日記録0杯, 日常

2017年10月12日(木) 緑茶カウント:0杯

強い苦味と腐敗臭があって非常にまずいが、
脚の付け根のわずかな筋肉には、
わずかに、甲殻類系の風味が感じられる。

わずかに。

平沢進のライブを観に行ったとき、ライブホールの外でカサカサと地を這う虫を見た。灰色ががっていて触角が長く、体長は五センチほど。はてあれはもしやフナムシかな、海も近いし、と思ったものの家に帰ったときはライブの興奮で虫のことなんぞすっかり忘れていた。そうして数日経ってからそういやあれはフナムシだったのだろうかと気になりだし、カタカタとキーボードを叩いてポンと検索。一番上に表示されたウィキペディアのフナムシのページをクリックすれば、確かにあの虫はフナムシに間違いないようだ。なるほどなるほど、と読み進めると書いてあったフナムシの味。強い苦味と腐敗臭があって非常にまずいが、脚の付け根のわずかな筋肉には、わずかに甲殻類系の風味が感じられる。

しばしこの短い文章に見入った。強い苦味があるうえ腐敗臭までして、非常にまずいとまで言い切っているのに、それでも尚わずかなおいしさを追い求めるこの姿勢。フナムシの脚の付け根の筋肉なんてそりゃあもうわずかなものだろう。しかもようやく「風味」であって、旨味があるとまではいかない。しかしこのフナムシを味わった人は、そのわずかな部位から、ほんのわずかに甲殻類の風味を感じ取り、「これだ!」と記録したのである。こんな、気持ち悪いと厭忌され、嫌がられるフナムシの良いところを見つけたぞ! と万歳をする姿が目に浮かぶようである。きっとこの人はこのわずかな甲殻類の風味を感じ取ったとき、とても嬉しかったに違いない。

おめでとう、見知らぬ人よ。おめでとう、フナムシ。フナムシもきっと自分の脚の付け根のわずかな筋肉にそんな美点があろうとは思いも寄らぬことだろう。良かったねフナムシ。おめでとう、フナムシ。強い苦味があって腐敗臭がして非常にまずいけど良かったねフナムシ。強く生きろよ、フナムシ。



日記録0杯, 日常

2017年10月10日(火) 緑茶カウント:0杯

友人以外の人間からたまに、「独身は気楽で良いよね。呑み会に行くのも自由だし、趣味に金を使うのも自由で、配偶者や子供に気を遣うこともなく、全て自分の思うままだろう」といったことを言われることがある。そういったとき、つい「その代わり、家族を持つ喜びは得ていないですよ」と言ってしまいそうになるが、つい言いたくなるがそれは正しいことではない。その返答はきっと相手方を満足させるもの、あるいは納得させるものであろうが、己は独身の気楽さや趣味を楽しむ代償として、家族を持つ喜びを手放しているわけではないのである。

たまたま自分は新しく家族を築き上げたいとは思わなかった。子供を欲しいとも思わない。むしろ配偶者を持ち、子供を作る道を選べば自分の性質上間違いなく不幸になることが見えている。故にその道を選んでいないだけで、その道に進みたいと切望したことなぞ無いのである。

よって正しい返答は、「そうですね。まぁそれなりに苦労もありますが、日々なかなか楽しいですよ」で、そこに気後れをする必要はない。好きなことをして、好きな生き方をできている。自分はなかなか幸福で、そこに負い目を感じる必要はない。

ただ、どなたかが今の幸福と引換えに失うものがあるのなら、それに対して慮ることは致しましょう。その方と己は別の生き方をしているが、別に敵でも何でもない。別の道を歩みつつ、たまに道が交差するとよろしいね。その際にはどうぞ仲良くしましょう。たったそれだけのことなのである。

しかししつこい人間に関しては交差した瞬間に言葉でぶん殴る。君の満足のために卑屈になる気はないのだよ。ははは、と腹に抱えて。腹に抱えて。



日記録0杯, 日常

2017年10月5日(木) 緑茶カウント:0杯

目の前が真っ暗になるとはまさにこのこと。それはもう、ギャグ漫画の如く、目の前が真っ黄色になったのさ。

真っ黄色。末期色。弾ける脳髄ならぬ弾けるチーズ。あぁ、シャララシャカシャカ。

ちょいとおつまみを追加したいと思ったのだ。そのとき、己はハイボールを呑んでいたのだ。そして賞味期限の近い調理用チーズの存在を思い出し、よっしゃこれをトースターで焼いてみるかと思い立ち、袋を左右に引っ張った直後。パン、と軽やかな音とともに、細切れのチーズが視界一杯に飛び散って、台所全体に降り注いだのさ。

チーズである。チーズである。チーズである。よりにもよって。

漫画やアニメでポテトチップスを破裂させる、そんな姿を何度か見たことはあるものの、まさか自分が調理用チーズでやってしまうとは、予想だにせぬ事態である。そして狭いとはいえ台所一面、真っ黄色ならぬ末期色のチーズの雨が降り注ぎ、まさに絶望的なありさま。これね、チーズだからね。滅茶苦茶美味しくて栄養価高いからね、一欠片でも放置したらそりゃあ、ゴキブリのご馳走でございますよ。

おつまみが欲しいと思ったのはいつだって? 二十四時さ。いろいろなミッションを終え、ふうと一息つきながら、ハイボールを呑んでいる、そんな時間帯さ。そんな時間帯の出来事である。

あぁ。

綺麗になった。綺麗になった。綺麗になったよ。しかしグラスの中に浮かんでいた氷は完全に溶け切って、わずかな氷の欠片が浮かぶそれを口に含めば意外に冷たく、とはいえ目当てのおつまみを手に入れることはできず、背後には美しく磨かれた台所があり、疲労困憊のままはぁとため息をつくのであった。

はぁ。あぁ。



日記録0杯, 日常

2017年10月2日(月) 緑茶カウント:0杯

「これは春の歌である。だって桜が咲いているのだから」

確かに桜は咲いている。しかしそれは狂い咲きの桜である。狂い咲きの桜が舞い散る季節は決して春ではなく、それは春の歌ではない。

受け取り方は自由だが、読み取る力も必要だ。通常桜は春に咲き、その中で秋や冬に咲くものもある。それをあえて指した場合、季節は必ず春以外を示している。では、何故あえて狂い咲きの桜を指したのか? そこに作者の意図がある。

ただし。「これは狂い咲きの桜を歌った曲だけれども、春の思い出に色濃く結びついているので、これは自分にとっては春の歌なのさ」と言う場合は、それは間違いなく春の歌であり、春の歌以外の何物でもない。作者の意図を理解したうえでの自分の思い入れであれば、思い入れが優先されて然るべきであろう。

だからね、そこに違いがあるのさ。たったそれだけの話なのである。



日記録0杯, 日常

2017年10月1日(日) 緑茶カウント:0杯

ここ数週間、ずっと気になっているものがある。それはアパートの軒先に二本吊り下げられたビニール傘。己は二階に住んでいて、真下に住む人の玄関先にあるものだ。階下の人は煙草を嗜むようで、玄関先の郵便受けの上には灰皿代わりの空き缶が備え付けられていて、そこにはいつも煙草の吸殻がたまっている。窓を開けているとたまに煙草の煙のにおいが入ってきて、あぁ下の人が喫んでいるのだな、と己はいつも窓を閉める。洗濯物は基本的に時間帯の問題で部屋干ししかしていないため、その点の害はない。

さて、その郵便受けの上の吸殻の隣に置かれた二本の透明なビニール傘。この内側に濁った黒い水がたまっている。これに気付いたのは数週間前で、あぁしばらく使っていないのだな、と思いつつ外階段を上り自室に入ったのであるが、以来そのビニール傘が気になって仕方がない。出入りの度につい見てしまうが、いつも透明な傘の内側には黒い水が溜まっていて、雨の日の翌日は嵩を増している。どす黒い汚い水が増えている。

この傘は使うものなのか。使う用途がないものの捨てるのが面倒くさくてただただ軒先に放置しているのか。そうしてついに、どす黒い泥水はたぷたぷになっていて、そろそろ溢れそうな有様。いつかあれが処分されるのか。それともそのまま溢れるのか。中から何かが発生するのか。興味深く眺めている。