2020年2月3日(月) 緑茶カウント:3杯
年齢を重ねるごとに時代が変わり世の中の価値観が移り行く中で、自分自身の価値観をアップデートしないとどうなるか、ということを考えたとき、「若者に距離を置かれる」というのも一つの側面ではなかろうか。そしてその若者は路上で行きかう接点も無ければ関係も無い言ってみればどうでも良い人間だけでなく、子供や孫といったその人にとってどうでも良くない、愛すべき存在も含まれるのだ。
無論全部が全部そうと言い切るつもりはない。しかしその側面はあるだろう。だからなるべく、価値観はアップデートしていった方が良いのである。愛すべき子供や孫から距離を置かれたくなければ。
そして自分がまさにそのアップデートできなかった人物の孫であり、会いたい会いたいと電話や手紙で訴えられながらじっと距離を置いている。何故なら、会うと疲弊するからだ。そして会えば会うほど苦い感情が増え、今はまだ嫌いとまではいかないまでも、そこに辿りついてしまいそうだからだ。
同情もなくはない。スーパーマーケットも老人ホームも潰れた山奥の過疎地に住む祖父母は得られる情報が限られている。ただ、全くチャンスがないわけではなかった。祖父母の古い固定観念による決めつけや要望に対し、己は苦言を呈してきたし、正面から拒否してきた。しかし祖父母が見ているのはいつまで経っても実像ではなく虚像の孫であり、実像が虚像に近づくことを望んでいた。また祖父は悪意なく失礼な発言を周囲にすることが多々あり、祖父母の子供である叔母達は「年だからしょうがない」と時には怒りつつも許してきた。そこには血のつながりゆえの寛容があり、祖父母も叔母達もその寛容を他者にも期待してきた。しかし子世代はともかく孫世代ではその寛容は薄く薄くなっていて、不快の方がよっぽど勝ってしまったのである。結果、我々孫は諦めて距離を置いている。
きっと祖父母は気付きもしなかったのだろう。当たり前に存在した「血のつながりを大切にすべき」という価値観だけでなく、今の世には「例え家族や親戚であっても気が合わないなら距離を置くべき」という価値観が存在していることに。
そうして自分はと言うと、祖父母と距離をとりながら何とも言えない気持ちを抱いている。この日記を書いたのは別に自分を正当化したいわけではなかった。反面教師にしようと教訓めいたことを言いたかったわけでもない。ただやるせなさを抱きつつ、こういう面ってあるよなぁ、とただただ寂しく思っているのである。