よくもまぁ二十分なんて短い時間を全力で遊ぶことが出来たものだ、と思うのは小学校の頃と比べて、時間の感覚が変わったせいか。今の自分がもし二十分の休憩時間を与えられたとしても、わざわざ外に飛び出してグラウンドを駆け抜けて鉄棒に飛びついたりしないだろうなぁ。仮に鉄棒に対し多大な魅力を感じていたとしても。教室の中でじっとしていることを選ぶはずである。まぁ高学年の自分も教室の中にいることを選んだだろうが、室内で全力で遊んだだろう。絵とか描いたりなんだりして。
小学生低学年の頃は二時間目と三時間目の間に挟まれる二十分休みが大きな楽しみで、給食後から五時間目開始までの間に挟まれる昼休みなどは莫大な時間を与えられたように感じたものだ。昼休みは三十分か四十分か、記憶が定かでは無いが二十分休みよりも長いのは確か。三十分全力で遊ぶのは結構集中力がいると思うぞ。逆に言えば、それだけ遊びに集中出来たということか。
自分の生きた年数を分母とすると、例えば六歳児であれば六年間のうちの二十分、それが二十歳になると二十年間のうちの二十分となってしまうため、同じ二十分でも感じ方に差が出てしまう、という話を聞いたことがあるのでさもありなんと言ったところだが、とすると大人にとっては少々の苦痛も、子供にとっては永遠の苦痛に感じられるということか。苦痛を感じる時間が短くなる分鈍感になれると思うと悪くないなぁってわけでも無いな楽にはなれるが悔しいな。ここで素直にポジティブになっときゃ良いのにならずに終わる。今日も緑茶を飲み損ねた。ちくしょうめ。