日記録0杯, 日常, 筋肉少女帯

2021年11月3日(水) 緑茶カウント:0杯

解釈が難しいアルバムである。
しかし確実に己はこのアルバムが好きで、かつての自分が筋少に出会ったためにその地続きで今の時代にこのアルバムをリアルタイムで聴けたことをとても嬉しく感じたのだ。

キャッチーではない。
オーケンの「建前」「本音」「願望」と、それ以外を切り分ける必要がある。
鎮魂も混ざっている。しかし鎮魂だけではない。

前作の「LOVE」はタイトルのとおり「愛」をテーマとしたコンセプトアルバムで、最後の曲「Falling out of love」が華麗なる終幕と一曲目への繋がりを見せる見事な構成で、一曲一曲も主張が強くわかりやすかった。対してこの「君だけが憶えている映画」は、これまでの筋少のアルバムの中で、どこに位置づけられるかわからない、わかりにくい。そういった意味で異色のアルバムであると言える。そして、強く尖って主張する曲がLOVEに比べて多くなく、言ってみれば「困惑」の二文字で殴りつけてファンを考え込ませる、そんなアルバムであると言えよう。あくまで己の感想だが。

しかしそれが物足りないかと言えば違っていて、何か心に引っ掛かり、ざわつかせる。そんなアルバムである。故に、まさにコロナ禍である今の時代に生まれたアルバムと言えて、リアルタイムで聴けることが心から嬉しい。

キーワードは「境界線」「ボーダーライン」「オーバーライン」。他、海岸線、地平線、水平線。個人的に心配していた一曲はダイレクトにそのまま名付けられた「COVID-19」。しかしこれもCOVID-19を「暴きの化身」として描いて、それによってもたらされた世の中の変化を掬い取っている。自分自身もCOVID-19によって失った人間関係があるので聞きながらしんみりした。あぁ、袂を分かつという意味でね。まぁそれは置いといて。とにかくこのアルバムはコロナ禍の影響を深く受けていて、現実も未だコロナ禍を脱しておらず、しかし落ち着きかけていて、とはいえこの先はまだまだどうなるかわからない不安定な中で。ライブミュージシャンであるオーケンはより深くそれを感じていることだろう。

すごいなとぎょっとしたのが「お手柄サンシャイン」での「どこもここも臨界点」という一フレーズ。さらっと緊張感を混ぜ込んでくるあたりに戦慄したし、オーケンの言葉選びの見事さに脱帽した。「お手柄サンシャイン」はこの後の「乗り違えた中央線」から始まる三行もすごい。たった短い言葉で、踏みとどまれるか思案した彼が必死になって追いかけたことが語られている。このオーケンの表現力たるや、心から感嘆し舌を巻いた。「乗り越えられるか」と「飛び越えられるか」という印象的な二つのフレーズが葛藤を描いていて、「取り押さえる」前までが特に葛藤が強い。対して「飛び越えた」途端に話はファンタジーに転換し、無差別殺人者と連続射殺魔を取り押さえるくらい非現実的になる。これがまたしんどい。だってその先にある願いの根幹とも言える言葉は「君の心まで」というもの。つまり、無差別殺人者や連続射殺魔や闇の支配者を取り押さえる、そんな非現実的なことを叶えるくらいでないと君の心を掴めない、と感じられるのだ。曲調に反して実に悲壮的である。

あー、好きだな。

何となく予想しているのは、ライブで聴いたらガラリと印象が変わりそうな曲がいくつもあるということ。その日を楽しみにしつつ、まだまだ自分の顎で咀嚼を続けたいと思う。ということでインタビュー記事はまだ我慢。読みたいけどね。手元にあるけどね。
そして今夜はビールを呑みつつひたすら爆音で筋少を聴く。あぁ、幸せだ。



日記録1, 1杯, 日常, 重陽の節句

2021年9月9日(木) 緑茶カウント:1杯

日もとっぷり暮れてそろそろ夜の散歩にでも出かけるかと立ち上がりかけたその瞬間、目にした数字。それはパソコンの画面右下に表示された八桁で構成されるもので、通年であれば注目しまくっていたものである。

びっくりした。ものすごくびっくりした。
何故なら今日が重陽の節句だったからである。

マジかよ、と誰もいない部屋で呟いた。え、もう重陽の節句なの? 一週間か十日ばかり早くない? と思うのもまぁ無理はなく、それというのも最近あれこれバタバタしていて、曜日だけを意識して生きていたのである。日付という概念がそっくり脳から抜け落ちていたのだ。

ということでほとんど意識することなく一日が終わりかけていて寂しい限りだが、今日は重陽の節句である。菊の花の節句である。五節句の中で何故か存在感が薄い重陽の節句の日である。皆さん、重陽の節句をどうぞよろしく。これを言うために己は生きている、というのは冗談だけどね。来年もまたよろしくね。



日記録0杯, 日常

2021年2月11日(木) 緑茶カウント:0杯

今日でこのサイトを開設して十九年目。つまり十八周年を迎えたとのことで、再来年には二十周年となる。うわぁ、二十歳になるのかこのサイト。成人するのかこのサイト。月日の流れには驚かされるばかりだよ。というか、ずーっとインターネットと共に生きてきたんだな、自分は。思えば小学校高学年からインターネットの世界にどっぷりである。多分これからも死ぬまでどっぷり浸り続けるだろう。だって楽しいから。

最近は運動不足のためか寝ても寝ても寝足りず十二時間くらい平気で寝てしまうため、日課の筋トレとは別に散歩を始めた。個人的にはあちこち曲がりくねるよりもまっすぐな道をズンズン進む方が楽しいため、そういったルートを探していて、ついに今日理想のルートを構築した。明日からそのルートをなぞるのが楽しみである。

あとね。嬉しかったことがあってね。散歩ルートを探すために行ったことのない道を歩いたら、スーパーとデパートの中間のような、六階建てのフロアにそれぞれカテゴリ毎の売り場があって、置かれている品々にちょっぴり高級感のあるお店を見つけてね。うわぁ、こんなお店があったんだなぁ、と吸い込まれるように中に入ったら、泣きそうになってしまったんだ。

もうしばらく、近所のスーパーと商店街しか行っていない生活をしているもので、見慣れないものを見ることが随分と減っていたんだ。つまり、見知ったものとわかりきったものに囲まれる生活を送っていて、それに不満も違和感も抱かず過ごしていた。ところがやっぱり、求めていたんだなぁということがありありとわかったんだ。

生活圏内では見ることのない品々に目を奪われ、心臓がドキドキと跳ねる。色とりどりのランドセル、赤ちゃんのおくるみ、キャンプ用のテントや折り畳み式の椅子、様々なブランドのバレンタインチョコレート、デリカッセンのガラスケースの奥で輝く山盛りのサラダやローストビーフ。見慣れない食器や文房具、調理器具、本、美しい瓶に入ったオーガニックの調味料。ため息が出るくらい心が震えて、「なんだろ、これ?」と驚く喜びを久しく感じていなかったことに気付かされて、目頭が熱くなってしまったんだ。

酒売り場だけでフロアの半分を占めていて、見たことのないラベルのビールやワインに心がときめいて、美味しそうなビールと赤ワイン、ローストビーフとチーズをカゴに入れ、バレンタイン限定のラム酒漬けのドライフルーツやくるみを練り込んだチョコレート味のパン、なんてものも買ったし、美しいチョコレートも買った。そしてふわふわしながら店を出て、両腕に重さを感じながらまたまっすぐな道をざくざくざくざく歩いたんだ。

この生活があとどれくらい続くかわからないけれども。散歩をして、たまにここに寄ることを楽しみにまた一日一日を過ごしていこうと思った。

そんな感じで今後ものったりゆったりやって行こうと思うので、どうぞよろしく。またお暇なときにでも遊びに来てくださいな。



日記録0杯, 日常

2021年2月2日(火) 緑茶カウント:2杯

ここ数年すっかり使わなくなっていたが愛着があって捨てられず、持ち続けて早数年。そう、それは大学の頃に思い切って買った複合機。プリンタとスキャナが一緒になったもので、当時確か五万円した。五万円と言えば今でも大金だが、大学生の自分にとっては信じられないくらいの金額だった。まだその頃は数万円の買い物をした経験もほとんど無くて、まさに清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入したのである。

ではどうして今更捨てるつもりになったのかと言うと本棚を増設したいからで、今は壁のうち二面が本棚なのだが、もう一面も本棚にすべく計画中なのだ。せまっくるしくなるって? わかっているさ。でもさぁ、壁という壁を本棚で埋め尽くした家で育った人間だからさ。出窓まで埋め立てて本棚にした家で育った人間だからさ。もう本が溢れ出しているしさ。電子書籍も買ってるけどさ。やっぱ本棚が必要なんだよね。自分には。そしてこの本棚を買うためには複合機を処分せねばならなかったのである。

あぁ、やはりちょっと寂しいな。

さらば複合機。ありがとう複合機。君のおかげでたくさんやりたいことができたよ。長い間お疲れ様でした。良い眠りを。



日記録2杯, 日常

2020年10月9日(金) 緑茶カウント:2杯

まぁ、足立区が滅びるなんてこともないんだけどね。

やるせないなぁってげんなりした足立区議の同性愛差別発言。同性愛者の権利が認められたところで「よっしゃーじゃあ自分も今日から同性愛者になろ!」と思い立つ異性愛者などいないだろうし、同性愛者の数が増えるわけでもないし、少子化が加速するわけでもない。少子化を抑止したいなら子供を望む人々が安心して子育てできる制度や仕組みを作っていかねばならぬだろうに、どうしたってそんな単純なことがわからないかなぁ。

と、ため息をついていた矢先。それはもう素晴らしい、明るいニュースが飛び込んできた。
新明解国語辞典の新版が九年ぶりに発売されることが決まった。そしてその最新の第八版では「恋愛」の語釈が変えられたそうだ。同性に恋心を抱く人や性別を持たない人を考慮し、書き出しが「特定の異性に対し」から「特定の相手に対し」になったという。

びっくりして、嬉しくて、感動してしまった。
だって、辞書に触れる機会が多いのはきっと言葉を学び始める子供達だから。

足立区議の発言で、自分は同性が好きだと気付いた中高生が悩んだり悲しんだり存在を否定された気持ちになったり、そんな風に苦しんでいないだろうか、と思っていた。まだまだ自分のことがわからなくて、情報に辿りつけない子供達が絶望的な気持ちになっていないだろうかと思っていた。

ありがとう、新明解国語辞典。
新明解国語辞典は家庭用の小型辞書の中で一番流通している辞書だ。つまり多くの子供達がこの辞書に触れる。ということは、「恋愛」という項を引いたとき、いらない疎外感に悩む必要がなくなって、自分の感情に向き合える一助になってくれるかもしれない。自分はおかしいんじゃないかと悩まないで済むかもしれない。

同じ言葉でも、時代によって語釈は変わる。そして辞書はその時代の言葉を写し取る。辞書の語釈が変わったということは、世の中が変わりつつあることを表している。どっかのじいさんが心無いことを言ったところで確実に世の中は少しずつ変化していくし、足立区が滅ぶこともない。

ちなみに同じ三省堂から出ている「三省堂国語辞典」は六年前に発売された第七版の時点で「恋愛」の対象が異性を限定しないものに書き換えられている。きっとあと何年かでこの書き方がスタンダードになって、もうちょっと世の中も変わっていくだろう。だからね。恐らくこの日記を小さな子が読むことは少ないだろうと思うけど。大丈夫だよって伝えたい。あなたは決して異常じゃないし、世の中も少しずつ変わっていくから。

って、言葉にするのが少しばかり長く生きた大人の役目かな、って思った日だったのさ。
少しずつ変えていけるように、頑張るよ。