日記録2杯, 日常

2020年2月10日(月) 緑茶カウント:2杯

期間限定でほくろが出来た。今となってはあれがほくろだったのか何だったのかはよくわからない。ただ、ある日の起き抜けに鏡を見たとき、見慣れたはずの自身の顔に強烈な違和感を覚え、同時に不快感が湧いてきたことを覚えている。

鏡を見れば左目の下にポチッと小さなほくろらしきものが出来ていた。しかしそれはほくろのようであるのだがほくろか否かよくわからなかった。何故なら二ミリほどの黒い点を囲むように赤い滲みが浮いているのである。最初、ひっかいたのかと思った。故にこれはかさぶただろうと。しかし触ってみてもその黒い点は平たくて、かさぶたらしき盛り上がりが指の腹に感じられない。つくづく不思議を感じつつ、突如顔面に現れたそれを己はしげしげ眺めていた。ほくろが生まれるところを見たことはこれまでなかったが、こんな風にして赤を滲ませながら生まれるのかしらん。

で、じーっと眺めながら思うのは嫌だなぁ、ということ。というのもそのほくろの斜め下にはもともと生来のほくろがあった。生来のほくろについて嫌悪を感じたことはなくごく普通に顔の一部として認識していた。しかし、その古参と新参の配置は絶妙に悪く、その二つを繋げるとちょうど己の目の下にある消えない隈を象るようなラインが描かれるのである。せんでもいいのに無暗に隈を強調するのだ。

あーでも友人や友人の弟がほくろ取ってたな。手術で取れるのか、いくらだろ、なーんて「ほくろ 外科手術」などの単語を検索窓に打ち込んだりなんだりしているうちに何故かほくろらしきものは薄くなり、今日になって顔面から姿を消してしまった。今はただほくろを囲むように滲んでいたわずかな赤だけが残っている。

結局あれは傷だったのか何だったのか。わからないが、まぁ皮膚科に行く手間が省けて良かったなぁと思っている。



日記録0杯, 日常

2020年2月9日(日) 緑茶カウント:0杯

ものすごーく筋少が好きだし筋少ファンとのネット上でのやりとりもとても楽しいのだけれども、ちょっといかがかなーと思うことはあるのさ。

一つは、無断転載やめようぜ。
もう一つは、チケット余分に取るのやめようぜ。
ってことなのさ。

無論これらは筋少ファンの全員がやっているわけではないし、むしろ一部であるのだが。目につくだけに気になって、その他の部分は好きであっても気になるなぁ、とは思うのだ。

基本的に無断転載はよろしくない。故に己はミュージシャンの写真をアイコンにしている人は基本的にフォローしない。無断転載だからね。そのへんの感覚が無いのだなーと思うしね。中にはイラストを描いたり写真を撮ったりする方で、自身の作品の無断転載には過敏なのだが、自身がメジャーな作品の無断転載をすることにはゆるゆるという場合もある。いやわかるよ。好きなものを広めたい気持ちはね。でも節度は大事だね。

あと良い番号をゲットするために複数枚チケットを取り、余ったら流す行為。やめようぜ。今はさ、ハイストレンジネスも緩くてさ、ライブも会員証の確認さえできれば良くて、チケットの整理番号と会員証を照らし合わせることもなくてさ。おかげで、もしも自身や同行者が病気になったときにも誰かにチケットを譲って……なんてことをしても弾かれることなく済むじゃあないですか。でも、あんまり横行したら厳しくせざるを得なくなって、病気になっても誰にもチケットを譲れなくなって、取得した本人以外は使えない……ってことになってしまうぜ。公式にも負担をかけるし入場にも時間がかかるし、そんなことになってしまったら何も良いことなんてないよ。

甘いうちにしっかりしましょうよ。公式が対策をしなくて済むように、ファンの我々がさ。優しさにあぐらをかいていたらどんどん厳しくなるぜ。そうなる前に律しましょうよ、自分らを。



日記録3杯, 日常

2020年2月3日(月) 緑茶カウント:3杯

年齢を重ねるごとに時代が変わり世の中の価値観が移り行く中で、自分自身の価値観をアップデートしないとどうなるか、ということを考えたとき、「若者に距離を置かれる」というのも一つの側面ではなかろうか。そしてその若者は路上で行きかう接点も無ければ関係も無い言ってみればどうでも良い人間だけでなく、子供や孫といったその人にとってどうでも良くない、愛すべき存在も含まれるのだ。

無論全部が全部そうと言い切るつもりはない。しかしその側面はあるだろう。だからなるべく、価値観はアップデートしていった方が良いのである。愛すべき子供や孫から距離を置かれたくなければ。

そして自分がまさにそのアップデートできなかった人物の孫であり、会いたい会いたいと電話や手紙で訴えられながらじっと距離を置いている。何故なら、会うと疲弊するからだ。そして会えば会うほど苦い感情が増え、今はまだ嫌いとまではいかないまでも、そこに辿りついてしまいそうだからだ。

同情もなくはない。スーパーマーケットも老人ホームも潰れた山奥の過疎地に住む祖父母は得られる情報が限られている。ただ、全くチャンスがないわけではなかった。祖父母の古い固定観念による決めつけや要望に対し、己は苦言を呈してきたし、正面から拒否してきた。しかし祖父母が見ているのはいつまで経っても実像ではなく虚像の孫であり、実像が虚像に近づくことを望んでいた。また祖父は悪意なく失礼な発言を周囲にすることが多々あり、祖父母の子供である叔母達は「年だからしょうがない」と時には怒りつつも許してきた。そこには血のつながりゆえの寛容があり、祖父母も叔母達もその寛容を他者にも期待してきた。しかし子世代はともかく孫世代ではその寛容は薄く薄くなっていて、不快の方がよっぽど勝ってしまったのである。結果、我々孫は諦めて距離を置いている。

きっと祖父母は気付きもしなかったのだろう。当たり前に存在した「血のつながりを大切にすべき」という価値観だけでなく、今の世には「例え家族や親戚であっても気が合わないなら距離を置くべき」という価値観が存在していることに。

そうして自分はと言うと、祖父母と距離をとりながら何とも言えない気持ちを抱いている。この日記を書いたのは別に自分を正当化したいわけではなかった。反面教師にしようと教訓めいたことを言いたかったわけでもない。ただやるせなさを抱きつつ、こういう面ってあるよなぁ、とただただ寂しく思っているのである。



日記録0杯, 日常,

2020年2月1日(土) 緑茶カウント:0杯

見て。見て。見て。見て。この美しいビールの並ぶ棚を。あぁ、惚れ惚れしてしまうよ。

同じビールではなく、いろいろなビールをたくさん呑むのが好きなんだ。だから思い切ったんだ。そうして大きな箱が二つ我が家に届けられ、その箱をそのまま台所の隅に置いていても良かったのだけれども、使っていない空いた棚が二つあることを思い出したのさ。

その棚はちょっと高い位置にあり、普段使いするには踏み台が不可欠なためやや不便なのだが、ストックのビールを置くにはちょうど良いかもしれない、と気付いてね。

並べてみたら、絶景。

カラフルな数々のビールが並ぶ美しい棚。ついうっとりして、惚れ惚れして、この絶景を肴にビールが呑めそうなくらいで、しかし呑むと減ってしまって、そのジレンマに苛まれつつ、苛まれることすら楽しくて、ただニヤニヤと棚の前に立っている。あぁ、嬉しい。



日記録0杯, 日常

2020年1月26日(日) 緑茶カウント:0杯

友人と呑みに行った帰り道。良い塩梅にアルコールが回り、頬を撫でる寒風を心地良く感じながらふわふわ歩く中で、友人は思いもかけない言葉を口にしたのだった。それはせっかく近所にいるのだから頻繁に遊びたいけれどもお互い酒呑みだから金がかかって困るねぇ、という己の言葉に対するもので、あまりにも思いがけないものだったから己は一瞬意味を読み取れなかったのさ。

「もしもう一度こんな機会をもらえるのなら、ウヲさん家で呑むってのはあり?」

はて。後半については何も問題が無い。互いに酒呑みであり、出費を減らすのであれば宅呑みがちょうど良いだろう。問題は前半だ。これを聞いたとき、己は「お前は何を言っているのだ」と思ったし、「何でそんなことを言うんだよ」と悲しくも思った。

そうしてすぐに思い至った。あぁ、己にとっては当たり前にこれからも続いていく関係性という認識であったのだけれども、彼にとっては奇跡だったのだと。その重みを己は全く知らなかったのだと。

友人は先天的に人の感情を慮ることが苦手で、いわゆる「普通」がわからない。故に子供の頃にはいじめられ、社会に出てからも苦労したと本人の口から聞いた。結婚もしたが、離婚もした。そして偶然近所に引っ越してきた。自分は彼と大学時代に出会い、彼の性質を何となく読み取っていて、それを含めて最高に面白い良い奴だと思っていて、彼と話すと自分とは全く違う視界を見ることができて、まるで世界の色彩が増えるような心地がして、だから己はそいつが大好きなのだった。

離婚という悲劇があったにも関わらず喜ぶのもクソ外道だとは思うが、友人が近くに越してくれたことが嬉しくて、語れることが楽しくてたまらなかったから、思いがけない言葉にびっくりして、改めて気付かされたのさ。

あぁ、己は彼の性質を愛しているが、彼はずっと苦労してきて、この瞬間も奇跡として捉えているのだなぁ、と。

社会人になってしばらく経って、障害として診断されたと彼は言う。己は何となく察していたので意外は感じなかったが彼にとっては重大事件だったのだ。そしてそのことを重く重く受け止めていて、あのような言葉が出てきたのだ。己はそれを悲しく寂しく思ったが、知ったことか己の感情なんてものは。

ただ誘おう。うまい酒と肴を用意して。彼が「奇跡」を「普通」と認識できるようになるまで。