絵本を作る過程で描かれたラフが公開されていて、貴重なものを見られて嬉しかったものの、一番見たかったスイミーの原画は公開されておらず、だからこそあの大掛かりな仕掛けがあったのかもしれないが、……見たかったなぁ。

だが「平行植物シリーズ」などの、どこか妖しい退廃を思わせる架空の植物のイラストなど、「絵本」以外のレオ・レオニを見ることができたのは収穫だ。絵本は大好きだったが、彼の人物像はもとより、絵本以外の仕事の内容も全く知らなかったのである。今度は絵本以外のレオ・レオニを主軸とした展覧会も見てみたい。

原画については、絵本によって異なる絵画技法が使われていたのを再確認出来たのが面白かった。コラージュ・テンペラ・色鉛筆・油彩・ゴム版。レオ・レオニを知らなくても、一人の作者による多種多様の技法の結晶を一度に見られるので、絵に興味がある人ならきっと楽しめるに違いない。八月四日までなので、興味がある人は今のうちに是非。



日記録5杯, 展覧会, 非日常

2013年7月28日(日) 緑茶カウント:5杯


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Bunkamuraで開催されているレオ・レオニの絵本展に行ってきた。代表作の一つは「スイミー」。小学校に入る前だっただろうか。母に買ってもらった数々の絵本の中に「スイミー」があり、寝る前に必ず一冊好きな絵本を読んでもらえたのだが、この「スイミー」は何度読んでとねだったかわからない。特に印象的だったのがドロップのような美しい海草。あの水中を彩る華やかな色彩にすっかり魅入られてしまったのだ。

小学校に入学すると、「スイミー」以外のレオ・レオニの絵本がたくさん図書室に置いてあった。「アレクサンダーとぜんまいねずみ」「フレデリック」「おんがくねずみ ジェラルディン」「コーネリアス」、そして「ペツェッティーノ」。小さな欠片のような姿をした「ペツェッティーノ」が、自分は誰かの部分品ではないかと思い、様々な人に尋ねまわって自分の正体を探す話。これを読み、ペツェッティーノが自分の正体を見つけたとき、金槌で殴られるような衝撃と感動を覚えた。

それから十年近く経った後、「ペツェッティーノ」を読み返したときは、あのとき自分がひどく感動したことも含めて、どこか気恥ずかしいものを感じた。何故気恥ずかしく感じたか。それは「自分とは何か」と悩むことを青臭く感じる時期だったからだ。

ただ、気恥ずかしく感じはしたものの、依然好きという気持ちは変わらなかった。

レオ・レオニは幼少の自分に「自分は何なのだろう」と考えるきっかけをくれた人だ。そしてまた、当時の自分は知らなかった絵画技法を見せてくれた人でもある。いつか自力で絵本を揃えてみたい。特に「ペツェッティーノ」。三十を目前に控えた今、改めて読み直し、今どのように感じるか確認したい。今度はまた素直に読めるかもしれない。



日記録0杯, 日常

2013年7月27日(土) 緑茶カウント:0杯

ぐったり疲れた。最近夕飯に手を抜くことが多く、ろくなものを食べていなかったので、今日はそれなりにちゃんとしようと肉野菜炒め、もずく、味噌汁、ご飯を並べ、しっかり食べたら思いのほか腹が一杯になり、ドッと疲労と眠気が押し寄せてきて、歯磨きと食器洗いを済ませ、コンタクトレンズを外した後、しかし漫画を読みたい気分もあったので布団に寝そべって漫画を読むも、あ、やっぱ眠いだめだとそのまま眠り、目覚めたのが一時間後。驚いた。痺れるような疲労が全身を支配していて、体を動かせることはできるものの動くのが非常に辛いのである。

そしてまた一時間眠り、目が覚めても疲労は残っていたが日記を書くために起きた。思えば今週はろくに食べられなかったりしたものなぁ。少々無理が来ていたのかもしれない。



日記録3杯, 中華料理屋, 日常,

2013年7月26日(金) 緑茶カウント:3杯

今日はがっつり食べたいなーってんで馴染みの中華料理屋へ。大入り満員だったがちょうど二人出る人がいたので入れ違いでカウンターへ。いつもの味噌ラーメンと餃子を注文し、しばらくぼーっとしながら店の雰囲気を楽しんでいると、ぽっかり空いた隣の席に店の主が腰を下ろした。

主とは、店の従業員でないにも関わらず、台を拭いたり料理を運んだりと店を手伝いつつ、お湯で薄めた焼酎を呑みながらおかみさんと喋っている人だ。いつ来ても大概この人がいるので、心の中でではあるが勝手に主と呼ばせてもらっている。店に足を運ぶうちに漏れ聞こえる会話から何と無く主とおかみさんの関係がわかってきたが、わかったのはこの二人は家族でも親戚でも雇用関係でもないということだけで、古い友達なのか常連さんなのか、そこらへんの詳細はわからない。

注文した味噌ラーメンがドンと目の前に置かれた直後視界を横切るものがあった。割り箸だ。店の主はにっこり笑って割り箸を差し出していて、そのとき初めて自分はこの人の顔を正面から見た。気の良さそうなおばちゃんだった。今日はまだそんなに酔っ払っていないらしい。

全く、楽しい場所であるよな。



日記録0杯, 日常,

2013年7月25日(木) 緑茶カウント:0杯

卵かけご飯を語る人を見て思う。日本人の心と言っても過言ではないほど親しまれた家庭用ファーストフード。そのくせこだわる人はこだわり抜き、黄身を崩すタイミング、ご飯の温度、使う醤油の種類にまで気を使うと言うが、自分はこの卵かけご飯というものを食べたことが一度しか無い。

食べたのは確か成人後だ。卵かけご飯にネガティブなイメージを抱いたのは小学校低学年のとき。家族に卵かけご飯を食べる人がいないので、そのときまで「卵かけご飯を食べる人」を見たことが無かったのだが、初めて見たその人は非常に行儀の悪い人で、握り箸で両肘をテーブルに乗せながら、ずるずると茶碗に口をつけて啜るので、以来、卵かけご飯を見るとあの食事のイメージが連想されてしまうため食指が動いたことが無く、そうでなくとも恐らく苦手な味と食感だろうと思い込んでいたため一度も食べようとしたことが無かったが、大人になって、一度くらいは試してみようと思い、新鮮な卵と温かいご飯と醤油を用意して混ぜて食べてみたのだ。

子供の頃の自分は正しかったことがよくわかった。

以来食べていない。だが、楽しそうに卵かけご飯について語る人を見ると少しうらやましく感じるので、また試してみたら違うかもしれない、と思いつつ、やっぱ変わらないだろうなとも思っているので、目玉焼きをご飯に乗せて食べるのだ。火が通っていれば好きなんだ。