7月      

2011年7月1日 (金) 緑茶カウント:0杯
酒を呑んでうとうとしている。量自体はさほどでもないが、疲労がたまっていたのである。とても体が疲れていた。だが、金曜の夜を味わいたかったので、酒を呑みながら買って来たばかりの漫画を読んでゆったりした時間を過ごした。

二缶と三冊を消化したので、歯を磨いて後に泥のように眠ろうと思う。おやすみなさい全人類。


2011年7月2日 (土) 緑茶カウント:0杯
水戸華之介のアコースティックライブ【ウタノコリ 〜 入道雲まで歩こうと思う】に行ってきた。久々の水戸さんのライブである。この間発売された3-10Chainの新譜の曲はまだライブで聴いていないし、昔の曲にしたって未聴のものはいくつもある。今日は何が聴けるだろうかとわくわくしながらライブハウスへ出発した。

このライブハウスは去年の十月にも一度水戸華之介&3-10Chainのライブを観るために来たことがある。が、今回は前回よりも段取りが悪かったと思う。当日券がいつ販売されるのかわかりづらく、また、中に入るとステージ前に並べられた椅子がやけに少なかった。後ろの方にも椅子はあるにはあるが、ステージ前のスペースはまだ余裕があり、人の数から考えるともう少し並べた方が良さそうに思えた。すると案の定、立ち見客が増えたことを見かねてか中途で椅子が補充されたのだが、結果、最初に入った人は椅子に座れず立ち見となり、もっと後に入った人が途中で補充された椅子にタイミング良く座れるという、まあまあの番号だった人達がちょっと可哀想なことになるという事態が起こっていた。

ちなみに己はステージ手前に並べられた椅子の脇のテーブルに陣取り、ジントニックを呑みつつ立ち見をしていたのだが、それは「皆が座っているならここで立って観た方が視界が良好なのではあるまいか?」という計算のもとであった。そして予測どおりに視界は良好、近距離で何にも邪魔されずステージ上を眺めることが出来てとても嬉しかった。

ライブは十分ほど押して開演し、二時間半ほどで終了した。驚きのトリプルアンコール! 鳴り止まない拍手に応えて現れた水戸さんは、オーディエンスの興奮を消化させるべく、アコースティックにも関わらずスタンディングを決行! 「でくぼのう」で飛び跳ね拳を振り上げて大いに騒ぎまくり、それでも四度目のアンコールの拍手が鳴り響いたが、流石に四度目は無く、しかし客もそれはわかっていて、終演のSEが流されると大人しく引き下がったのだった。

そんな大興奮で終了したライブだが、楽しすぎたせいかセットリストをすっかり忘却してしまった。一応覚えている曲は書き留めるが順番は最初と最後以外は信用ならない。驚くほど記憶がすっとんでしまっているのだ。


100万$よりもっとの夜景
あかいかんな(?)
奈々
Dのズンドコ節
飛蝗〜バッタ
そこで何かが
機関車ロック
地図
ゆきてかえらず
明日への誓い(ブルース調)
(手帳を見ながら、人々の名前と現在の境遇を読み上げる曲)
赤だから
素晴らしい僕ら
ミミズ
マグマの人よ

〜アンコール〜
ふたりは
天井裏から愛をこめて

〜ダブルアンコール〜
偶然にも明るい方へ

〜トリプルアンコール〜
機関車ロック(ちょっとだけ)
でくのぼう(スタンディング)


最初が100万$、本編ラストがマグマの人よ、アンコール以降の順番しか覚えていない。途中一、二曲抜けているような気もする。うーむ、思い出せなくて残念だ。

今回聴けて嬉しかったのは「奈々」「Dのズンドコ節」「飛蝗〜バッタ」、グッと来たのは「そこで何かが」「ゆきてかえらず」「素晴らしい僕ら」「マグマの人よ」「偶然にも明るい方へ」。心臓を鷲掴みにされるような、歌詞の一つが胸に突き刺さるようなたまらないものを感じた。この五曲は、困難の中にありながら何とか前進し希望を掴もうとする曲である。ただ一曲を除いては。この異なる一曲に己は強く共感して引きつけられたからこそ、前向きな四曲が響いたのだと思う。前向きにならなければと響いたのだと思う。

「奈々」は最近の気に入りの曲なので単純に嬉しかった。客の盛り上げ方が凝っていて、「なーななーななななーなー♪」に合わせて手を振らせるのだが、最初に右手を振らせ、次に左手を振らせ、右手と左手は喧嘩をしているの? と言って両手を振らせ、最後に頭上で大きく両手を振らせるという四段階の演出があった。アコースティックなので手を振ったり拳を振ったりしても良いものかと悩んでいたところだったので、この水戸さんによる振りという名の指示は有難かった。以降、同じように安心したのかは不明だが、手を振ったり上げたりの動作があちらこちらで見られるようになった。

「Dのズンドコ節」は未聴の人が多かった印象。一番ノリが良いのはアンジー曲なのだが、他の水戸さんのソロ曲、3-10曲と比べても反応が鈍いように見受けられた。新曲であると前置きをしないで始められたので何の曲だかわからず戸惑いもあったのかもしれない。ノリの良い曲なだけに、全体でノれなかったのは若干もったいなく感じられた。「飛蝗〜バッタ」の方は曲に入る前に「新曲です」とタイトル紹介があった。

「地図」では珍しく水戸さんが少し歌詞を間違えていた。あと、地図では無かったが、どこかで入りを間違えた曲があり、お客がわーわーと喜んでいた。無論自分も喜んだ。レアなものが見られて嬉しい。

「ブルースを」と始められた「明日への誓い」は大幅にアレンジが加えられていて、面白かったが乗りづらかった。原曲が耳に馴染んでいるだけに体がついていかないのである。

そうそう、今日初めて「赤だから」を聴いて、これはアルバムを買わねばなるまいな、と思ったのだが、通販では品切れ状態になっていた不死鳥第一弾のDVDが物販で販売されていて、思わずそちらを買ってしまったので今回は手に入れられなかったのだ。勿論買い物に後悔は無く満足しているが、血潮の方もいつか、なるべく近いうちに手に入れたいものだ。CDできちんと聴きたいなぁ。

「ミミズ」は原曲ではイントロの低音をベースで奏でるのだが、今回はアコースティックなのでベースの代わりにキーボード。これはこれでとても格好良かった! ベースが「ベーンベーンベーンベーン」なら、キーボードは「ドゴーンゴーンゴーンゴーン」という感じだった。

アンコール一曲目の「ふたりは」では水戸さんがステージを降りて恒例の客いじり。客席を通って奥へと歩く道すがら、お客の手をとったり、手を握ったり、手に頬ずりをしたり、しまいには最前の男性の膝に乗って頭をぐるんぐるん撫で繰り回し、男性もそれに応えて水戸さんを抱きしめたりとすごいことになっていた。己も軽くいじられてみたい。

ダブルアンコールの「偶然にも明るい方へ」でミラーボールが回転し、星空が踊る会場の中で声を合わせて「らららーららー」と歌い、まさに最高潮、大団円、感動的な締めくくりと言うにふさわしい塩梅で、普段なら終了後は満足して席を立ちそうなものだが、「今年博多に来るのは今日が最初で最後かもしれない」という水戸さんのMCがあったせいか、まだまだと言わんばかりにトリプルアンコールの拍手が巻き起こったのであった。

そう。いつもなら年に二回ほどツアーで回ってくるそうなのだが、二回目のツアーのスケジュールを決めるのが震災のあたりと重なっていたことで調整がうまくいかなくなり、今後の予定は完全に未定となってしまったのだそうである。今、夏以降の水戸さんのスケジュール帳には親戚の子の結婚式しか記入されていないらしい。

最初のMCでも震災に触れていた。今回のセットリストはいくらか311を意識したものになったとのことだ。「ボランティアじゃねーぞと言うのもね、ボランティアで歌ったしね」と水戸さんは笑い、今だからこそ、と思って入れた曲もありますと話してくれた。

終演後には物販購入者を対象にサイン会があったのだが、慌てふためいてしまったために大したことも言えずに終わってしまった。短い時間で思いを伝えるのは難しい。夕飯にはケンタッキーを買い、肉をむしゃむしゃ喰らって発泡酒を呑んだ。DVDは明日以降折を見て開いてみようと思う。


2011年7月3日 (日) 緑茶カウント:0杯
床で寝ていたらパペットマペットの夢を見た。この際、何故床で寝ていたかについては流していただきたい。少なくとも後手に縛られて目隠しをされて猿轡を噛まされて灯油をかけられて転がされていたわけではない。単にフローリングの冷たさが心地良かっただけだ、って、言っちゃった。とにかくパペットマペットの夢を見たのである。

己はパペットマペットのファンである。昔彼らが頻繁にテレビに出ていた頃は必死で録画をしまくって、パペットマペット専用ビデオを作っていた。ソロライブにも一度行ったことがある。DVDも持っている。今は露出事態が少ないのでなかなかお目にかかれないし、こちらも能動的に情報をとりに行ってはいないが、たまに彼らを夢で見かけることがある。大抵、新しい芸風を見つけて大ヒット! という内容で、そんな新生パペットマペットの姿をテレビで眺めつつ、「またヒットして良かったなぁ」と思いながらも一抹の寂しさを感じてしんみりしているのだ。

今度の夢でもパペットマペットは変化を遂げていた。うしくんとかえるくんが木彫りの人形になっていて、覆面の首から下もゴツイ木造になっていた。「暑そうだけど、ああ見えて木の方がかえって涼しいのかもしれないな、森林浴とかあるし」とわけのわからない論理で己は彼らの姿に納得していた。目が覚めたら夜になっていた。


2011年7月4日 (月) 緑茶カウント:0杯
少なくとも後手に縛られて目隠しをされて猿轡を噛まされて灯油をかけられて転がされていたわけではない、と昨日の日記で書いたが、後手に縛られて目隠しをされて猿轡を噛まされて灯油をかけられて転がされている状態で寝るのはいかがなものかと今になって思う。もっと危機感を抱いて欲しい。それとも危機感を抱いたものの早々に諦めて眠ってしまったのだろうか。それにしても灯油の臭いが不快そうなものだが。まぁそもそも冗談の話であるのだが。

というより灯油も問題であるが猿轡を噛まされていたらだいぶ口が痛くてだるいのでは無かろうか。いくら目隠しをされて視界が閉ざされて睡眠にもってこいの視覚状態であろうとも、口に痛みとだるさを感じていてはなかなか快適な睡眠は得られないのでは無かろうか。猿轡の形状によっては涎が垂れてそれが顎や首を伝って気色が悪いかもしれない。ますますもって寝られない。まぁそもそも空想の話であるのだが。

気色が悪いと言えば灯油で服が肌にべったりと張り付いたらこれも不愉快であるに違いない。睡眠の導入を妨げる要因になるだろう。縛られた両腕にしたって縄の縛り方によっては手首が痛いし、自然な体勢をとれずに首や腰を痛めてしまうかもしれない。灯油は臭いわ口は痛くてだるいわ服は肌に張り付くわ手首は痛いわで最悪のコンディションである。しかも擦ったマッチを投げられたら一瞬にしてキャンプファイヤーもびっくりな有様である。生命の危機も甚だしい。どう考えても寝られるわけがない。まぁそもそも妄想の話であるのだが。

では、両腕が自由で眼鏡を外して呼吸を整えてタオルケットを腹にかけてベッドに転がって、己は快適な眠りに就こう。おやすみなさい。


2011年7月5日 (火) 緑茶カウント:0杯
こんな幸せがあるだろうか、と思うほど気持ちが良かった。ぬるめのお湯に肩まで浸かって何も考えずちゃぷちゃぷ揺れる。この一週間ほど、忙しい日々が続いていたため入浴はせずにシャワーで済ませていたのだが、やはりシャワーでは疲れはとれない。シャワーは作業であり、入浴は休息だ。一日の疲れが湯に溶け出していくように感じる。

なるべく入浴の時間は読書に充てるようにしているが、脳を使わず、思考も疲労も溶かしてしまうに限る。体が火照らず、肌寒さを感じない絶妙な温度は、湯と肌が一体化していくような、境界が無くなっていくような錯覚を与えてくれる。湯船の中に液体となってたゆたっているようだ。体重を感じない解放感。快楽である。

そうして風呂から上がると心地良い眠気が襲ってきて、朝もすっきり起きられる。風呂は偉大である。やはり忙しくてもなるべく入浴を心がけるべきだと実感した。心がけよう、明日もきっと忙しい。


2011年7月6日 (水) 緑茶カウント:0杯
三日連続でカレーうどんを食べている。一日目に食べたら満足し、二日目も食べたくなり、三日目はもう良かろうと思ったのだが昼にカレー以外のものを食べたらまた食べたくなり、素直に拵えてズルズル食べた。三夜連続カレーうどん。しかしまだまだ行ける気がする。

今気に入っている食べ方は、玉ねぎとトマトを煮込み、醤油と化学調味料で味付けをし、キャベツを入れ、冷凍うどんを入れ、カレールウを入れて煮込み、丼によそったら溶けるチーズと刻みネギをたっぷり載せる。元よりトマトとチーズの組み合わせは最強と信じて疑わないが、カレーうどんにもこれは適用される。トマトの酸味とチーズのまろやかさがカレーの美味さを引き立てるのだ。たまらない美味さである。

よって明日の夜も恐らくカレーうどんを食べるだろう。帰り道に冷凍うどんを買うのを忘れさえしなければ。忘れぬようにしなければ。


2011年7月7日 (木) 緑茶カウント:3杯
忘れず、帰り道に冷凍うどんを買うことに成功したが、流石にカレーうどんには飽きたので今日は味噌キムチうどんを食べた。四夜連続でうどんを摂取。うどんは良い。うどんは好きだ。ツルツルしてるしシコシコしてるし、鍋に入れて菜箸でコツコツやってぐるぐるすればすぐ食える。基本しょっぱいものになら何にでも調和する便利さ。この素晴らしき協調性。まぁ今家に米が無いだけだけど。炊飯器はあるのだけど。買うのが面倒くさいだけなのだけれど。明日も多分うどんだな。


2011年7月8日 (金) 緑茶カウント:0杯
結局五夜連続でうどんを食べてしまった。カレーうどん、カレーうどん、カレーうどん、味噌キムチうどん、焼きうどん。脅威のうどん率。うどん100%。いくらなんでも食べすぎである。

しかしまだ一袋残っている。六夜連続なるか。なりそうだ。


2011年7月9日 (土) 緑茶カウント:0杯
山積みのキャベツ玉を見た。八百屋の店頭からおよそ一メートル離れた位置、違法に駐輪されたと見られる自転車の脇にそれはあった。周囲に他の野菜は無い。何故ならその他の野菜、レタス、トマト、ゴーヤ、きゅうり、ナス、長ネギなどなどは、皆「軒先」に固めて置かれているのである。キャベツだけが軒の影に隠れることなく太陽光をガンガンに浴びる位置に置いてあり、ダンボールに入れられたそれはダンボール本体の高さを越えるほど。結構な量が自転車の脇に置かれていた。

その不思議なキャベツを目の前に、じっと立ち止まって己は眺めていたわけではない。野菜を買おうと八百屋に赴く道の途中、視界の奥に目当ての八百屋を捉えたとき、不自然な位置にある山盛りのキャベツ玉も見つけたのだ。八百屋を目指して歩いているわけだからキャベツ玉との距離はだんだん縮まっていく。距離を縮めながら、あれだけが何故そこに置かれているのだろうと己は頭上に疑問符を浮かべ、その八百屋に関して過去に似たような事例が無かったか記憶の糸を手繰りつつ、何も思い当たるものを引っ張り出せないまま歩いていたら、キャベツが詰まれた段ボール箱の前に一枚の札が立てかけられているのを見た。

そして己は横目でそれを眺めつつ、「あぁ」と意味を理解し、理解をしつつも納得出来ず、うっかり八百屋を通り過ぎてもっと先まで歩いてしまったので、野菜を買うことは出来なかった。

札には赤のマジックで、でかでかと「中国産につき無料」と書かれていた。己は理解した。無料だから他のものと分けておいてあることを。しかし不自然さを感じずにはいられなかった。まるで厄介払いである。腐りかけた果物でさえ半値の半値で売っているのに、中国産であるだけで無料。わざわざ仕入れて無料。数軒先にある中国産オンリーの激安八百屋はいつもまあまあ繁盛していて、中国産といえども買い手の需要はありそうであるのに無料である。しかも無料であるにも関わらず、買い物客は無料のキャベツ玉には目もくれず、軒先に置かれていた有料のキャベツ玉や他の野菜を手に取っていた。

それは「無料の中国産キャベツが他の野菜と分けた位置に置かれ山積みに放置されている」という、数々の要素が複合された故に怪しさが爆発し、客も警戒しているのであろうと考えるが、わからないのは店側の意図である。間違えて仕入れてしまったのだろうか。仕入れたものの全く売れず、困り果てた上での処置だろうか。気になって気になって気になって気になって己はどんどん歩いてしまった。あんなに怪しいキャベツは見たことが無かった。それは少し、面白かった。


2011年7月10日 (日) 緑茶カウント:3杯
七日連続でうどんを食べたことは置いといて、久方ぶりにカラオケに行ってきた。一人で。好き放題に好きな曲を入れて、歌えなかったら途中で止めて、気に入っている曲は数回歌ってと、誰に気兼ねすることなく楽しんでストレスを発散した。

今回カラオケに向かった動機は、一つは好きな曲が追加されたことだが、もう一つはストレスの発散をしたいがためだった。ここ数日、少々嫌な気分になっていて、不快を反芻しては落ち込んでいた。マジョリティの普通を押し付けてくる人がいるのである。それに心底参っていた。

肉が苦手で食べられない友人が二人いる。一人は不便を理由に食べられるようになろうと努力をしているが、脂っぽさが気持ち悪くどうしても好きにはなれないそうだ。体が受け付けないのである。カレーが苦手な友人がいる。子供の好物として学校行事でも頻繁に出されるその料理に、毎度毎度苦労していたらしい。肉が食べられない友人も、カレーが食べられない友人も、「皆大好きだから美味しいよ、美味しいに決まっているよ」と薦められてもそれを美味しいと感じることは出来ない。どんなに世の中で人気のあるものでも、誰もがそれを好きなわけではない。

それを理解してくれない人が身近にいて困っている。「何で嫌いか」と問われたところで、「どうして全員が支持すると思うのか」と質問を返すことしか出来ない。己は言葉を失くしてしまう。


2011年7月11日 (月) 緑茶カウント:3杯
本をいくつか買った。時間を作って読もうと思う。一つは始まりから惹きつけられ、一つは読み進むに連れて読みたくなくなり、一つは読みたい気持ちと読みたくない思いがせめぎ合い、一つは全く読みたくない。まず一つ。それから一つ。あっちへ行ったりこっちへ逃げたりしながら読もうと思う。どれも己に必要な本だから。


2011年7月12日 (火) 緑茶カウント:3杯
「申し訳ございませーん。こちらのジェルは今大変人気のある商品でして、ウヲさんにも是非お試しいただきたかったんですけど、ちょうど売り切れてしまいまして…。本当に申し訳ございません。次回いらっしゃったときにはご用意できると思いますので、楽しみにしててくださいね!」

と、言われたところで己はそのジェルに全く興味が無く、欲しいとも思わないので心底どうでも良いのだが、鏡に映る美容師は笑顔でしきりに謝り倒し、売り切れの商品を褒め称えている。

数ヶ月前まで通っていた美容院は意思の疎通云々の問題では無く、単に腕が大変拙いだけであると気付いたので、己の努力でどうにかなるものではないと理解して別の美容院に切り替えた。新しく通い始めた美容院は腕が良く、意思の疎通もやりやすく、無理に喋る必要も無く、担当の女性の声がはるな愛に似ている点が大変好ましく、気に入っていはいるのだが、オリジナル商品や各種サービスの営業が激しく、それだけが唯一の難である。

そもそも現在使用しているジェルに不満は無い。他の商品に変える気も無い。ジェルに二千円払う気も無い。興味を示してさえいない。ただ、普段ジェルを使用しているという情報だけで、絶対気に入ってくれるに違いないと思い込んでいるジェルをはるな愛の声で薦めてくるのである。前段に新しいものを試してみたいかという問いも存在しないのだ。

流されて買うようなことこそ無いとは思うが、鬱陶しいことは確かである。これさえ無ければ満足なのであるが。いっそ己が行くたびに売り切れていれば面白い。そんな愉快を期待しよう。


2011年7月13日 (水) 緑茶カウント:4杯
風呂上り。髪をタオルでかき混ぜながら、冷蔵庫にビールが一本あったことを思い出し、ビールを呑む気満々になった直後、いや、体温上がると寝苦しくなるからやはり止めよう、とビールへの意欲が一気にそがれてしまうほどの蒸し暑さ。己の体温が呪わしい。背中の熱で温められた布団に不快を感じる程である。

風呂上りのビールは格別だ。しかし上昇した体温に苦しめられるのは最悪だ。渇いた咽喉を軽快な苦味と炭酸が駆け下りるのは至福だ。しかし体温の移った布団から逃れようと深夜に何度も寝返りを打つのは不快だ。腹にじんわりと灯が点る感覚は心地良い。しかし睡眠不足でくらくらする頭を抱えながらイライラと立ち上がるのは耐え難い。朝から不調に悩みたくは無い。

よって代わりに冷たい緑茶をいただいた。スッキリとした苦味とほのかな甘さが咽喉を潤す。気持ちよく眠れるような気がした。


2011年7月14日 (木) 緑茶カウント:4杯
夕飯をサラダだけで済ませたら深夜になって腹が減って仕方が無いので緑茶を飲んで誤魔化している。やはりデンプンと蛋白質は必要だった。知っていた。知っていたが省略した。何故なら面倒だったから。

明日こそはちゃんと食べよう。野菜以外の食べ物も。


2011年7月15日 (金) 緑茶カウント:4杯
月に一、二度通っているドラッグストアーの店員が非常に優しくフレンドリーで、好きになってしまいそうだ。今までに何度か商品に関する質問をしたことがあるのだが、どの店員も親身になって話を聞いてくれて、たくさんの有難いアドバイスをくださり、己が困っているとわかれば、この世にあるかわからない商品を自分のために探してくると約束してくれるのである。

今日、己は所有のあるものにピッタリなサイズのあるものを探していて、それに近いと思われるものを店内で発見した。だが、本当にピッタリかわからない。そこで家から持参した「あるもの」を鞄から取り出して商品と比べてみても良いか、とちょうど近くにいた店員に尋ねてみた。その人は今回初めて話しかけた人だが、やはりこの人も親切で、比較対象物を鞄から取り出すことを許してくれるだけでなく、商品のサイズが合わないとわかると他のサイズのものを探しに回るのを手伝ってくれたのである。

そこに以前お世話になった別の店員も加わって、事情を把握すると己が家から持ってきた比較対象物と、それに合わせる所望の商品がセットになっているものを物色し、このセットならばサイズが近いので、もしもこれの別売りがあるならばこれでピッタリなはずである、今別売りはここには無いがあるかどうか調べておく、と言ってくれたのである。

さらに、所望の品が手に入らない場合の代替法を丁寧に教えてくれ、己は欲しかったものを買うことはできなかったのだが、問題を解決することは出来たのである。

流石にここまでしていただくと恐縮してしまうのだが、押し付けがましくなく、気持ちの良いサービスなので有難く受け止めさせていただいている。会計中には世間話を振られ、店員独自の人生論、励ましの言葉、お褒めの言葉などをいただいた。チェーンのドラッグストアーだが、まるで個人の経営する昔ながらの八百屋のようで、かなり好きになってしまいそうだ。既にだいぶ好きである。もっと好きになると思う。だいぶ気に入っているのである。


2011年7月16日 (土) 緑茶カウント:4杯
三月の半ば頃に己の後頭部に発生した五百円玉大のハゲは、四ヶ月経った今もずうずうしく居座り続けている。襟足のラインに五百円玉が乗るような形で出来ているため、生え際がギリシャ文字のオメガ(Ω)の形を描いており、通常ならば襟足は刈り上げ寸前まで短くしているのだが、オメガ隠しのために髪を切るに切れず、首のあたりがわさわさもさもさ。暑苦しくてたまらない。

もしかしたら自然治癒は難しいかもしれないと思い、そして首に触れる髪の鬱陶しさに耐えかねて、また、ちょうど別にもらっていた薬も切れたため、薬をもらうついでにオメガハゲも皮膚科の先生に診てもらうことにした。

先生はいくつかの方法を提示してくれ、その中で一番低レベルのものを試すことにした。経過を見て、今後の治療を決めていくと言う。夏が終わるまでに自体が収束するかは不明であるが、秋でも冬でも良いので、早く髪を短くしたい。襟足に合わせると全体の長さもバランスをとるために長めになり、ハゲ箇所以外の毛量は基本的に多い自分の頭は美容院に行ってもすぐに爆発してしまうのである。

あぁ、早くオメガが平らになって欲しいものだ。もさもさの頭を抱えながら思う。


2011年7月17日 (日) 緑茶カウント:5杯
窓の外から祭囃子が聞こえて、はて、祭りの練習か祭り本番かはわからぬが、太鼓と笛の音が奏でるドンドンピーヒャラという陽気な音をもっと聴きたくなって、散歩がてらちょいと外出をしてみることにした。

音は坂の上から聞こえた。平たいサンダルを足につっかけてズンズン歩く。直に子供の集団とそれを率いる大人達が見えた。衣装や持ち物から類推するに、予行練習のようだった。子供二人が大きな太鼓を抱えて列から置いて行かれないように頑張っている。それを己はぐんぐん追い越して、目標を祭囃子の鑑賞からセミ捕りに切り替えた。外に出てみたらセミの声が頭上に降り注いでいて、予行練習の祭囃子よりもそちらに魅力を感じたからだ。

セミの鳴き声を追いつつ、脇道にそれながら坂道を上る。ここはまだ住宅地だ。セミを捕るならもう少し人気の無いところが良い。私有地では面倒くさいし、怪しまれるのも宜しくない。特に今日は虫かごも虫捕り網も持っていないのだ。手ぶらで民家の庭から伸びる木を眺めていては不自然だ。住人に脅威を与えてしまう。

日陰を選びつつ歩いていくと公園に出た。何組かの親子連れがいるが面積の割りに人はあまり多くない。セミのシャワシャワという鳴き声が聴こえるが虫捕りをしている者はいなかった。

捕りやすい位置にいるだろうか。木々を見上げ、セミの位置を確認しようとしたとき、視界の端に己は一つの遊具を捉えた。ブランコだ。誰しもが子供の頃乗ったことのあるであろうあの遊具だ。遊んでいる子供は誰もいなかった。

結局セミ捕りはしなかった。ブランコを心行くまで満喫し、風を切る気持ち良さに夢中になり、ブランコはこんなに涼しいものだったのかと感動し、調子に乗りすぎて若干酔って、気持ち悪さに胸を抑えて帰宅した。己の体は既にブランコの運動に適応出来なくなっていた。思えばあのような運動に体を晒したことはしばらくない。例え相手がブランコでもリハビリは必要だったのだ。遠い目で気に茂る緑の葉を眺めた。セミの姿は見えなかった。


2011年7月18日 (月) 緑茶カウント:5杯
買い物をして金銭を消費し、運動をしてエネルギーを消費し、読書、掃除、洗濯によって時間を消費して三日間の連休が終わった。生産的なことは何もしていない。それなりに充実していたはずだがどこかやりそこなった気がしないでもない。

特に、三日目は大半の時間を読書に費やした。読んだのはパオロ・バチガルピの「ねじまき少女」。近未来のバンコクを舞台にしたSF小説だ。石油が枯れ、遺伝子組み換えの植物・動物により本来の生態系が崩され、食糧問題が起こり、遺伝子組み換えの作物を売りつける「カロリー企業」に様々な国が頼らざるを得なくなる中、タイ王国は何とか生き延びていたが、カロリー企業の魔の手は水際まで迫っていて…という話。己はSF小説にはあまり馴染みが無いが、Twitterで平沢進が面白いと言っていたので購入した。ミーハーなのである。単に。

読了後は重苦しい爽快感に包まれた。思ったよりも読みやすかったし面白かった。しかし、面白いことと心地良いことはイコールでは無い。最初から最後まで不快感との戦いだった。複数人の視点で物語は進行するのだが、誰の視点に立ってもじわじわと領域を侵犯される不快を味わわされる落ち着かなさがある。最後の雨の描写で不快感が清められた気がしてややほっとしたが、何とも言えない気持ち悪さは胸に残り続けている。

小説の登場人物は皆それぞれ必死に策を巡らし、生き残ろうと努力をし、走り回って血を流していたのに、己は買い物して運動して読書して掃除して洗濯しただけだった。エンディングに思いを馳せる。重苦しい爽快感。必死で走り回った人々のラスト。走り回っていない自分。生きるのは簡単だが、必死に生きるのは難しい。晴れない気持ちが己を落ち着かなくさせた。


2011年7月19日 (火) 緑茶カウント:6杯
砂嵐が見たいのである。

台風が近づきつつある夜に、ガタガタと窓を揺らす強風の音に不謹慎と感じつつも胸が高鳴るように、その日が近づくにつれ、仮初の断絶を味わえるような気がして、楽しみでならなくなるのである。

刻一刻と近づいてくる、アナログ放送終了日。本当に、全ての番組が映らなくなるのだろうか。どのチャンネルを回しても砂嵐しか映らなくなるのだろうか。あらゆる情報を運ぶ画面から己は断絶されるのだろうか。

その感覚は紛い物だ。決してこの世から断絶されたわけではない。我が家にはパソコンもあれば携帯電話もある。外へ出るドアーもあれば会話を交わす相手もいる。決して己は断絶されないが、ヴァーチュアルな、お遊びの断絶を味わってみたいのだ。全てのチャンネルが映す砂嵐の前で喪失感を抱いてみたい。

その遊びが終わり、砂嵐に飽きたらテレビを買おう。それまで我が家のアナログテレビには働いていただく。明日になればまた砂嵐に一歩近づく。楽しみである。


2011年7月20日 (水) 緑茶カウント:6杯
UNOのスーパーヘアウォーター詰め替え用、汗拭きシート、目薬、料理酒、四個パックのチチヤスヨーグルト。この五つの品に一つの共通項がある。その共通項によって己は心を沈ませている。流石に心に打撃を受けた。

失くした。部屋で。

買って来たばかりのUNOのスーパーヘアウォーター詰め替え用、汗拭きシート、目薬、料理酒、四個パックのチチヤスヨーグルトを部屋で失くした。どこを探しても見つからない。恐らく、ゴミと間違えて捨ててしまったと考えるのが妥当だろう。妥当であるが、わからない点が一つある。

UNOのスーパーヘアウォーターと汗拭きシートと目薬は十五日にドラッグストアーで、料理酒と四個パックのチチヤスヨーグルトは十七日に購入しているのである。これは何を意味するか。

思い違いかと思った。もしや、買ったと思ったのは幻想で、実際は買い忘れているのではないか、と。しかし悲しいかな。財布の中のレシートが購入した物品と日付を証明しているのである。あぁ、そうだよUNOのスーパーヘアウォーターと汗拭きシートと目薬はポイントが普段よりも多くつく日を選んで購入したのだ。せっかくポイントは普段の数倍ついたのに肝腎の物品が無いなんて。むなしいことこの上ない。

閑話休題。これが何を意味するか。つまり己は別々の日に購入した物品を、二回部屋で失くしたのである。せめてそれらを同じ日に購入していたなら、失敗は一度と換算出来たのに。だが、現実は残酷だ。己は何をしているのだろう。

とはいえ、一番恐ろしいのは捨ててしまったのは思い違いで、数ヵ月後に部屋のどこかで失くし物が発見されることである。まぁ、UNOのスーパーヘアウォーター詰め替え用は良い。汗拭きシートも良い。目薬も構わない。料理酒もまだ良い。ご遠慮願いたいのがヨーグルト。常温で数ヶ月放置されたヨーグルトを発掘することだけはしたくない。

部屋のどこかで見つからないかと願う心と、絶対に発見したくないと思う心が行き来する。いったいどこにやったのやら。手前の粗忽さが嘆かわしい。


2011年7月21日 (木) 緑茶カウント:5杯
新しいアクセサリーが欲しいなぁ、と、外出時には常に装着している気に入りの指輪を購入したことのある、とあるシルバーアクセサリーのオンラインショップを覗いていたら、好みのど真ん中にはまるものを一つ、結構好きなタイプのものを一つ発見した。どちらもペンダントである。

どちらもモチーフが非常に好みだ。遊び心を感じる格好良いデザイン。ちょっと高いが出せない金額ではない。オフラインの販売店も近くにあるので下見も可能だ。そして、誕生日が近い。これは機か。

とりあえず明日件のショップに行ってみよう。念のため、ちょっと財布を厚くして。


2011年7月22日 (金) 緑茶カウント:5杯
今年に入ってから一度も日記のログを整理していないことに気が付いた、というのは嘘である。ずっと前から気付いていた。気付いたまま放置していた。やらんとなぁ、と思いつつ後回しにしていた。

七月中には何とかする、と約束しよう。約束した。


2011年7月23日 (土) 緑茶カウント:7杯
気になっていたペンダントを一つ購入した。欲しいと思ったものは二つあったが、店頭にあったのは一つだけだったのである。もう一つを取り寄せるか、オンラインショップで買うかはまだ決めていない。とりあえず今は一つを手に入れられたことに満足している。

オンラインショップで眺めていたときには気が付かなかったが、己が欲しいと思ったペンダントはペアで購入されることを前提としたデザインのものだった。ブルーとピンクの組み合わせで、二つを並べるとハートの形がさりげなく描かれる。だが、ブルーの方がやや大きいため、ハートも左右対称ではなく、片側の膨らみの方が大きい少々歪なハートである。

ペンダントを眺めつつ、どうしたものかと考えていた。ペアか。ペア。配偶者もいなければ交際相手もいない。家族はいるが妹や母親に押し付けるのはとても嫌だ。すると何を察したか店員が声をかけてきたので、これに似たデザインでペアじゃないものはありませんかと尋ねると、片方だけお買い求めになるお客様も多いですよと教えてくれたので、本当にそんなお客様が多いのかはわからぬが、店員の言葉のお陰で安心して片方のみを購入することが出来たので、己は非常に満足した。

こうしてペアのペンダントは泣き別れになったが、あの置いていかれたピンクのペンダントをどこかの誰かが買って、互いが何も知らぬうちにひっそりとペアになっていることを考えると、気色悪くて楽しい。妖しい妄想をしながら軽い箱の入った袋を提げて帰宅した。


2011年7月24日 (日) 緑茶カウント:4杯
昨夜、ペアのペンダントの片方だけを購入した話をここに書いたが、朝を迎えてから、我が愛するミイコさんとペアにすれば良かったことに気が付き、ミイコさんの首元で揺れるピンクのペンダントを想像して何ともたまらない気持ちになった。

実行をする気は無い。尖ったデザインのそれをミイコさんにつけるのは危険だ。何かの拍子に目を突いてしまう危険性が無いとも言えない。だが、それはとても甘美な妄想だった。大好きなミイコさんとお揃いのペンダントをつける。ブルーとピンクのお揃いのペンダント。もふもふした首元を飾るピンクのシルバー。彼女のふかふかした白い毛皮に美しく映えるだろう。サイズもちょうど良いに違いない。

ペンダントをつけたミイコさんを想像するだけで幸せな気持ちになれた。そして幸福に引きずられて愛おしさがこみ上げてきて、あのふかふかの塊を撫でたい衝動に今は必死で耐えている。ところで我が家のテレビは砂嵐になるかと思いきや、デジアナ変換なるよくわからないものが働いて未だ視聴が可能である。早まって新しいテレビを買わなくて良かったと思う。


2011年7月25日 (月) 緑茶カウント:2杯
もう少し筋肉をつけたいな、と思って腕立て伏せを始めた。まだ始めたばかりだが、最初の頃よりは随分楽になってきた。やり始めは五回でへばって腹を床につけて崩れていたが、三十回くらいなら休まずに出来るようになった。

スクワットは毎日六十回やっている。こちらは全く辛くないので、そろそろ負荷を増やした方が良いかもしれない。あと、腹筋と背筋のバランスが悪いので腹筋を鍛えた方が良いと整体師に言われたので腹筋も鍛え始めた。ただしいつまで続くかはわからない。いつまで続くかはわからないが、筋肉が付いたことを実感出来るのはやや嬉しい。もうちょっと頑張ってみよう。


2011年7月26日 (火) 緑茶カウント:0杯
いろんな心配が重なっているのだ。病気が再発したあの人は無事に治るだろうか。今月が予定日のあの人は無事に子供を出産したのだろうか。曜日の感覚が無くなったあの人は無気力になっていないだろうか。生きるのに疲れてないかな。しんどくなってないかな。どうでもよくなってないかな。吐き出せているかな。

己は人とのコミュニケーションが上手くとれなくて四苦八苦している。本当のことを言いたいのに、口に出そうとすると言葉が足りなくて、枝葉を払って簡潔に表現するとそれは本当のことでは無くなって、嘘を伝えるくらいなら何も言わずにいたいと思い、言葉が出て来なくなってしまう。嘘を前提としているならいくらでも言葉は出てくるが、真実真正のこととなると難しい。

だから、互いに黙りこくったままでも緊張感が生じることなく、空気のように感じられる人間は有難い。馬鹿騒ぎも好きだが、無言を共に出来る関係も己にとっては大切だ。だから心配だ。だから気になる。元気で過ごしているだろうか。元気に暮らしているだろうか。背筋を伸ばして生きているだろうか。隔てた距離がもどかしい。


2011年7月27日 (水) 緑茶カウント:3杯
指先が傷だらけだ。何が原因かよくわからないのだが、スパスパと知らない間に切れている。むず痒い痛みを唾液で濡らすも治癒の効果は得られない。パックリと口を開いたふやけた傷口を眺める。いったいどこで切ったのだろうか。

これを書いて続きが浮かばず、あっちへうろうろこっちへうろうろしていたら、生っぽかった傷口が半生くらいい固まっていた。ちょっと引きつっていて痒いが、朝には塞がりそうである。それにしても何の傷なのか。不明である。


2011年7月28日 (木) 緑茶カウント:4杯
日曜日に絵を描くことを目標にして本日は就寝する。何かを作らなければだめだな。


2011年7月29日 (金) 緑茶カウント:2杯
聞いてくれ。すごく良いことがあったんだ。高校時代の友人が、元気な男の子を出産し、お母さんになったんだ。友人がその身で人間を作って、宿して、生み出したんだ。彼女は母になったのだ。

半年ほど前、彼女が妊娠した報告を受け、出産予定日が七月であることを聞いていた。そして己は彼女に頼んだ。子供が生まれたら是非教えて欲しいと。しかし七月になれど、中旬を過ぎれども、彼女からの報告は無く、己は不安を感じていた。

元気だろうか。大丈夫だろうか。気にはなるが状況を聞くことは出来ない。万が一のことがあったらと思うと己は何も聞けなかった。高校を卒業して以来、一度しか顔を合わせておらず、連絡も頻繁に取っているとは言い難い。彼女の名字が変わったのかも知らないし、結婚相手が誰かも不明だ。だが、高校時代、部活は違えども、彼女とは親しい付き合いをした。彼女を友人として己は好んでいた。

初めて会ったとき、何と笑顔の眩い娘だろうと思った。彼女はいつも菩薩のような笑顔を浮かべ、朗らかに笑い、鈴のような声で語っていた。危ういと感じるところもあったが、それ以上に可愛いなぁ、と思った。そんな彼女が母になる。

メールには彼女の息子の写真が添付されていた。人間だ。指があり、太く、今にも動き出しそうで、人間以外の何物でもないその生命に不思議を感じた。これからこの子はすくすく育ち、いずれ彼女の身長を越すだろう。彼女も歳を取るだろう。それが不思議でならなかった。

祝杯に発泡酒でなくビールを購入し、グラスに黄金色の液体を注ぎながら己は幸福に酩酊している。自分の、友人が、友達が、このたび初めて子供を出産した。間接的であり直接的な、刺激的な経験だ。いつか彼女の息子にあって、素敵な図鑑をプレゼントしたい。そして今は、彼女がこれから立ち向かわねばならないだろう苦労と疲労が少しでも、軽くなってほしいと願う。母になった彼女への祝福だ。どうか幸せな家庭を築いて欲しい。


2011年7月30日 (土) 緑茶カウント:6杯
また一つ歳を重ねた。とはいえ、正月を迎えた頃には「また歳を取るのだな」と考えて、半年以上前から一つ余計に歳を数えていたため大きなショック、感慨は無い。だが、祝福の言葉をいただければ心が震えるし、美味しい食事と酒を振舞っていただければ感激もする。果報者だと感謝する。有難いことこの上無い。

しかし嬉しいことばかりでは無い。一つの懸念事項も発生した。祖父が己に結婚をすすめようとしているのである。流石に今すぐというわけでは無かろうが、今からその気にさせて数年後には、という算段だろう。確かに立場的に己は跡取りではあるので、祖父の考えもわからなくも無い。わからなくも無いが、現時点で全くその気は無く、結婚願望は元より交際相手、交際願望を抱く相手もいなければ、交際欲求も無いのである。

祖父の件は父から聞いた。両親は己の生き方に理解を示してくれており、好きに生きなさいと言ってくれている。そして、祖父は結婚をけしかけてくるだろうが、祖父の意見を受け入れて、尚且つ上手く流しなさいとアドバイスを与えてくれた。有難いことである。良い両親を持って己は幸せだ。心からそう思うが、祖父の件は憂鬱だ。困る。

結婚は素晴らしいことだ。子供を生むことは素晴らしいことだ。仲睦まじく暮らす両親を自分は誇りに思うし、生命を生み出し、育むことに尊敬の念も抱く。子を産み、育てる親は素晴らしい。素晴らしいが、それは自分の人生に当てはめることは難しい。否定しているわけでは無い。ただただ難しいのである。

そしてその理由を説明するのも困難だ。話したくないことが多いため言葉が出てこなくなり、説明しづらいことが多すぎて途方に暮れてしまうのだ。端的に言えば少数派。自分は人と違う価値観の世界で生きているので難しいのです、と言うしか無いが、あまり口に出したくは無い。追及を受けたく無いのである。

のらりくらりとかわそう。きっとその手の困難はこれから段々増えてくるだろう。それらの困難にいちいち傷つかない強さを己は手に入れなくてはならない。歳をとる。歳をとった。成長する。成長しなければならない。肉体だけが老化していては仕方が無い。精神の成長が今後の己の課題である。二十五歳になったのだから。


2011年7月31日 (日) 緑茶カウント:6杯
七月の終わり、八月の始まりを迎えたその時、己は友人らとゲロの話をして盛り上がっていた。猫のゲロに人のゲロ。いったい何の話をしているのだろう。今になってこそ思うが、楽しかったので良しとするが、それにしたって何て会話だと思わないではいられない。自分はどんなに愛する猫のゲロでも、どんなに美しい人のゲロでも、進んで触りたくは無いがなぁ…。

スカイプで二時間ほど話していた。こんなに長時間通話をすることはあまり無く、慣れないせいもあるかもしれぬが、飲み物を飲みながらとはいえ二時間も話し続けると疲労するのだなぁ。また、念のため断っておくが二時間ずっとゲロの話をしていたわけではない。ゲロの話はせいぜい四十五分程だ。充分である。

穏やかな疲労を抱えて眠る。今日は良いゲロの夢を見られそうだ。見たくない。




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