日記録0杯, 日常

2017年4月23日(日) 緑茶カウント:0杯

このところどうにも疲れていて、休みの日になると十五時十七時まで寝てしまうことが多く、よろしくないなぁと感じている。しかし今日は十二時に起きて布団を干し、洗濯をして整骨院に行き、体をほぐしてもらってから買い物に行ってあれこれと荷物を増やし、帰宅して保存食を作り、温かな布団を取り込んだ。

花粉症ゆえ、長らく布団を干せず布団乾燥機でしのいだ二ヶ月。ようやく冷たい布団を外に出した満足感。十時間十二時間十四時間布団の中に潜りこみつつも気になっていたのは二ヶ月の間に吸い込まれた疲労感。布団に吸い込まれたそれにさらに包み込まれることで、どうにも休息がとれていない心地がした。

手で押せば跳ね返す弾力。ふかふかとやわらかい布団に枕。あぁ、疲れた。何もしていないのに今日も疲れた。しかし今日は太陽の呼気に包まれて眠ることができるだろう。疲労をしみこませ、次の休日にはまた日の光に晒せる安心感。やっと春が終わるのだ。

春。疲労と眠気の季節である。



日記録0杯, 14周年企画, 日常

2017年4月16日(日) 緑茶カウント:0杯

14周年企画でお題をいただいてから、ずっと外に出るたびに探し物をしている。道端に咲くほがらかな花、目が合った野良猫との数秒間のひととき、いつも全身黒尽くめの女の人、桜並木の色合いの変化、良い匂いのするパン屋、ふっくらしたすずめ、日々やわらかくなる日差し、壊された家屋に、平らにされる土地に、新しく建てられる何かと、騒音を謝罪する看板。それらに感じる親しみや小さな喜びを舌の上で転がし、これかなこれかなと吟味する。まだ己は出会えていない。

「行き帰りでの『うれしい』できごと」というお題にふさわしい、何か嬉しく、素敵なこと。空気を嗅いで、イヤホンを外して、視線を泳がせながら歩く。お題をいただいたのはおよそ二ヶ月前。それからずっと、外に出るときにはこのお題が頭の隅にあった。二ヶ月間ずっとうれしいことを探しながら歩く道。大きな発見は何もない。しかしささやかな変化はあった。ただの行き帰りに小さな目的が出来たのである。

名前も知らない路傍の花に問いかける。君に出会えて己は嬉しいだろうか。嬉しくないってことはないんじゃないかい、と己は答える。そしてさくさく歩き出す。探し物は見つからない。見つからないけど探している。見つからなくても良い気もしている。



日記録0杯, 日常

2017年4月14日(金) 緑茶カウント:0杯

ふらっと入った近所の居酒屋。一人で入るのにちょうど良い値段と量で、串焼きが食べられ、ビールが美味い。店が開いたのは一年ほど前だっただろうか。かけられた暖簾を見て「お、こりゃ良い店ができたな」と喜んでから数度カウンターで酒を呑んでいる。長居する人は少ないようで、一時間ほどでちゃっちゃか人が出入りしている。程よい賑わいの中本を読みつつ杯を傾ける楽しさ。あぁ、大人で良かったなぁ。

今日も暖簾をくぐってからカウンターの一席を占有し、ビールと肴の品々を注文していると、すぐ隣に腰掛ける人。手にはカラフルな表紙の本を持っていて、注文しつつも視線はページの上。お、こりゃ良いなと思いつつ自分も鞄からキンドルを出し、読みかけのページを開いた。

読書の世界に浸りつつ聴こえるのは隣の声。どうやら隣の方は店員と懇意であるようで、気軽な冗談が飛び交っている。そしてその会話の中で聴こえた彼女の手にあるカラフルな本のタイトル。まさかのそれは、「恥知らずのパープルヘイズ」であった。ジョジョの外伝小説である。

隣に座る自分はと言えば結構なジョジョファンで。「えっマジで?」と思いつつつくねを食べていたら、その人はジョジョの絵柄が苦手で、漫画を手に取ったことがあるものの挫折したらしく、それで小説を手に取ったそうだ。しかし気になるのは漫画を読んでいない状態でその本の話の筋がわかるのかと言うこと。自分は「恥知らずのパープルヘイズ」を読んでいないが、それが漫画の外伝的位置づけであることは知っている。きちんと面白く読めているのだろうか。どうだろうか。聞きたいなぁ。聞きたいなぁ。

質問しようかしまいか。迷う最中に隣の人が店員にかけた声。それはジョジョの内容に関するものだったが、店員はジョジョをよく知らないらしくその答えは知りえない。ただし自分は知っている!!

意を決して挙手してからというもの、とっても楽しい時間が過ぎた。

ジョジョの大ファンであると告白し、彼女の疑問に答えたところ、ファンじゃないのにごめんなさいと謝られ、いやむしろファンじゃないし絵柄が苦手なのに興味を持って小説を手にとってくれるなんて最高に嬉しいですよと力説し、彼女の質問のひとつひとつに答え、ジョジョの家系や承太郎とジョルノの関係を年代別に説明し、喜んでもらえたうえ、その後お互い読書の世界に戻ったあと、会計を済ませ席を立とうとした自分に「読み終わりました、面白かったです!」という感想を伝えてくれて、とにかく最高にハッピーであった。

勇気を出して声をかけて良かったなぁ。嬉しいものだなぁと反芻しつつ帰路に着く。小説まで手を出していたらキリがないと思っていたが、今度己も読んでみようか。そう思いながらふわふわと桜並木を歩いた。綺麗だった。最高に。



日記録0杯, 14周年企画, M.S.SProject, 日常

2017年4月9日(日) 緑茶カウント:0杯

ゲーム実況なるものを見むとて見るなり。

ゲーム実況なるものを見たのは今までに三回。二回はパシフィコ横浜で、三回目は武道館。どちらもM.S.S. Projectのライブの一幕で催された。大きな会場でテーブルを囲み、ちんまり集まる四人を眺めつつ、巨大なスクリーンに映し出されたゲームの行く末を見守るのはなかなか奇妙な体験だった。

そもそもゲーム自体と縁遠くなって久しい。一番遊んだゲーム機はスーパーファミコンで、初めて触れたのはスーパーマリオコレクション。両親がある日スーパーファミコンと一緒に買ってきて、家族で夢中になってプレイした。両親はマリオ2、自分はマリオ3を熱心に遊んだ記憶がある。マリオUSAは追いかけてくる仮面が怖くてついにクリアできなかった。

初めて親にねだって買ってもらったゲームは同じくスーパーファミコンのサムライスピリッツ。小学校一年生の頃だったか、友人の家で遊ばせてもらい、その面白さにやみつきになって欲しい欲しいと頼んだのだ。クリスマスに枕元の包みを開いてこれを手にしたときの喜びと言ったら。今でも実家の物置を探れば箱と取扱説明書が出てくるはずである。メインで使っていたキャラクターはナコルルで、彼女をきっかけにアイヌ文化に興味を持った。

以降、星のカービィスーパーデラックス、ヨッシーアイランド、スーパーマリオRPG、パネルでポン、ワンダープロジェクトJ2、ポケットモンスター(青)などなど、様々なゲームを楽しく遊んだが小学校高学年の頃に転機が訪れる。ぷよぷよSUNにはまってからゲームをプレイする以上に攻略本集めに夢中になり、中古屋をめぐってぷよぷよ関連の書籍とみれば例え自分が持っていないゲームでも片っ端から買い集めては熟読し、ほんの一文でも他の本にない情報や裏話、小ネタを見つければにやにやと喜ぶようになったのである。

最後にどっぷり遊んだのは初代プレイステーションのヴァルキリープロファイルとわくわくぷよぷよダンジョン決定盤。その後はたまに、今でも現役のゲームボーイアドバンスでポチポチとテトリスやもじぴったんを年に数回プレイする程度である。

そんなありさまなのでゲーム実況という文化にも縁遠く、またもう一つの理由でも自分とは無縁のものと思っていた。

ある日知人に己のはまっているアニメについて話したところ、「それじゃあyoutubeで観てみますね」と言われ、苦笑いを浮かべつつ「youtubeはダメですよ」と返したところ、「そんなことないですよ。最近はすぐにyoutubeにアップされるんですよ!」と朗らかに笑われ頭を抱えたことがあった。「youtubeはダメ」という言葉をこのように解釈されるとは悩ましい。また別の場面では反対に、己が「このアニメ気になるな、観てみようかな」と呟いたところ、「ここで観られますよ」と無断アップロードされた動画のURLを教えてくれた善意の人もいた。参ったなぁと思いつつその人には形式ばかりの礼を伝え、目当てのアニメはレンタルショップを利用して視聴した。

悩ましいなぁと思う。ゲームそのままではなく実況と言う新しい要素が加えられているとはいえ、これをどのように解釈すべきか。ゲーム実況とは作り手側が本来想定していなかった新たな要素を加えることで、新しい価値が生み出されたものだ。その予期されていなかったものにより化学反応が起こる事象そのものは大変好みで興味深い。が、しかし……。

念のため断っておくと、己はゲーム実況と言うジャンルとそれを楽しむ人々を頭から批判しているわけではない。戦後の闇市が盛り上がった結果地域が活性化し、観光名所となることもある。著作権的にはグレーな同人誌即売会が、企業にその価値を認められることもある。そしてそれはサブカルチャーを語るうえで度外視できない日本の文化の一つである。本来のルールに則ればダメであっても、ルールを逸脱することで新たな価値が生まれることもあるのだ。

よって懸念すべきはただ一つ。自分自身の整合性だ。他者の価値観はどうであれ、自分自身が納得できないといけないのである。

さぁ、どうしたものかと頭を悩ませつつゲーム実況について調べていたら驚いた。なんと、今はゲーム会社公認のものもあると言う。一定のルールに則れば投稿が承認されるゲームもあるようだ。こいつぁすごいな、面白い。本来は「ダメ」だったものが大きな価値を形成することで認められ、新たなルールが作られて推奨される。いいじゃん。素敵じゃん。

安心したところで、ではそれを観ようかと探したところ、「マインクラフト」なるゲームが会社公認で、ちょうど今リアルタイムで投稿されているようだったのでこれを観ることにした。初代プレイステーションで止まっている自分はもちろん、このゲームをプレイしたことはない。

初めてゲーム画面を観てまず思ったことは、己がゲームにはまっていた頃よりも技術が進歩しているはずなのにやけにカクカクしてんな、ということだった。しかしマリオ64のように、画面の端々に時折不安定さが感じられるポリゴンではなく、角ばっているのに世界の隅々までなめらかだ。程なくしてこの世界は人も木々も動物も建物も、全てブロックで構成されていることを理解した。そして人々は土を掘って家を作り、ベッドで眠り、畑を耕して作物を味わい、化け物に襲われてアイテムをバラ撒き、魔法によって超人的な力を得て、その力で土を掘ったり家を作ったり化け物を襲ったり化け物に襲われたりするのである。

動画の投稿は毎日行われ、週が新しくなるごとに一週間のテーマが変わり、その目標達成を目指してM.S.S. Projectの四人は活動する。広大な世界にはあらゆる化け物と数多くの砦があるようで、それらを攻略してレアアイテムを手に入れて自身を強化していくことが一貫した行動指針のようだが、今のところこの世界に何が起きていて、何を持ってすればゲームクリアになるのかは読み取れない。もしかしたら己が知っている昔ながらのゲームと違い、ゴールのあるストーリーは用意されていないのかもしれない。

パシフィコ横浜でゲーム実況を観たときにも思ったが、友達の家に集まって、交代交代でプレイしながらゲームで遊んでいるときの感覚に似ている。いつだったか大学時代の友人同士である一人の家に集まり、酒を呑みながらロックマンをプレイして、わーわーやーやーはしゃいだことがあった。あの感覚にとても近い。まるで画面の前に座ってコントローラーを握るM.S.S. Projectのメンバーの後ろで、座椅子に背中を預けながらビールを呑み、わーわーやーやー言っているような気分になるのだ。この感覚が面白いのかもしれない。

ゲームはそもそも疑似体験の遊びである。プレイヤーはキャラクターの姿を借りてゲームの世界に降り立ち、冒険にしろ格闘にしろパズルにしろ、その世界で遊びまわる。対してゲーム実況は、コミュニケーションの疑似体験と言えるかもしれない。子供の頃友人と並んでテレビ画面の前に座り、コントローラーを握った感覚。時には協力プレイをし、時には殴りあいをし、「あのアイテムをとるからお前あっちの敵倒してよ」「わかった」とやりとりする楽しさ。そしてその子供達の後姿を見守る母親の姿。

思い返してみると、今は亡き己の母親がゲームの観戦が好きで、自分がヨッシーアイランドなどで遊んでいると「あっちに敵がいるよ」「上にアイテムがあるよ」「強かったねえ!」と語りかけてきた。時にその声はプレイの邪魔になることもあり、「わかってるからちょっと黙って!」と怒る場面もあったが、そうして観戦する母の声を聴きながら遊ぶのもまた楽しかった。

あの友人や家族と一つのゲームを一緒に遊ぶ感覚を疑似体験できる楽しさ。そして隣に座る友人に感じる親しみと同じものを画面の先の実況者に抱き、より一層彼らを好きになっていくのではなかろうか。実況動画で観る彼らは書籍やライブ、音楽で知るものとはまた違った一面もあり、新たな発見もあった。ライブで観る彼らのやりとりは講義のない時間の大学生のような気安さで、それが非常に好ましいと思っていたが、さらにそれが如実に表れているように思う。

とはいえ、やっぱりゲームは他者のプレイを観るよりも、せっかくなら自分でプレイしたい。そういえばMSX版魔導物語が再発されたとき、せっかく買ったのに寝かしすぎていざプレイしようとしたら所有のパソコンでは起動しない、なんてこともあった。あれも近年になって改めて再発されているようなので今度こそと手にとってみようか。また寝かせてしまったらどうか笑って欲しい。



日記録0杯, 14周年企画, 日常

2017年4月6日(木) 緑茶カウント:0杯

子供の頃の自分はと言うと、校則をしっかり守る真面目な生徒であった。制服も体操服も着崩すことなくきっちり着て、積極的に授業に参加し、学級委員長を務め、よく本を読む子供だった。そういった生活態度のためか、学業が特別秀でていたわけではなく、納得できないことがあれば教師に真っ向から反論することもあったが、教師受けが良かった記憶がある。

そんな子供の頃の自分が持っていた価値観はと言うとこんなものだった。

乱れた日本語を使うことは嘆かわしい。
髪を染めることは外国人に憧れてやる馬鹿な行為で、日本人としての誇りが足りない。
ネイルアートは無駄で、家事をやることを考えていない。
美容整形はすべきではない。
腐女子は隠れるべきで、迫害されても仕方がない。
同性愛者は親に勘当されても仕方がない。

大きく変わったものだなぁ。今は言葉は時代時代により変化するものと捉えている。染髪はただのファッションであり、誰しも自由に楽しむべきものだ。よく目に入る指先が綺麗であればテンションも上がるだろうし、美しい装飾は素敵なものだ。美容整形も美しくなるための努力の一つ、リスクを承知で覚悟を決めた人に対しどうこう言うべきではない。やおいだろうが何だろうが趣味は趣味、見せ方に注意が必要なのはジャンルではなく作品の質によるだろう。

価値観がガラリと変わった瞬間を今でも覚えている。中学生のときに討論番組を観ていたら、黒人男性が同性愛者は差別されて然るべきと発言していた。自分は同性愛者に対しこれと言って嫌悪感はなかったが、その瞬間までその意見に対し「そうだなぁ」と漠然と同調していた。

そしてその男性に対し、同じ黒人の女性が訴えた。「黒人だからと言って差別されてきた歴史があるのに、どうして同性愛者は差別していいなんて言えるの?」と。この言葉を聴いた途端、「あ、確かに」と己は納得し、同時に「何で差別されて然るべき、なんて考えられたんだ?」と自分に対して疑問を持ち、それまで持っていた漠然とした差別感が霧消した。

思えば両親は正しい日本語を推奨してはいたが、染髪やネイルアートや同性愛者を悪と決め付ける発言はしていなかった。では、どこで己の価値観は育まれたのだろうと思い返すと不思議に感じる。明確な答えは出ないが、良くも悪くも自分は世の中で「正しい」と言われることを鵜呑みにしすぎていていたのかもしれない。

ファッションを楽しむ友人を見て自分も髪を染めた。嬉しそうに指先を眺める人を見てネイルアートが好きになった。コンプレックス解消のため、覚悟を決めて美容整形をした人がテレビで理不尽に説教され泣いている姿を見て嫌な気持ちになった。熱心に好きな作品の萌えを語る人を見て愛の形はそれぞれだと知った。様々な人や事象に出会い、それぞれの価値観に触れるにつれ段階的に変化した。変化できて良かったと心から思う。そしてまたこれからも変化し続けたい。

そんなことを考えていたとき、同性愛者のカップルが養子を迎えた話に対し「子供が可哀想、いじめられるんじゃないか」という意見をネットで見た。子供の心配をするその人はきっと優しい人なのだろう。だからもし自分が優しい人に出会ったらこのように伝えたい。「そうですね、いじめられていたら可哀想ですよね。じゃあ、せめて我々はその子に対して『誰が君をいじめても我々は君と君の家族の味方だよ』と伝えましょうよ」、と。

どうかその子が、正しいと信じられた意地悪な言葉を受けて愛情を歪められることなく、幸せに生きていけますように。