8月      

2011年8月1日 (月) 緑茶カウント:2杯
泣く、絡む、愚痴る、脱ぐ、抱きつく、キスをする、説教をする、怒る、語る、寝るなど、酒癖と呼ばれるものには様々な種類があり、人により表れてくるものも異なる。そして己も一つの酒癖を持っている。よくわからないが、酔うとものすごくアイスを食べたくなる。

先日もレストランでしこたま酒を呑み、デザートに出たアイスを食べた後、さらにコンビニでアイスを購入し、全長三十センチのアイスキャンディーを二本バリバリと平らげた。その前にも友人と美味しく楽しくビールを呑んで、店を出た後欲求に逆らえずにコンビニに入ってアイスモナカを購入し友人の背後でバリバリ食した。

平常でも己はアイスを好むが、はっきり言ってそこまで頻繁には食べない。だが、どうしたわけか酒を呑むとアイスが食べたくてたまらなくなり、バニラ味のアイスをバリバリムシャムシャ食べてしまうのである。締めにラーメンを食べるならよくある話だが何故にアイスを食べたくなるのか。アイスを食べているときはとにかく欲望が充足されて幸せだが、どういうメカニズムで体がアイスを欲しているのか。

少し呑んだだけではアイスを食べたくはならない。だいぶ、結構、かなり呑んだときのみアイスを食べたくなる。もしも共に酒を呑んだ後、貴方の横でアイスをバリバリ食べだしたら結構な酔っ払いと思っていただいて構わない。どうぞ宜しくお願いしたい。


2011年8月2日 (火) 緑茶カウント:8杯
勢いで変な服を購入してしまった。その服が売られている店はやや近寄りがたい外観をしており、ショー・ウィンドウを眺めつつ、興味を抱きながらも中に入る勇気は持てず、通り過ぎること数十回。そして先日ついにそこに入る勇気を奮い起こし、無難なシャツを一枚買い、うっかり勢いづいて今日、変な服を買ってしまったのである。

柄は良い。色も良い。紐で長さを調整出来るのも便利で宜しい。しかし何の服だかわからない。そもそもどちらが前でどちらが後ろなのかすらわからない。タグを頼りにすれば良いかとタカを括っていたら、普通の服についている位置とは別の箇所にタグがついているのである。前後はどちらでも良いのだろうか。どちらでも良さそうだが、上下は流石に決まっているだろう。その上下も一回間違えて着てしまった。何か変だと思ったが、上下が違えばおかしいはずだ。

思考を巡らし、他の服との合わせ方を考えたが、そもそもこれがどのように着られるものかわからないため基準値を類推することすら出来ない。これは何? どう着るの? どう着れば格好良く着られるの? もしやこの服に無難な着方を求めている自分がおかしいのだろうか。一枚の服を前にして思案する。これはいったい何なのだ。


2011年8月3日 (水) 緑茶カウント:9杯
欲しいと思いつつも、店頭に無いために購入を迷っていたアクセサリーを取り寄せる手続きを、アクセサリーショップの店頭で行った。本当ならば実物を見て、大きさと重さを確認したいところだった。だが、取り寄せると購入を取り消しすることが出来ないと言われて迷っていたのである。

では何が決定打となったか。大きさを知りたいことを店員に伝えたところ、一所懸命にその店員がアクセサリーの絵を描いて、大きさと細部のデザインを教えてくれようとしたのである。アクセサリーの写真が掲載されたカタログの上に紙を置き、ここがこのくらいで、ここがこんなデザインになっていて、ここはこんな工夫がある、と四苦八苦しながら教えてくれたのだ。

店員の絵は非常に下手だった。肝腎の大きさも、何度も描き直すために結局紙に引かれたどの線が一番実物に近いものなのかはわからなかった。正面図ですら歪なのに、その隣に斜めから見た図を描こうとする。しかし角度のつけ方がわからないのだろう。立体を無理矢理平面に潰したような図になっていた。

それでも、伝えようと一所懸命になってくれている店員の姿勢が嬉しかったのだ。この人は前回ペンダントを購入したときも、ペンダントヘッドを通すチェーンをいくつも試させてくれ、己が満足するまで付き合ってくれた。ならばあなたを信用しよう。サイズも重さもわからないが、きっと良いものであるような気がする。

そうして己は申込用紙にサインをし、代金を払って店を出た。品物が到着するのは早くて一週間後、もしくは二週間後だそうである。果たしてあの絵の面影は見られるだろうか。時が来るのを楽しみにしている。


2011年8月4日 (木) 緑茶カウント:6杯
お願いランキングで中野のグルメスポット特集が組まれ、中野の生き字引としてオーケンが出演すると聞き、あまりつけないテレビをつけた。オーケンのおすすめとして紹介されたのは怪しさ溢れる焼肉屋だ。合間合間に挟み込まれるトークは安定して面白く、深夜に食欲を刺激されて胃袋に苦痛を感じたが、十二分に楽しんでテレビを切った。

たまにこうして穏やかに喋るオーケンをテレビで観られるのは嬉しい。十把一絡げのタレントとして賑わいを出すために呼ばれる姿は見たくないが、「オーケンだから」と必要とされて姿を見せてくれるのは歓迎だ。しかしそれでも頻繁でなくて良い。たまに観られるととても嬉しい。そのあたりが複雑なファン心理である。大好きだからこそいい加減に扱われて消費されて欲しくないのだ。

と、言ったところで、今ならそのような心配は杞憂であろうと思うがね。


2011年8月5日 (金) 緑茶カウント:3杯
思えば数ヶ月、例外を除いて数年、ほとんど己は日付が変わる前に就寝していない。この日記を書くのも日付が変わってからの方が多く、日記を終えてからのこととなるので自然寝る時間も後退する。夜遅くに寝て朝の終わりに起きる。そんな生活を五、六年続けている。

するといつの間にか日付が変わる前に眠ることをもったいなく感じるようになり、もう少し起きていようと眠気を堪えて粘った結果、睡魔とお別れしてしまい、夜更かしを繰り返してしまう。それが己の日常だ。

しかし今日は早い時間に風呂に入り、飯を食い、酒を呑み、観たい番組をインターネットで観ていたら、思いのほか早くに眠気が訪れて、現在二十三時四十分。普段ならあと一、二時間してから眠りに就くが、今日はとても瞼が重い。この時間にこの感覚を得るのはやや珍しい。珍しいが心地良い。心地良いので久し振りにこのまま眠りに就こうと思う。明日は何時に目覚めるかわからないが、もしかしたら普段と違う休日を過ごせるかもしれない。


2011年8月6日 (土) 緑茶カウント:8杯
せっかく日付が変わる前に床に就いたというのに目覚めたのは結局昼前であった。一度は朝に目が覚めたものの、どうにも耐え切れず二度寝をしてしまったのだ。

よって別段大きな変化は無く、ほぼ通常通りの休日を過ごした。洗濯をし、整体に行き、好きなパン屋で美味しいパンを買い、ゆったりと寛いで過ごす。ところが己の心の平穏を脅かす一報が実家より入った。曰く。祖父が己を結婚させる気満々らしいのである。

先日二十五になったことも関係しているのだろう。うちの父は二十七、母は二十四で結婚した。そろそろと言うことである。また、聞くに祖父の中では厳格なルール、決まりごとがあり、それは二十五にもなったら結婚を考えるべき、結婚の準備をすべき、相手がいなければ見合いなどを行って相手を見つけるべきというものだ。

非常に迷惑である。結婚願望があるならともかく、そもそも己は結婚をしたくない。だが、祖父は結婚させる気満々なのである。そして今度の盆に祖父母の家に帰省する際、絶対に何か面倒なことを言われるらしいのだ。そして両親は己を案じ、ある程度の覚悟をしておくこと、うまくかわすよう努めること、と電話で助言を与えてくれたのである。このことは一週間前にも言われたが、わざわざ再び教えてくれたあたり、祖父が何か盛り上がっているのかもしれない。

困った。そういった問題を笑って受け流せる心の強さを手に入れなければならないと頭ではわかっているものの、実際盆に帰省して笑顔でいられる自信は無い。下手をすると泣くかもしれない。泣いたらいっそ諦めてくれるだろうか。動揺される気はするが、懇々と説得されてしまうかもしれない。

以前ここにも書いたが、己の世界に同性はいない。もうちょっと正確に言うならば、同性と感じられる人間はいない。男も女も誰しもが異性で、双方種類は違うものの、どちらとも共有出来ないものを感覚的に抱いている。しかしだからと言って男も女も恋愛対象になるかと言うとそうではなく、どちらにも非常に鈍感な気持ちを抱いている。そのうえある種においての潔癖症。他人の性欲に巻き込まれることを己は非常に嫌悪する。

人間は流動的であるのでこの感覚もいつかは変化するかもしれないが、これが居座り続けている間は結婚なんぞは考えられない。また、これはなかなか明確化できず、これが何かを理解するまで長い時間を必要としたため、自分が自分に対して誤解を抱いていた時期を引き合いに出されると、今のそれと矛盾が生じ、整合性が合わないように見えてしまう。己は人間は流動的であって然るべきと考えているが、不変を信じている人間も世の中には少なくないのだ。

あぁ、全く何が悲しゅうて嫌な思いをしにわざわざ遠出をしなければならないのか。説明出来ない根幹を抱えながら思う。上手くスルーしなければ。


2011年8月7日 (日) 緑茶カウント:9杯
一人暮らしの良いところの一つは、柄にも無いことを始めたときに、周囲からやいのやいのと興味本位で口を出され、やる気を喪失してしまわない点にあるだろう。

実家で暮らしていた頃は料理はほとんどしなかった。幼稚園の頃米の研ぎ方を教えてもらい、それからはサラダの盛り付け、胡麻すり、野菜の皮むき程度の手伝いはしていたが、料理と呼べる代物は家庭科の調理実習か、キャンプでのカレー作りでしか行っていない。小学校高学年か中学の頃に柿を使って果物の皮むきの練習はしていたため包丁はそこそこ扱えるようになったが、料理を作った経験はほとんど無かった。

とはいえ他に料理を作ってくれる人がいない環境に置かれれば料理を覚えざるを得ない。惣菜とコンビニ弁当をあまり好まない人間が料理に手を出さなければ飢えて死んでしまうのだ。幸い、家を出る前に母が初心者向けの料理の本を持たせてくれた。米の研ぎ方から塩の振り方、食材の保存方法まで載っている大変便利な本だ。しばらく己はその本を開いて台所の近くにおき、何度も何度もページを確認しながら調理をすることを繰り返した。

そして現在、一人暮らしを始めて五、六年目。大仰な料理を作る場合は別として、ある程度は勘で作れるようになってきた。感覚的に何となく、何をどのようにするとどんな味になるのかわかってきたのである。だが、今でもその初心者向けの料理本は本棚の手に取りやすい位置に置いてある。料理中に開いていたためページのあちこちに濡れて乾いた跡があり、そのベコベコの跡を見ると当時の記憶が呼び覚まされる。そうだ、あの頃はほうれん草の茹で方もわからなかったんだ。デロデロにしてしまったほうれん草が懐かしい。お浸しにして食べたのだ。

また、一人暮らしの良い点は不味い料理を家人に食べさせなくて済むところにもあるだろう。成功しても失敗しても全て自分が食べれば良いのでプレッシャーも無く気楽にやれた。ベタベタのレタスチャーハンもしょっぱい目玉焼きも全部自分で食べたのだ。美味しくは無かったが、作っただけで一歩前進したような気がして楽しかった。今も料理はまあまあ楽しい。洗い物だけは嫌いだが。こればかりはまぁ、どうしようもない。いつかひとりでに食器が綺麗に片付く魔法を習得出来るようになるまでは地道に洗っていこうと思う。嫌だけど。


2011年8月8日 (月) 緑茶カウント:5杯
本日は、大学の、さーくるの友人と半年振りくらいに、酒を呑みながら語らい合いまして。中身のあることは特に喋りませんでしたが、ひたすら共に杯を重ねる時間が楽しくて。ビールを何杯も何杯もいただきまして。日本酒もちょこっといただきまして。途中二十分ほど共通の友人と電話をかけて喋りまして。帰宅後アイスを二本食べまして。本当に本当に楽しかったのでございます。


2011年8月9日 (火) 緑茶カウント:4杯
あなたは善意で腐った卵をもらったことがあるだろうか。

それは強烈な臭いだった。動物園の獣を密閉した容器の中で蒸したような、もしくは梅雨時のジメジメしたペットショップの中のようだった。どちらも実際に体験したことは無いが、鼻を突く獣の臭いが卵のパックから発せられていた。

夜の帰り道、己は八百屋に立ち寄った。比較的遅い時間まで店を開いているその八百屋の軒先にレタスが置かれているのを見た。百三十円、まぁ安い。思えばちょうどレタスを食べきったところである。自分はダンボールの前にしゃがみこみ、良さそうなレタスを選んでレジまでそれを持っていった。

「卵食べられる?」
「え?」

ビニール袋を広げながらレジのおっちゃんが問いを発した。その左手には卵が六つ入ったパックがあった。ついでに買って行かないか、という意味だろうかと考えていると、サービスだよと言っておっちゃんはビニールに卵とレタスを入れてくれた。袋に入れられる前に見えた卵のパックには半額の値札が貼られており、十一日までに食べてねとおっちゃんは忠告をしてくれた。つまり、消費期限の近い卵を、どうせ捨てるくらいならとサービスで寄越してくれたのである。

卵は冷蔵保存すれば案外持つものである。その経験則から、ちょっと古くなった卵をもらったところで特に気分を害することなく、得したなと思いつつ帰路についた。そう、そのときはまだ気付いていなかったのである。異常に気付いたのは家のドアーのポストを開いたときだ。

屋外から室内に入ったとたんに異臭が鼻を突いた。最初、近所の住人がペットが使い古した毛布を不法投棄したのだろうかと思った。まさか自分の腕に提げたビニール袋から異臭が発せられていたとは思わなかったのである。

玄関を開けて流石に気が付いた。臭いの発生源はこのビニール袋。レタスか卵かと言えば卵に違いない。思い切って袋の口に鼻を近づけるとそれは酷い獣臭。己はすぐさまレタスを取り出し、袋の口を縛って卵を閉じ込め、異臭が漏れ出さないようにしたが袋を二重にしても獣臭ははっきりと感ぜられる。五重にしたところで何とか落ち着き、ゴミ箱の底に叩き込んだ。

だが、まだ終わりではなかった。卵と同じ袋に入れられていたレタス、八百屋から我が家までたかだか五分もかからない道のりにも関わらず、しっかりと臭いは染み付き、とても食べられるものでは無くなってしまったのだ。葉を何枚か剥げば食べられるかもわからないが、そもそもそのレタスに対する食欲は失われてしまった。レタスは袋で二重に密閉し、もったいないがこれもゴミ箱に叩き込んだ。

この作業の間己は卵のパックには一度も触れなかった。レタスに触れただけである。しかし、レタスを触った指にも異臭は染み付いていた。二度もミューズで洗ったのに臭いが落ちない頑固さである。後程風呂に入ってしっかりと洗浄したことによって体についた臭いはとれたが、結局夕飯をとる気にもなれず、口の近くに指を持ってくることさえ不快で、その間たかだか二時間程度ではあったが、非常に気色の悪い落ち着かない時間を過ごした。腐った卵は硫黄のような臭いがするのかと思っていたが、あんな獣臭を発するとは。しばらくはペットショップにも動物園にも行きたくない。


2011年8月10日 (水) 緑茶カウント:4杯
二時間も常温で放置すれば冷凍うどんが解凍されるのも詮無きことだ。夜中、溶けたうどんを鍋に入れ簡単な夜食を作り、さっさと食べてシャワーを浴び、二時間も喋ったのか、と改めて時計を確認して緑茶を飲んだ。

鍋に水を入れ、コンロに火をつけ、玉ねぎの皮を剥き始めたときに電話がかかってきたのである。電話の主は大学の友人で、メールでのやりとりはしていたものの電話は久し振りであった。己はすぐさま火を止め、料理を中断して友人と挨拶を交わし、そのまま二時間話を聴きつつ相槌を打ったり、突っ込みを入れたり、床に寝そべって非実在自転車を漕いだりしていたら、冷凍庫から出していたうどんのことをすっかり忘れてしまった。放置されたうどんは普段よりもやわらかく、あまり美味しくは無かった。

電話ではほぼ聞き手だった。この友人がこんなに心情を吐露することなど今まであっただろうか、無くも無かったかな、しかしこんな話を聴くのは初めてだな、と思いつつ仰向けになって足をグルグル動かしていた。思ったよりも元気そうだったが、思ったよりもしんどそうだった。深い霧が幾重にも重なって友人を囲んでいるらしい。うち、一つでも晴れれば何かが変わるかもしれないが、なかなかきっかけが見つからないそうだ。

だが、ちょっと前向きになっているらしいので、きっとどうにかなると思う。いや、どうにかなると良いなと願っている。どうかどうにかなりますように。


2011年8月11日 (木) 緑茶カウント:6杯
明日からしばらく外出をするので日記の更新が出来なくなると思う。ちょっと小言を言われに行くのだ。嫌なことを言われるとわかりつつも高い旅費を払ってはるばる出かけてくるのだ。一番最初に生まれた者の義務なのだ。

いっそ行かなけりゃあ安楽に過ごせると思うが、そうもいかないのが難しい。しかしいろいろ理由があるとはいえ、妹は中学卒業以来、祖父の葬式に一度出席したきりで、それ以外では全く顔を出していないのが憎たらしいやら羨ましいやら。とはいえ己も必要以上に縛り付けられる気は無いので、何とかやり過ごすのである。結婚なんぞしてたまるものか。流される気なんど全く無い。絶対にやり過ごしてやるのである。


2011年8月16日 (金) 緑茶カウント:2杯
帰宅。非常に疲れたのでとりあえず眠る。人生とは難しいものだ。


ウェブ拍手レス
(8月12日2時の方へ)メッセージありがとうございます。
お気遣いを頂きまして感謝です。思ったよりはしんどくなかったですが、やはり疲労はしてしまいました。さらには新たな心配事も増えたりして。なかなか一筋縄ではいかないものです。


2011年8月17日 (水) 緑茶カウント:5杯
期待に添いたいとは思わないが、期待に添えないことに関しては後ろめたさを感じてしまう。だが、どうして自分は祖父母の思うようになれなかったのだろうとは思わない。道を間違えたとも思わない。自分のことを好きか嫌いかと問われれば迷うことなく好きだと答える。これらは全て矛盾しない。

この内心に渦巻くドロドロとした不愉快を効率的に処理する術を己は持たない。だんだんと渦が水面に溶けて穏やかになるのを待つだけだ。気分を転換しようと突発的に人間椅子のライブを観に行きもしたが、ステージに立ち込めるスモークのようにモヤモヤとした不快は消え去らず、気持ちの良い爆音を心から楽しむことが出来なかった。それでも、ライブの終わりには一時夢心地を味わうことが出来た。高揚の中で気持ち良くライブハウスを出ることが出来た。

せっかくの初ライブだったのだから、もっとコンディションの良い状態のときに行けば良かったと正直思う。勿体無いことをしたとも思う。しかしあの時あのライブに行かなければ己はもっと沈んでいただろう。あのタイミングでライブを観たのは正解であり不正解だった。

祖父母の家に帰省して、一番の心配事は結婚をしろと口出しをされることであったが、裏で母と叔母が祖父に口を酸っぱくして「ウヲに結婚の話はするな」と言ってくれていたらしく、さらには従兄弟も己のサポートに回ってくれていたため、拍子抜けするほど何も言われなかった。それに関しては安心したが、その他のことについてあれこれと、嫌だな、と思うことを言われた。一度は怒った。そして思わず、五年後、十年後を思ってため息をついてしまったのだった。

まだしばらくこの渦は消え去らないだろう。厄介だが、なるべく忘れるよう努める。休日にはライブ会場で買った人間椅子の新譜を聴こう。MCで聴いた「胡蝶蘭」のエピソードがあんまり素敵だったから、どうしてもじっくり歌詞を見ながら聴きたかったのだ。この楽しみのために頑張るのだ。忘れよう。


2011年8月18日 (木) 緑茶カウント:5杯
立ち込めていた霧が見事に晴れた。高校の頃大好きだった漫画、Mr.FULLSWINGが文庫化する報せを受けたのである。すると驚いた。ミスフルを楽しみに読んでいた頃の思い出が洪水のように溢れ出て、好きだったキャラクター、エピソード、土曜日に自転車を飛ばして早売りシャンプを買いに入ったときの期待感、わくわくとした喜びと高揚感で胸の中がいっぱいになり、幸福感に包まれてしまったのである。

まさか今になってミスフルに助けられるとは思わなかった。連載中はいろいろなサイトで叩かれ、つまらない、くだらない、不愉快だと批判されていた。しかしそんなことは自分にとっては問題ではなく、変わることなく大好きだった。高校の頃一番好きな漫画だった。

文庫は十月から発売されるらしい。単行本は全巻持っているが、もちろん文庫も買い揃えよう。十月を楽しみに待とう。待つ喜びが出来て嬉しい。


2011年8月19日 (金) 緑茶カウント:6杯
自分の中に一つのブームが訪れて、熱に浮かされたかのように夢中になる時期があるが、やがてそれもいつかは落ち着く。飽きて見向きもしなくなる場合もあれば、自分の一部として体内に取り込まれ穏やかに一生を共にすることもある。対象により今後の付き合い方は変化するが、いつまでも最高潮の熱狂が持続することがないのは確かだ。

しかし、熱狂していた頃に得た興奮や感動、喜びや幸福が無かったことになることは無い。それらは確かに過去の自分が得たもので、今の自分を作る素材の一つとなっている。そしてふとあるときに、忘れた頃になって自分を助けてくれるのだ。それを昨日、体感した。

幼少から今に至るまで、己はたくさんの好きなものに出会った。きっとこれからも新たな出会いがあることと思う。その好きなものへの執着と愛情と「はまる」性質さえ持っていれば、例え深く沈んでもきっと乗り越えられるだろう。オタクである限り何とかなる。晴れた景色を見て思った。


2011年8月20日 (土) 緑茶カウント:6杯
シルバーのペンダントを手入れすることが週末の密かな楽しみになっている。ペンダントは最近手に入れたもので数は二つ、どちらもチェーンを首にかけるものだ。季節柄汗をよくかくので、一日身につけると銀のチェーンが汗でコーティングされてしまい、白く濁った色になる。平日は湿らせたティッシュで軽く拭い、乾いたティッシュで水気を拭き取るだけだが、週末はこれに銀磨きの布による手入れが加わる。

ティッシュで汗を拭き取った後、力を入れすぎないよう気をつけながら鎖の輪の形を確かめるように布で磨く。そして磨き終わるとまた新しいティッシュで軽く拭く。紙と布が計四度チェーンの上を一巡する。手間がかかるが愛おしい。

手入れの回数を重ねるほど、それが自分に近しい存在になっていく錯覚を得る。だんだんとよそで購入したアクセサリーが、体の一部に変化していくように感じられる。あるとき大学の友人が、ウヲの名前を聞くとイヤーカフスを連想すると口にした。いつも左の耳にイヤーカフスをつけていたことが印象的だったらしい。

この二つのペンダントもイヤーカフスのように育っていって欲しいと思う。そのために己は愛を持って磨くのだ。いつまでもつけていられるように。いつか自分の一部になってくれることを期待して。


2011年8月21日 (日) 緑茶カウント:4杯
買って数ヶ月しか経ってないが、一人暮らしだが、独身だが、もしかしたら現在使用している冷蔵庫は少し小さいかもしれない。

とはいえ買い直した冷蔵庫は、ほんの少しではあるが以前の冷蔵庫よりも容量が増えた。それでも足りなく感じるのは週末に野菜を大量に買い込むからだ。そして買いに買った野菜を冷蔵庫に詰め込むと冷蔵庫の中がパンパンになり、空気の循環が妨げられ、冷蔵庫内部の温度が上がってしまうのである。

それに野菜だけではない。週末に米を炊き、ラップにくるみ、一週間分の御飯を冷凍室に放り込むのである。さらに肉も六つのパックに分けて冷凍庫に詰め込むのである。そのうえ冷凍うどんも入れていて、少量ではあるがアイスも突っ込んでいるのである。

故に週末の冷蔵庫はパンパンのギチギチになる。冷蔵室だけを見ても、明らかに容量が足りていない。一人暮らしであるにも関わらず一人暮らし用の冷蔵庫では追いついていない現状、いったい如何にするべきか。一つは週末に買い込むのを止めて水曜か木曜に食材を買い足すよう調整する法があるが、それをうっかり忘れてしまうから己は週末にまとめ買いをするのだ。たまに朝、食べるものが冷蔵庫に無くてしょんぼりすることがある。緑茶は好きだが緑茶しか無いのは非常に寂しい。

だが、冷蔵庫を買い換える予定は無いのでしばらくはうまく調整するに他に無い。とりあえず明日はきゅうりの消費を進めようと思う。あと肉も。


2011年8月22日 (月) 緑茶カウント:6杯
アマチュア写真展を観に行った。誰でも出展できるためか、「作品」を意識して撮られた写真と、「何か上手く撮れたからせっかくだし出しちゃおうぜ」な写真と、「うちの子とうちの孫の可愛い写真をお披露目しようそうしよう」な写真が混在しており、その比率は3:5:2ほどであった。そして自分は二割の写真に映る愛くるしい子供達の写真から、四十年後五十年後の姿を想像して脳内でそれらしく歳を重ねさせる遊びを楽しんだ。この子供は絶対こんなおっさんになる。この娘は絶対あんなおばさんになる。一目で中年の姿が想像できる顔もあれば、歳を取らせるのがなかなか難しい顔もあって非常に面白かった。皆さんにも是非おすすめしたい。


2011年8月23日 (火) 緑茶カウント:6杯
最近とみに肉体の老化を意識せざるを得なくなってきて若干焦っている。水着も水泳帽もゴーグルも持っていないがプールに行きたい。そうでなくても十年近くまともに泳いでいないのでそろそろ泳ぎに出かけたい。一つ、ド近眼がプールに行っても大丈夫なのかという問題があるが、それでもとにかく泳ぎたい。夏が終わる前に水着売り場を物色してみようか。


2011年8月25日 (木) 緑茶カウント:4杯
どんなに酔っ払っても明日のために緑茶の準備を忘れない自分は偉いが、床の上で大の字で寝て朝の四時に目覚め、慌ててシャワーを浴び、着替えて寝直すのは、起きただけマシと捉えるべきか。

うっかり呑みすぎてしまったのである。うっかりである。


2011年8月26日 (金) 緑茶カウント:4杯
三宅乱丈の「イムリ」十巻と、武井宏之の「機巧童子ULTIMO」の一巻から最新刊までを購入し、楽しく読みふけったのだが、どちらも野郎が野郎に一方的な愛憎をぶつけながら敵対する話だった。この被りはいったい何だろう。

「ULTIMO」のルネは同性愛者と捉えるべきか性同一性障害者と捉えるべきか迷うところだ。前世は女性で主人公と愛し合っていたが、男に転生させられて、現世でも主人公を好いている。彼の性自認は男性のようだからどちらかというと同性愛者なのだろうか。それともどちらでもないカテゴリか。そこが主題では無いのだが、婉曲的な性の描写がありつつも、作中の性自体は曖昧な描かれ方をしていて面白い。こういうある種の「何でもあり」が自然と描かれる世界観は結構好きだ。心地良さを感じるのである。

無論、それとは別にして、物語、台詞回し、キャラクターも好みである。ユンボルと一緒に買い続けよう。


2011年8月27日 (土) 緑茶カウント:8杯
正直に言おう。悩んでいるので力が出ない。近くて五年後、遠くて十年後に立ちはだかる難題を前に妹と共に胸を痛めている。本日、妹と一時間半話したが、今までの人生で妹とこんなに長時間会話をしたことはなかったと思う。決して仲が悪いわけでは無いのだが、昔から我々の間にはあまり会話は無いのである。同じ部屋にいても互いに無言。メールや電話のやり取りも無いに等しい。その我らが一時間半も話し続けたのである。頭を悩ませながら。

今のところこの難題を解決する術を我々は持たない。ゼロでは無いが実行するには制約は多い。だからこその難題だ。これこそが難題だ。全く持って忌々しい。

何か良い案は無いものかと天井を見上げつつ今はため息を吐くばかり。あぁ、忌々しい。忌々しい。


2011年8月28日 (日) 緑茶カウント:7杯
緑茶が不味い。頂き物にこんなことを言うのも罰当たりだが、この緑茶は美味しくない。ティーバッグ状になっていて、注ぐだけで水出しの緑茶を作れる優れものだが、不味い。色は良く出るが美味しくない。色も味も水を注いだ直後に出るが美味しくない。時間がかかるが、紙のパックに普段使いの茶葉を入れ、適温の湯を注ぎ、ゆっくりと色が出るのを見計らって氷を入れて冷ました緑茶の方がずっと美味しい。この作り方なら透き通った甘い味がする。今飲んでいるこれは濁った粉の味がする。

それでも己は飲み続ける。早く無くならないものか、と思いつつ飲み続ける。美味しい緑茶が飲みたい。


2011年8月29日 (月) 緑茶カウント:6杯
最近よく漫画を買う。本棚がいっぱいになったこともあって、このところは以前よりも買う量が減ったのだが、ここ数日はよく買っている。今日は西原理恵子の「毎日かあさん」七巻と八巻を買って、夕食後にだらだら読んだ。面白かった。読み終わると日付が変わっていた。

気力が湧かない。心が消耗している。もともと表情の無い顔がより無表情になる。物欲が湧き起こる。何か高価なもの、素敵なものを買ったら心が満たされるだろうか。でも、今一番死守したいものは手放さなければならなくなってしまうかもしれないのだ。結局のところは。

しんどいものだ。


2011年8月30日 (火) 緑茶カウント:7杯
一人になると渦の中に落ちてしまう。面倒くさいが長引きそうだ。


2011年8月31日 (水) 緑茶カウント:6杯
メモ帳を開いたままぼーっとするだけで時間が過ぎていくのは流石にもったいない。ただでさえ夜眠れないため、昼の活動が辛いのだ。日記らしい日記が書けないでいるが、こんな時期もあるだろう。とりあえずは睡眠だ。

沈むきっかけさえなければ浮上出来そうだが、近々不穏がやってくることも承知している。浮かんで、沈んで、浮かんで、沈んで。まぁ、最終的に浮かんでいられればそれで良いのだ。過程を経るのは面倒くさいが何とかなる。まずは横になろう。おやすみ。




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