日記録0杯, 日常

2013年6月28日(金) 緑茶カウント:0杯

本屋にでかでかと「通常版」と書かれた漫画が並べられていた。なるほど、こちらが「通常版」ということは、「特別版」も出ているということだな。まぁ、ここまでは誰でも類推することが出来る。だが、わからないのは特別版がどうしてどのように特別なのか、ということだ。

しかしその本屋には通常版しか在庫が無く、また、通常版にも特別版と通常版にどのような違いがあるか、特別版がどうしてどのように特別なのか、そういった情報が一切書かれておらず、せっかく新刊が出ているならさっさと買って読みたいが、己はこれをこの場で買うべきなのかそうでないのか判断することが出来ない。本を持ったまま売り場で逡巡。まぁ、後悔したくないし一度家に帰ってから調べるか、と本を置いて店を出る。

そして調べるのを忘れる。本屋で気付く。家に帰る。調べるのを忘れる。本屋で気付く。家に帰る。調べるのを忘れる。本屋で気付く。家に帰る。というのを三回繰り返した。馬鹿だ。流石に今日は本屋で呆れ返った。もういっそこれは縁が無いと考えるべきかもしれない。あぁ。



日記録0杯, 日常

2013年6月27日(木) 緑茶カウント:0杯

寂しい!

今年になってから友人がバンバン結婚していく。これまでは女友達ばかりだったがついに男友達まで結婚するようになり、あぁ、もうそんな年齢になったのかと感慨深く思いつつ、皆ずっと学生のときのままでいれば良いのにと身勝手なことを考える。

そして今日、結婚ではないがある友人から交際開始の報告が入り、めでたくありつつもやや寂しく、だんだん一対一で遊べる友人が減っていくのが残念で、だってやはり多少は気を使わなければならないからなぁ。あまり自由に振舞いすぎてもいけないとようやく学んできたのだよ。

自分は結婚をしないという意味で一人で生きていくつもりだが、十年後遊びに付き合ってくれる人はいったい何人いるものか。覚悟しなければならないのだろうなぁ。恋人と手を繋いだ友人達が続々とコーヒーカップに乗り込んで、猛スピードでぐるぐる回転しているのを敷地の外で眺めている気分だ。

まぁ、自分に合った乗り物を探すしかないか。



日記録0杯, 日常

2013年6月26日(水) 緑茶カウント:0杯

この緑茶カウントというものは、一日に自分が何杯緑茶を飲んだか記録するためのもので、正直なところ記録することに全く意味など無いのだが、毎日毎日緑茶を飲んでいたある日、いったい己は一日にどのくらい緑茶を飲んでいるのだろうか、と興味を持って記録してみたのが数年前、以来ずっと続いているので今更やめるのもいかがなものか、ということで続けているのだが、サイトのデザインを変えてからというもの、この緑茶カウントをどのように記録するかが一つの課題となっていて、試しに日記のタイトルに日付と緑茶カウントをつけていたが、すると日記の中身が全くわからない不親切仕様になり、じゃあどこに入れたら良いだろうと迷いつつ今度は日記の先頭に入れてみたが、タイトルにタイトルらしいことを書けるようになったものの、日付が重複するという問題が未だ残っており、見苦しいなぁいったいどうしたものか、とこんなに試行錯誤しているのにこのところずっと緑茶を飲んでいないのが実に馬鹿らしい。

ちょっとね。麦茶にね。はまってましてね。美味いよね麦茶。ミネラル麦茶を愛飲しているよ。

理想は記事の左上の四角いところ、その中身に日付ではなくカテゴリ名、もしくは任意の単語を入れること。何とかうまいことならんかな。考えている。


日記録0杯, 日常

2013年6月25日(火) 緑茶カウント:0杯

昨日書いた日記を思った以上に多くの方に読んでもらえて嬉しい反面、タイトルがあまりに不親切というか、2013年6月24日に己が緑茶を一杯も飲んでいないという情報しか書かれておらず、せっかくTwitterで拡散してくれた方に対し申し訳ない気分になったため、今更ながらちょっといじることにした。

週末になったらまたもうちょっとあれこれいじってみようと思う。あれこれと。


日記録0杯, 日常, 筋肉少女帯

再結成後、バンドを歌った曲が増えたなぁと感じたのは確か「蔦からまるQの惑星」が発売されたときで、その三年後「中2病の神ドロシー」を聴いて、オーケンにどんな心境の変化があったのだろうと改めて思わされたことを思い出す。

「新人バンドのテーマ」「ツアーファイナル」「アウェーインザライフ」「アデイインザライフ」、そして「中2病の神ドロシー」。再結成後だけで五曲もあるのに、対して凍結前はと言うと、強いて挙げるなら「ノゾミのなくならない世界」、筋肉少女帯の名前が出てくるのは「ベティー・ブルーって呼んでよね」。恐らくこの程度である。「サーチライト」はバンドというよりオーケン自身だ。ところが再結成後は、新しくアルバムがリリースされると必ずバンドを歌った曲が一つは収録されている。凍結前にリリースされたアルバム数から鑑みても、これは多いと言えるだろう。

「アウェーインザライフ」を除いて、共通して歌われているのはバンドとファンとの関係性だ。そして面白いのが、バンドとファンの関係性を描くと同時に、ファンの目を通すことで「筋肉少女帯」というバンドが客観視されて歌われていることである。

どうして再結成後のオーケンは、「筋肉少女帯」というバンドを考える詩を書くのか。それはつまり、今のオーケンの関心が「筋肉少女帯というバンド」にあるからだと思われる。

書籍「筋肉少女帯自伝」で、凍結中に「大槻さんは、昔、筋肉少女帯というバンドにいたんですか?」という手紙を新しいファンからもらい、このままではいけないな、と筋少に対して思い始めたというエピソードがある。そして同書に、「バンドはメンバーの手を離れて独立し、ブランド化していく」と書き、別の場所では「そのブランドを大切しなければならない」とも語っている。

また、注目したいのが、オーケンがMCばかり取り上げられることを本意ではないと言っていること。これはこの間のライブのMCでも話していた。フェスに出ても、ライブレポートではMCばかりが取り上げられて、それが筋少のイメージを偏らせる原因になっている、という内容のことを話し、だから今回のライブはDVDになるけど、MGは全部カットする! と繋げていた。半分は冗談だが、半分は本気だろう。

筋少の魅力は、オーケンの歌う歌詞世界とその歌声、バラエティ豊かな曲群に、確かな演奏力、そして腹の底から笑い転げるMCにある。これら全てが筋少の魅力だ。だが、人は語りやすいところを語るもので、するとより伝えやすい「おもしろMC」ばかりが取り上げられてしまう。

このことに危機感とまではいかないまでも、残念な思いを抱くようになったのは、それだけオーケンが「音楽」に関心を寄せているからだろう。これは前から思っていたが、オーケンが弾き語りを始めてから、メンバーをリスペクトする発言が増えてきた。無論昔からオーケンは「自分は音楽の素養が無い」と言い切っていて、その自覚があり、また、メンバーの技術力の高さも知っていたが、自身が楽器を始めたことで、そのすごさを改めて思い知らされたのだろう。同時に、そんなメンバーと一緒にやれることに感謝の念を抱いているように見える。だからこそ、MCばかりでなく、もっと曲に注目して欲しい、本当は筋少はこんなにすごいバンドなんだから、と思っているのではないだろうか。

もしかしたら「タレント・大槻ケンヂ」が注目されすぎてしまったことに負い目があるのかもしれない。自分の周りにも、筋肉少女帯がどんなバンドかよくわからないながらも、大槻ケンヂのやってる何か変なバンド、という認識を持っている人は少なくない。だが、色物的な見方をされこそすれ、バンドの名前を世に知らしめた功績は大きいと自分は思う。

閑話休題。

バンドを復活させることで向き合うことを余儀なくされ、その対話が歌になる。そしてバンドとファンの一期一会の出会いへの感謝を歌い、歌いながら今の筋少というバンドを見つめ、メンバーと一緒にライブをやれることに感謝し、より多くの人に筋少の音楽を聴いてもらいたいという気持ちを抱く。今のオーケンはきっと、筋少というバンドをすごく大事に思っているのだろう。そんな思いが溢れた結果が、バンドを歌った曲であり、MCばかり取り上げられたくないという発言であり、メンバーへの素直なリスペクトなのだろう、と感じた。