日記録7杯, 日常

2013年7月9日(火) 緑茶カウント:7杯

友人の友人は他人であり、友人の恋人も他人である。

さて、では友人同士の集まりに、友人がその友人や恋人を連れてきた場合、我々は友人になるだろうか。

自分としてはならない。単に知人が増えただけ。その人と個人的に話をしたりして、臭い言い方をすれば友情を育まない限り、その人は永久に知人であり他人である。こういった厳格な決まりが自分の中にはあるのだが、やたら友人同士の集まりには顔を出すがこれと言って話したこともなく、向こうも恐らくこちらの名前を知らないという間柄にも関わらず、「仲良しグループ」なるカテゴリーで括られ、その中の人々は全員友人関係を築いているという前提で話をされることに不満と拒絶感を抱いているが、困ったことに「いやその人別に友達じゃないよ」と表明した場合、とてつもない人非人扱いされる危険性が高く、このところずーっともやもやしている。

この状況を打破するためにある方法のうちの一つは、その知人と友情を育んで本当に友人になってしまうことだが、そもそも自分は友人同士の集まりに特に関係の無い人が紛れ込むこと自体が嫌で、まぁその集まりがただの漠然とした集まりなら良いのだが、例えば趣味の集まりとか、そういった目的や共通項がある集まりに、その集まりの一番の目的には何の興味も関心も関係も無いが、単にそのメンバーの友人や恋人だから参加する、という人が嫌で、自分の空間を土足で踏みにじられるに近い嫌悪を抱く。目的が失われ、どんどん薄まっていくことを非常につまらなく感じるのである。

無論連れてくる人の方は「賑やかな方が楽しいから」「新しい人を紹介したいから」という風に、良かれと思って連れてきていることはわかっているのだが、やっぱり自分は嫌で、しかしそれを表明するのも大人気ないので黙って我慢しているのだが、我慢しているとそんな不満を抱えていることになんぞ誰も知る由も無いわけで、薄い薄いべっとりとした水粥の中で悩んでいる。

結局、心が狭いってことなのだろうなぁ。



日記録7杯, 日常

2013年7月8日(月) 緑茶カウント:7杯

七年近く買おう買おうと思いつつ未だに踏み台を買っていないのでいい加減買えよと自分に言いたくなるが、七年とはなかなかのものである。小学一年生が小学校を卒業するほどの年数、ひらがなを習い足し算を習いアサガオを育て、漢字を読み書きし九九を覚えてヨウ素液で肌を染め、ローマ字を習い組み立て体操に勤しみ合唱のパートが事細かに分かれる年数を生きていながら未だに踏み台を買っておらず、もちろん身長も伸びていない。ずっと不便を感じたまま、しかしまーどうにかなるな、と力技でどうにかしながら生きている。

多分もう二年くらいは買わない気がする。不便なのに。