一番苦手なことへの耐性
2014年7月28日(月) 緑茶カウント:4杯
最近になってふと気付いたのだが、昔に比べ、下ネタに対する抵抗感が薄まっているようだ。昔は下ネタを聞かされると冗談ではなく具合が悪くなって気力が目減りし、嫌な気分のまま床に倒れて鬱々としては、この程度のことでここまでダメージを受ける自分は何てダメ人間なんだと自己嫌悪に陥っていたのだが、わりと大丈夫になった。
例えば。昔はそれこそ「誰と誰が付き合っている」という話を聞くのもだめだった。苦手だった。色恋の話題から完全に隔離されることを願い、優しい友人達は自分の前ではそういった話題を避けてくれた。よって学校を卒業してから、近しい間柄の中で誰と誰が付き合ったり別れたり断られたりした、という話を聞いてびっくりしたものである。お前ら狭い範囲でそんなにややこしいことになってたのかよ、と。
全く自分は蚊帳の外だったのである。無論自ら望んでのことだ。そしてまた、蚊帳の外にしてくれていたことを本当に有難いと思う。今になって思えば優しい人達である。本当に。
大学卒業後も、友人達が好きなアダルトビデオの女優は誰か、という話で盛り上がっていたとき、自分はどのように振舞えば良いのかわからず、それを公言することは恥ずかしいことでは無いのか!? 公にして良い類のことなのか!? とハテナマークが脳内に溢れる中、女友達がノリノリで話題に喰いついていて何とも言えない孤独を感じたものだ。
まぁアダルトビデオの女優について語ることに抵抗を抱くのはまだわかってもらえるだろう。自分は「好きな人は誰か」公言することさえ理解が出来なかった。子供の頃はそれこそ、好きな人の名前を口に出すことはあんなに恥ずかしかったはずなのに、皆その共通意識を持っていたはずなのに、いつの間に脱出したのだろう、と心の底から不思議に思った。ちょっと前まで。
ついでに言うと、結局婚前交渉はありなのか無しなのかが少し前までわからなかった。「できちゃった結婚は恥ずかしい」という価値観があることを考えるに、婚前交渉は無しなのだろうが、どうもそれを世間の皆様が守っているようには感じられないというか、どこまで本気の建前なのかがさっぱり理解出来なかった。しかしこれについては自分の中で答えが出た。ありである。無しだったら結婚制度の枠組みから外れる同性愛者は永遠に性交渉が出来ないじゃないか、とはたと気付いて納得した。これ、論理的に滅茶苦茶だと自分でも気付いているが、腑に落ちたのでそれで良いということにしている。
ただあまり自由奔放であると男も女もリスキーなので気をつけなされよ、というところだろう。ありと言えども節度は必要である。
耐性が出来たとはいえ未だNGワードは多く、特殊宿泊施設の名前を口に出して読むことが出来ない。ただ、連れ込み宿という名称に言い換えれば言える気がする。代替表現を見つければ多少は生きやすくなりそうだ。とはいえそんな話題を口に出すことなど、そもそも全く無いのだが。
このように変化が訪れたのは、結婚した友人とその配偶者と、交際中の友人とその恋人との付き合いが増えたり、周囲に交際中の人間が増えた影響かもしれない。慣れたのだ。そして、にこにこしながら脇腹の肉をつまみ合ったりする彼ら彼女らを見て、素直に微笑ましく感じられるようになり、受け入れられるようになったのだ。これはきっと進歩である。まだまだハードルも多いが、その輪の中にいられることが嬉しい。