子供の頃の価値観は

2017年4月6日(木) 緑茶カウント:0杯

子供の頃の自分はと言うと、校則をしっかり守る真面目な生徒であった。制服も体操服も着崩すことなくきっちり着て、積極的に授業に参加し、学級委員長を務め、よく本を読む子供だった。そういった生活態度のためか、学業が特別秀でていたわけではなく、納得できないことがあれば教師に真っ向から反論することもあったが、教師受けが良かった記憶がある。

そんな子供の頃の自分が持っていた価値観はと言うとこんなものだった。

乱れた日本語を使うことは嘆かわしい。
髪を染めることは外国人に憧れてやる馬鹿な行為で、日本人としての誇りが足りない。
ネイルアートは無駄で、家事をやることを考えていない。
美容整形はすべきではない。
腐女子は隠れるべきで、迫害されても仕方がない。
同性愛者は親に勘当されても仕方がない。

大きく変わったものだなぁ。今は言葉は時代時代により変化するものと捉えている。染髪はただのファッションであり、誰しも自由に楽しむべきものだ。よく目に入る指先が綺麗であればテンションも上がるだろうし、美しい装飾は素敵なものだ。美容整形も美しくなるための努力の一つ、リスクを承知で覚悟を決めた人に対しどうこう言うべきではない。やおいだろうが何だろうが趣味は趣味、見せ方に注意が必要なのはジャンルではなく作品の質によるだろう。

価値観がガラリと変わった瞬間を今でも覚えている。中学生のときに討論番組を観ていたら、黒人男性が同性愛者は差別されて然るべきと発言していた。自分は同性愛者に対しこれと言って嫌悪感はなかったが、その瞬間までその意見に対し「そうだなぁ」と漠然と同調していた。

そしてその男性に対し、同じ黒人の女性が訴えた。「黒人だからと言って差別されてきた歴史があるのに、どうして同性愛者は差別していいなんて言えるの?」と。この言葉を聴いた途端、「あ、確かに」と己は納得し、同時に「何で差別されて然るべき、なんて考えられたんだ?」と自分に対して疑問を持ち、それまで持っていた漠然とした差別感が霧消した。

思えば両親は正しい日本語を推奨してはいたが、染髪やネイルアートや同性愛者を悪と決め付ける発言はしていなかった。では、どこで己の価値観は育まれたのだろうと思い返すと不思議に感じる。明確な答えは出ないが、良くも悪くも自分は世の中で「正しい」と言われることを鵜呑みにしすぎていていたのかもしれない。

ファッションを楽しむ友人を見て自分も髪を染めた。嬉しそうに指先を眺める人を見てネイルアートが好きになった。コンプレックス解消のため、覚悟を決めて美容整形をした人がテレビで理不尽に説教され泣いている姿を見て嫌な気持ちになった。熱心に好きな作品の萌えを語る人を見て愛の形はそれぞれだと知った。様々な人や事象に出会い、それぞれの価値観に触れるにつれ段階的に変化した。変化できて良かったと心から思う。そしてまたこれからも変化し続けたい。

そんなことを考えていたとき、同性愛者のカップルが養子を迎えた話に対し「子供が可哀想、いじめられるんじゃないか」という意見をネットで見た。子供の心配をするその人はきっと優しい人なのだろう。だからもし自分が優しい人に出会ったらこのように伝えたい。「そうですね、いじめられていたら可哀想ですよね。じゃあ、せめて我々はその子に対して『誰が君をいじめても我々は君と君の家族の味方だよ』と伝えましょうよ」、と。

どうかその子が、正しいと信じられた意地悪な言葉を受けて愛情を歪められることなく、幸せに生きていけますように。



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