日記録4杯, 日常,

2017年7月1日(土) 緑茶カウント:4杯

誰かのために買うよりも、自分のために買った数の方が多いだろう。
何故なら東京ばな奈はおいしいからだ。

東京ばな奈はおいしい。とてもおいしい。やわらかくしっとりしたスポンジに包まれた、重みのあるバナナクリーム。ぱくりと一口齧り、もぐもぐと噛むごとに口の中に広がり、溶けていく濃厚な甘さ。常温で食べてもおいしく、冷やして食べると尚おいしい。冷蔵庫に入れてしばらく待つだけで、少しだけ特別なデザートに変わるような思いがする。そしてその素敵なデザートが、今我が家の冷蔵庫に六つある。

土産物の多くは自分で買って食べたり使ったりするものではない。人に贈るものであり、人からもらうものである。よって客人よりいただく場合は、その人の地元もしくは旅先の品が土産となる。新潟、青森、静岡、名古屋、大阪、広島、福岡、鹿児島などなど。そこに東京が入るかと言うと、まず入らない。無論浅草やスカイツリー、しながわ水族館などに行ったお土産をいただくことはあるが、その場合浅草やスカイツリーやしながわ水族館特有のお土産がチョイスされるので、「東京」に行った証である東京ばな奈が土産物としてチョイスされることは無いのである。

つまり。首都圏に住む自分が東京ばな奈を手にする機会はまず無い。

そう、己にとって東京ばな奈は近くて遠い存在だった。よく利用する駅の売店で必ずと言って良いほど見るのに得られる機会がない。そのように思っていた。そのように思っていたがあるときに気付いた。自分で自分のために買えば良いと。

己はずっと「土産物」という言葉の魔力に縛られていたらしい。そうだ! 土産でも何でもなく自分のために買って何の悪いことがあろうか! 確かにこれは土産物として販売されている、しかしこれは、ただの箱に入った菓子だ!!

気付いたのは大学生の頃。万葉集のレポートを書くために夜行バスで奈良に行く日だった。そうして目覚めた己は売店で東京ばな奈を購入し、奈良に向かうバスの中でもぐもぐ食べた。多くは帰り道で買われるであろう土産物の菓子を行き掛けに買って自分で食べる背徳感。おいしかった。

以来、売店で賞味期限が短いからお早めに、と店員に注意を促されながら「大丈夫、賞味期限が切れるまでにすぐに食べ切ってしまいますよ」と頭の中で答えながら自分のためにたまに買っている。家に持って帰るといそいそとお茶を淹れ、バリバリと包装紙を剥ぎ、まず常温で食べて、満足したら冷蔵庫に入れて、ひんやり冷えた東京ばな奈に舌鼓を打ち、あーーおいしいなーーーと幸福を噛み締める。八個で千円の幸福の味。東京ばな奈は、おいしい。



日記録4杯, 日常

2017年6月11日(日) 緑茶カウント:4杯

最近めっきり胃が弱くなったことを自覚している。少し食べただけで食べられなくなり、夜遅くに飯を食べれば翌朝胃もたれするのが常だ。そうして胃が重いからと朝食を省略するようにしたら一時快適になったものの、ますます胃が弱くなった気がしてならず、それでいて大した量を食べていないにも関わらず太りやすくもなり、困ったものだなぁと思っている。

筋トレはじわじわとしている。しかしなかなか結果に結びつかない。

これも年齢のためだろうか、と思うものの、歳を重ねて得たものは悪いことばかりでもない。先日の日記でらんま1/2のストラップに三千九百円を費やしたことを告白した。それはらんま1/2にはまっていた小学校高学年の頃の自分は到底できない出費である。そしてまた、五年前の自分にも到底不可能なことだったのだ。

当時、己は金銭的に苦労していた。生活はできたが、切り詰めなければならなかった。食費は月一万二千円と決めていたため、毎回決まったものしか買えなかった。玉ねぎ、人参、大根、ゴボウ、舞茸、きゅうり、もやし、トマト、鶏肉、豚肉。何にでも応用の利く安いものしか買えなかった。パプリカなどは贅沢品でなかなか手が出なかった。食パンは安いスーパーで売られている一斤八十円のものしか買えなかった。パン屋で見かける二百五十円の食パンは雲の上の存在で、いつかあの食パンを日常的に気負いなく買えるようになりたいと願っていたが、その日は一生来ないものとも思っていた。

辛かったのが衣類の購入だ。新しい服を買う必要性を感じつつも費用を捻出できない。削るとしたら娯楽費しかない。しかしこの娯楽費を削ったら心が死んでしまうのは目に見えていた。漫画、本、ライブチケット。ライブも当時は厳選せざるを得なかった。当時を振り返ると、ぐっと参戦数が減っているからわかりやすい。

あれから五年。パプリカも二百五十円の食パンも気負いなく籠に入れられるようになった。財布の中身を確かめずにふらりと外食できるようになった。ライブにも好きなように行ける。夢のようと言うよりも、嘘のようである。決して富裕層でも何でもないが、ちょっとした贅沢が許させる身の上になれるとは思えなかったのだ。あの頃と言えば常に頭の中は金勘定ばかりで、ちょっと金が入っても必要経費が差し引かれればすぐに残りは入金前とさして変わらぬ金額となり、いつもいつも金のことばかり考えねばならないことがまたしんどかった。そこを脱出できて嬉しい。

しかしあの頃毎日食べていた食パン、卵、ヨーグルト、バナナを今の自分は省略する生活を送っていて、あんなに憧れていた二百五十円の食パンを購入する日もほとんどない。だが、たまに気まぐれに手にとってトースターで軽く焼き、バターを乗せてかじったとき。小麦の良い香りが口中に広がり、甘さがとろけ、しみじみと幸福を噛み締める。そうしてあの、己の命を繋げていた八十円のパサパサの食パンの味を思い返すのだった。



日記録4杯, 日常

2017年6月4日(日) 緑茶カウント:4杯

床に積んでいる本を全て本棚に納められたらどんなにか心地が良いだろう。数えれば一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。本棚から溢れた本の山が床に積み重なり、時には雪崩を起こし、見るも無残な有様。いつかこれを本棚に納めたいと思いつつ、本棚を置く場所がないためにその願望を叶えられずにいる。そろそろどうにか引っ越しをしたい。

最近は太宰治にはまっていて、おすすめの作品を太宰好きの人々から教えてもらい、一つ一つ読み進めている。太宰治と言うと陰鬱なイメージが強く、故に深入りせずに過ごしていたのだが、読んでみて己の認識が間違っていたことに気が付いた。ユニークな話や滑稽な話もたくさんあり、バラエティに富んでいる。てっきり自ら命を絶ち、この世とグッド・バイする暗い話だと思い込んでいた「グッド・バイ」は、十人の愛人とグッド・バイして身辺整理をして妻子と田舎で暮らしたいなぁアハハ、という望みを持つ男が、強烈かつ魅力的な女性に振り回されて全く計画がうまく行かず困り果てる話であった。未完であるのが非常に残念である。

これらの太宰作品は青空文庫で読めるため、kindleのおかげで床面積を支配されずに済んでいるが、新書の類はなかなかそうも行かず、先日購入した本川達雄の「ウニはすごい、バッタもすごい」と町田康の新刊「ホサナ」を買ってまた床面積が一つ減った。そして最近なるしまゆりの「少年魔法士」がついに完結した報せを聴き、本屋を回るも手に入らなかったためamazonで既刊を注文した昨今。ちなみに「少年魔法士」はファンタジー漫画なのだが、発売元の「新書館」はボーイズラブ作品を多く出版しているらしく、件の棚を探しに行ったら非常に場違いな思いをした。しかし発見もあった。何故かボーイズラブ作品の表紙は、カップルがカメラ目線でこちらを見ている構図が多いのである。故に目が合った。すごく目が合った。何故お前らこっちを見る。見つめ合いなさい、自分らを。

いつか本棚だけで構成された部屋を一つ持ちたいものだ。そのように願いつつ、今日も一つ雪崩を起こす。あぁ、図鑑が! 資料集が! まぁ数年後。もう数年後にはどうにかしよう。流石にね。



日記録14周年企画, 4杯, 日常

2017年5月14日(日) 緑茶カウント:4杯

筋肉少女帯の楽曲「サーチライト」に「カリブロなんかは十九で死んだ」という歌詞がある。カリブロは若くしてこの世を去った非実在の詩人の名前である。故に、彼の名前をスーパーの野菜売り場で見たときには驚いて、思わず数歩通り過ぎた後早足でバックしてしまった。

またの名をロマネスコ。奇妙な形の野菜である。花蕾がフラクタル図形を描いていて、見ていると吸い込まれそうになる。食べたことはないが、味はカリフラワーやブロッコリーに近いらしい。

このカリブロをいつか料理してみたいと思いつつ、食欲を感じないまま今に至っている。

リクエスト企画で頂いたお題「作ってみたい料理、もしくは調理してみたい食材」について、リクエストを頂いてからたびたび考えてみたが、これという答えは出てこなかった。と言うのも自分は食に対して非常に保守的で、言ってしまえば「食べたことのあるものしか食べたくない」のである。未知の味を知る喜びよりも、美味しいとわかりきったものを食べる安心感を得たいのだ。故に何度も足を運んでいる店でも毎回同じ料理を食べ、それで満足してしまう。また、味の検討がつかないものが不得手なので、子供の頃に触れて来なかったエスニック料理やモツ料理はあまりお近づきになりたくない。材料の類推が出来ないものも苦手である。例えばテリーヌなど。我ながら面倒くさいと思う。

カリブロの名前を知らないまでも、写真を見たのは何年も前で、その数年後あちこちのスーパーで見かけるようになった。時と共に一般化し、流通するようになったのだろう。それから週に一度の買出しでスーパーに行くたびにカリブロを見てはその花蕾を眺め、興味深く思いつつ手に取ることなく素通りして、いつも買っている大根、玉ねぎ、ごぼう、ほうれん草を籠の中に入れている。頭の中に響くのは「サーチライト」を歌う声。カリブロなんかは十九で死んだ! あぁ、十九で死んだカリブロがスーパーの野菜売り場に並ぶ日が来ようとは! カリブロも夢にも思うまい!

いつか食べることがあるのだろうか。もしかしたら一生ないかもしれない。しかし歌声は一生響き続けるだろう。彼の野菜を見るたびに。

十九で死んだカリブロは、今は野菜売り場で休んでいる。



日記録14周年企画, 4杯, 日常

2017年3月12日(日) 緑茶カウント:4杯

指先に捉えられるペン先の動きとセットになった、ペンをくるりと回転させる動作。そうしてペンの頭につけられたゴムが小刻みにノートを往復し、本来消えないはずのものを消す。身の回りにも愛用者が多く、勧められたこともある。とても便利だよ、君も使いたまえよと。

鉛筆と消しゴムの関係性とは違い、書いたものが削り取られるのではなく、摩擦熱によってインクが透明に変化するらしい。PILOTのフリクション・ボールペンを初めて目にしたのはテレビのCMだっただろうか。すごいもんだなぁ、と感銘を受けたことを覚えている。こいつぁ便利に違いないと驚き、試しに一度使ってみたいと思ったものだ。しかしあれから十年近く経過しただろうに、己はこれまで一度もフリクションを手にしたことがない。そのことを今まで特別意識したことはなかったが、ふと改めて考えてみたところ、どうしても手に取れない理由が見えた。

怖いのだ。

例えるならば開けやすい金庫のようで。ボールペンの持つ「消えない」特性を翻す逸品に、己はかすかな不安を抱いているらしい。消えないものが消える便利さの先にある夢、それは美しいノート、気軽に書ける安心感。しかし自分が見る夢は。

使いどころを間違えさえしなければ便利な代物だとわかりつつ、今日も消えないボールペンを握り紙面に滑らす。それは決して重要書類ではなく、もっと気軽なものに違いないのだが、どうしても消えるペンを握ることができない。ただいつか、あれを使ってみたいとも思っていて、それはあのボールペンを気軽に使える自分になりたいという願望にも近しいかもしれず、うっすらと夢見ているのである。