日記録0杯, 日常, 漫画

2019年8月11日(日) 緑茶カウント:0杯

実に心地よい日だった。

銀魂が完結した。銀魂の連載が始まったのは己が高校生の頃で、当時はいつ打ち切りの憂き目にあうかヒヤヒヤし、単行本一巻が発売された日には朝一番に駅の本屋で買ったものだ。すると打ち切りが危惧されていただけに仕入れも少なかったのだろう。各地で銀魂難民が発生していたことを記憶している。

いやこれも、美化された捏造の記憶かもしれないが。とにかく、故に己は銀魂一巻の初版本を大事に所有しているのである。

それから高校を卒業し、浪人し、大学生になり、いつしか毎週読んでいた週刊少年ジャンプと距離が生まれ、気に入った単行本だけを買う日々が続いていた。ある時から銀魂も買わなくなった。しかしたまに読みたくなった。そうして、数年に一度、がっつり十巻ほど買っては読みふけり、また数年後に一気に買う、そんなことを続けていた。

「銀魂」というタイトルを口に出すことすら恥ずかしかったあの時代も遠い。今や銀魂はすっかり認知され、誰もそのタイトルを口にすることに羞恥を感じることはないだろう。それほど世の中に浸透した。そしてついに完結した。だから買ったんだ、数年ぶりに。五十九巻から、最終巻の七十七巻まで一気にまとめて。

晩飯を作り、トイレ掃除をし、部屋にモップをかけ、洗濯をし、風呂に入って食事を終え、クッションに身を沈ませようやくページをめくる。あのとき麦茶か緑茶しか飲んでいなかった高校生は結構な呑兵衛になり、無論傍らにはビールが一本。クーラーの効いた部屋で虫の音を聴きながら風変わりな江戸の世界に没頭する。

そうして今、やっと六十二巻。文字が多いゆえに読み進めるのに時間がかかる。故に長く長くこの世界に浸っていられる。まだ終わった感慨はない。だが、好きなまま最初から最後まで終わりを迎えられるのが嬉しい。

あぁ、今日は心地よい日だ。
四本目のビールを呑みながら、思う。



日記録0杯, 日常, 漫画

2019年3月10日(日) 緑茶カウント:0杯

ふとこのところ新しく買った漫画のタイトルを眺めてみると、いつの間にやらバトル物の数が少なくなっていた。続けて買っているものと言えば「ジョジョリオン」「ドリフターズ」「ゴールデンカムイ」くらいだろうか。日常を描いた作品の方が最近はよく読んでいるかもしれない。

ジャンプを買っていた時期、即ち高校生の頃はバトル漫画が圧倒的に好きだった。必殺技が出れば興奮し、一つ一つの勝負に一喜一憂する。毎週毎週ハラハラドキドキして、一週間が長く感じられてならなかった。無論、他にもスポーツ、ラブコメ、ギャグ、いろいろ楽しく読んでいたが、特に好きだったんだよなぁ。

今でも好きなことに変わりはないが、どちらかと言うとまったりと落ち着いた世界を眺めることを体が望んでいるようだ。果たしてそれは年齢のせいか、それとも単純に疲れているのか。また何年か経ったら読んでいるものが変わっているのかなぁ。いったい何を好んで読んでいるんだろうね。



日記録0杯, 日常, 漫画

2018年10月7日(日) 緑茶カウント:0杯

今も覚えている。十年以上前に一人暮らしを始めたその日、何が嬉しかったって、これでもう二度とちびまる子ちゃんを観ないで済むのだと思ったこと。
そして実際、遠ざかったことによりしっかりとストレスから解放され、以来ずっと自分はちびまる子ちゃんとさくらももこを苦手だと思っていた。嫌いだと思っていた。嫌悪していた。

さくらももこが亡くなったとき、ショックを受けた。
言葉にならなった。
何故なら己はずっとちびまる子ちゃんのアニメを観ることが苦痛で、嫌で、故にさくらももこが苦手だったからだ。

しかし幼少期に真似をして描いた絵はマリオとヨッシーとサムライスピリッツとちびまる子ちゃん。当時の己は確かに、ちびまる子ちゃんが好きだった。
そのことを知りながらも、嫌悪の方がずっとずっと強かった。

アニメで描かれる藤木へのいじめの描写が笑いとして扱われることが嫌だった。明らかに藤木は悪くないのに糾弾される様子に辟易した。とりあえず藤木を卑怯と罵っておけという風潮に異常を感じた。
故に、こんなクソみたいなアニメが国民的アニメと尊ばれ、ちょっと下ネタが露出するだけのクレヨンしんちゃんが下品だと非難されることに納得いかなかった。下品以上に、ずっと藤木いじめの方がひどいだろうと。何故そっちを問題視しないのかと。

高校生までは家族四人で暮らしていた。日曜日にはサザエさんとちびまる子ちゃんを観るのが常だった。己はこのニ作品を観るのが本当に嫌だった。しかし、自分の都合でチャンネルを変えることも団欒の場から抜け出すこともできなかった。

だから嬉しかったんだ、一人暮らしをして、初めてサザエさんとちびまる子ちゃんと遭遇しない日曜日を手に入れて。

以来、一度もそのニ作品は観ていない。ずっと平和に過ごしていた。
その中で。

かつて、己はちびまる子ちゃんが好きだった。実家の本棚にあった漫画を読んでいた。面白かった。幼少時に楽しく読んだ漫画と高校生の頃に観たアニメは繋がるようで繋がらないような、そんな不可解な印象がある。

さくらももこが亡くなり、ショックを得た。
どうしてショックを感じたのだろうと考えて、アニメの、一番初めの頃の、ごく初期のちびまる子ちゃんを観た。

面白かった。

どうかと思う毒や共感できない描写もありつつも、そこには一人の小学生の日常が描かれているだけだった。あの、いじめを笑いに変える気持ち悪さは今のところ、ない。
画面を観ながら呆然とした。だってそれは、あまりにも屈託なく面白かったから。

あぁ、そうか。そうなんだなぁ。
己が苦手に思っていたのは、さくらももこ自身ではなかったのかもしれない。ただの、「ちびまる子ちゃん」として醸成していった結果だったのかもしれない。
気付いた途端、ずっと胸に抱えていたわだかまりが溶けた気がした。身勝手だなぁ、と思った。少しだけ、安心した。

今度実家に帰ったら単行本を読んでみよう。当時の感覚を掘り起こせたら、嬉しい。



日記録2杯, 日常, 漫画

2018年3月20日(火) 緑茶カウント:2杯

アルバムを買いライブに通い、十年以上も熱狂的に愛し続けているにも関わらず、一曲だけ聴けない曲がある。それは筋肉少女帯の「ララミー」で、理由は少女が理不尽に可哀想な目に遭うからだ。己は、何と言うか、どうにもそういった物語が苦手で、あまり楽しむことができない。

しかし不思議なことに、可哀想どころではなくとんでもない目に遭うながらも、淡々と読むことができる作品に出会った。それを読もうと思ったきっかけは、この方ならきっと何か面白いものを見せてくれるんじゃないかと期待したためである。

そしてその期待は確かに、裏切られることなく実ったのであった。かくして自分は、共感できるできないは面白さには何も関係しないことをしみじみと実感するに至った。何故なら己はその作品の登場人物の、加害者にも被害者にも共感できないながらも、こんな世界もあるのだなと楽しく読むことができたからだ。

それは新鮮な体験であり、興味深い体験でもあった。

作品のタイトルは「殺彼」で、大介さんと旭さんのコンビにより描かれている。ざっと説明すると様々な殺人鬼が登場する漫画で、ドメスティック・バイオレンスを趣味とする男に、サディスト、食人鬼、あとは……ネクロフィリアかな? なるべくならお近付きになりたくなく、可能であれば会話もしたくない方々が主要登場人物として出演する。主人公格はドメスティック・バイオレンスを趣味とする男だ。

この作品はそんな猟奇的な殺人鬼達が紹介されつつ、被害者視点で殺されるロールプレイングを楽しめるという一風変わった作品である。故に「殺人鬼を彼氏として体感できる」、という意味合いで「殺彼」。このあたりの需要の有無を己は知り得ない。故に、知らないながら面白いと思ったところを語ろうと思う。ただその前に、この作品を読もうと思ったきっかけについても触れておきたい。

「殺彼」を読もうと思ったのは、きっと何か面白い出会いがあるに違いないと思ったからだ。というのも、己はこの作品の作者である旭さんのツイートをきっかけに、やおいに対する認識に変化が生じた経験があるからである。以来、ずっと楽に生きることができるようになった。それは己の人生にとって有意義な体験であった。

そうして……恐々読んでみた「殺彼」は、何一つ共感できないながらも、興味深く読み進めることができる作品であった。

一番大きいのは被害者側の心情があっさり描かれる点にあると思う。この作品は読者が「殺人鬼に無惨に殺される疑似体験」を楽しめる作りになっているため、殺される被害者の心理は深く掘り下げられない。描かれる指先や靴、SNSの発言によってどんなタイプの女性かは類推できるものの、基本的に彼女らの内面は描かれない。そこは読者の想像と妄想に任されるべき部分であり、自由にイメージされることが重要視されるゆえ、台詞も悲鳴も描かれないのだ。

しかし考え方を変えてみると、故にあっさり読めるのである。辛くしんどく悲しい内面が描かれないおかげで、そこになりきりたいわけではない人物はさらっと読み進めることができるのだ。これは「ララミー」の物語さえしんどく悲しく感じる者にとって、ありがたい救いであった。

そして、それはとても優しい物語とも考えられる。だってさ、被害者はあくまでも「読者である自分自身」なのだ。他に悲しい目に遭う人はいないのだ。だったらそれは、ある意味でとても健全なことではなかろうか。殺人鬼に殺されることを望む人が感情移入して読み、殺されることを望まない人はあくまでも蚊帳の外にいるのである。考え方によっては誰も傷つかない物語だ。

そのうえで、だ。殺人鬼達の猟奇的な描写と言ったらどうだろう。えーと、あの、あなた、南京虫ってご存知? この虫はね、メスにも生殖器があるにも関わらず、オスはメスの生殖器でも何でもないところに生殖器をぶっ刺して場合によっては死に至らしめるという、自然界の中でもクレイジーな昆虫なんですけど、それを人間が行うとこうなるんだなぁ……というのが見られまして、世界は広いんだなぁ……と思わされます。マジで。何一つ理解できない。本当に。何なんだよ松本記知という男は。キュートなうさぎちゃんマークを飛び散らせている場合じゃなかろう。やめなさい、そういったことは。

そうしてそこから思い出すのは高校生か浪人生のとき、和月伸宏の「エンバーミング」を読んで悪役の所業にショックを受けたこと。女性の人体を切り取って家具にして愛でる描写があり、何て気が狂ってるのかと慄いたが、後に「魔人探偵脳噛ネウロ」を読み返したとき、しみじみと「ネウロのあれは……少年漫画向けに手加減してくれていたのだなぁ」と感謝し、「エンバーミング」のそれがその作者の思いついた特別な描写でないことを知って遠い目をしたのだった。世の中いろいろな趣向があるね。ははは。

ということで、殺人鬼である故に言うまでもないことだが、この作品の主要登場人物は見事にろくでもない人間ばかりである。見事に。結構最低なドメスティック・バイオレンス男がまともに見えるほど、倫理観を突破したキャラクターが登場してむしろ清清しい。人間を鹿か猪の如く狩って食べる人なんざ、冷静に理屈を並べつつも全く会話が通じないんだぜ。出会った時点で終わりである。サディスティック野郎に至っては会話の余地も……、いや、誰であっても会話のしようがない。それは彼らが独自の世界観を持っているからである。

根っこから狂っているのではなく、日常生活を営み、大切な日常やパートナー、常連客を持ちつつも、さらっと道の外に踏み出す描写。ただの狂人ではなく、あくまでも我々の生活の中に潜んでいると思わされるが故に……怖い。

それを美しいと思うか、恐ろしいと思うか、気持ち悪いと思うか、奇妙と思うか、興味深いと思うか。それは全て読者に委ねられている。故に自由度が高く、面白い。自分は恐ろしくも興味深いと思いつつ、作中人物には絶対に関わりたくないと感じるし、殺される疑似体験もしたくない。それは描かれる彼らが非常に生々しくてリアルだからで、生きているように感じるからだ。

どうか、彼らが空想の世界だけに生きる人物でありますように。そしてそれをよその世界から眺められますように、と願って。そう思わずにはいられない作品であった。

「殺彼」。無惨に殺されたい方も、殺されたくない方も、是非。


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殺彼-サツカレ-



日記録4杯, 日常, 漫画

2017年8月23日(水) 緑茶カウント:4杯

「月刊少女野崎くん」の新刊が発売された。いそいそと本屋に向かい、わくわくしながら購入した。本屋には野崎くんの新刊発売を告知する店員手作りのポスターが貼られていて、盛り上がりが感じられて心が高揚……といきたいところであったが、残念なことにそのポスター、描かれているのは嫌な悪ノリによる作品いじりで、せっかくの好きな漫画の発売日であるにも関わらず暗い感情がちりちり燃えたが、そんなこととは関係なく漫画はとても面白かった。読んだばかりだと言うのに既に次の新刊が待ち遠しい。

同時に今荒れ狂う衝動と言えば、この漫画の感想をとにかく人と語りたいということ。だが、己にこの漫画を教えてくれた友人は現在父親になりたての子育て暦半年足らず。あのキャラがこうで、あの話がこうで、と熱く語り合いたいところだが流石に今は叶わない。叶わないが語りたい、語りたいが、きっと友人もじっくり読みたいところを我慢している最中だろう。

そうして己は六畳間にて、迸る感想や熱情を身の内に秘め、一巻から読み返すべく黙って本の山を漁るのであった。心の中には今も激流が走っている。