5月      

2011年5月2日 (月) 緑茶カウント:2杯
呻きながらトイレに篭城しつつ、篭城、城に篭ると書いて篭城、即ちここは我が城、トイレイズマイキャッスル、などと阿呆なことを考える余裕はあるものの、阿呆なことを考えて苦しさをおかしさに変換するのが精一杯とも言える限界的状況を打破したのは夕方の五時を迎えてのことだった。二日酔い。

ご存知だろうか。胃液は皮膚を溶かすということを。ご存知だろうか。吐き過ぎると胃液で唇とその周辺の皮膚が溶かされて、唇は毒々しい赤に色を変え、口周りは真冬の肘のようにガサガサに荒れ粉をふくということを。ご存知だろうか。己はそこそこ酒が強いということを。

五百ミリリットルの缶ビールを「普通サイズ」と呼び、三百五十ミリリットルの缶ビールを「小さい奴」と呼ぶ我が家にて、親のペースに付き合って晩酌をしたゴールデンウィーク一日目、ワイン、日本酒を少々、ビールをしこたま呑んで酔い潰れ、二日目は半日寝て過ごすという情けない有様を晒し、己はいったいいつになったら学習するのかと反省し、ガサガサの口周りに冬場に使用されたと思われるメンソレータムの余りを塗って地元の友人と地元を徘徊、して気付いたことは己の土地勘の無さであり、同じ町内に住んでいるはずの友人と店舗や学校、道筋に関する話が一致しないのは己の脳内地図に穴と闇が多すぎるから。響良牙を笑えない。ロロノア・ゾロを笑えない。

地図を読めないうえに車に乗ると条件反射で眠ってしまう己は明日も助手席で助手の役目を果たさずに眠りこけながら移動する。明日は見事な滝を見に行くそうだ。楽しみである。


2011年5月3日 (火) 緑茶カウント:0杯
群馬の名物・名所・名産・歴史人物を網羅した、愛県心溢れる「上毛かるた」でも「滝は吹割、片品渓谷」と詠われる「吹割の滝」を観に行ってきた。滝と言うと細長い川が高いところから落ちてくるイメージであるが、池が全速力で前進してそのまま段差から落ちてくるような広大さ、足元まで押し寄せる急流には木の葉や木の枝の屑が粉砕されたものが巻き込まれていて、まさに圧巻。群馬にもこんな名所があるんだぜと自慢したい気持ちになった。そして無論、行きも帰りも助手の役目を果たさずに助手席で寝こけていた。ソフトクリームが美味しかった。


2011年5月5日 (木) 緑茶カウント:2杯
らんま1/2をもう一セット買い集めようか悩んでいる。ゴールデンウィーク中に実家に帰省し、そこで小学生のときに集めたらんまを読み直し、あまりの面白さに実家から下宿先に戻った今もらんま熱が冷めやらず、飛龍昇天破の真似事をしたくなったり、切り立った崖の上で大波を背にしてマイクを握り、小指を立てて絶叫したり、両手で二頭の狐を作って膝を左右に開き、足の裏同士をぴったりくっつけ、どっかんとぶっ飛ばされたり、通行人に柄杓で水をかけたりやかんを投げたりスイカを投げたりグルメ・デ・フォアグラをお見舞いしたりしたくてたまらないのである。爆砕点穴かっけぇなぁ。

当時、小遣いは週に一回二百十円。そいつをコツコツ貯めて一所懸命千円作り、古本屋で五冊ずつ、十冊ずつまとめてらんまを買うことを楽しみにしていた。千円が大金だった頃の話である。今なららんまをまとめて買うくらいの金なら出せる程度の経済力は持っているが、悲しいかな、今度はスペースが足りないのだ。床に置くのは避けたいし、棚を増やすのも考え物。いかがするか。悩むところである。

と、言いつつ明日の夜にはごそっと買ってきていそうなところが恐ろしいね。


2011年5月6日 (金) 緑茶カウント:2杯
らんま1/2を買うにして、どこに置くかを悩んでいたが、さらに床面積の件で悩むこととなろうとは。歩けない廊下の前で立ち尽くす。あぁ、二十四時間経過しても氷の一つも作られないとは、何て難儀なことだろう。

以前にもここに記した記憶があるが、冷蔵庫の中身がぬるいのである。冷凍室では製氷皿の中にあるのは一日経ってようやくみぞれで、ラップに包んでまるめた飯はやわらかいまま凍らない。冷蔵室の中は室温との差が感じられず、風の流れも感じられない。

このところずっと、冷え冷えとしたものを冷蔵庫から取り出して食べた覚えが己には無く、腐敗が恐ろしいので常温保存の利かないものはなるべく入れないようにしている。しかしいつまでもこのままにするわけにもいかず、これからの季節のことを考えると尚更対処の必要性が感じられるので、取扱説明書を見ながらあれこれ試しているのである。温度調節ツマミを弄り、冷蔵庫の周囲に熱を逃がすための空間があるか確認し、埃をとるなど努力した。そして最後、冷蔵庫の上に乗せていたオーブンレンジをどかし、このレンジによって狭い廊下はさらに狭くなり、己は立ち往生しているのだ。

取扱説明書によると冷蔵庫の上には物を乗せてはいけないらしい。冷蔵庫から発せられる熱を逃がすことが出来なくなり、冷蔵庫を温める原因となってしまうからだそうである。この冷蔵庫は大学入学と同時に購入したので今年で六年目のものであるが、今まではずっと冷蔵庫の上にレンジを乗せて問題なく冷え冷えさせることが出来ていた。よって大丈夫だと思っていたのだが、大丈夫ではない現在、いつまでも従来の状態に甘んじているわけにもいかない。甘んじているわけにもいかないが、どうしたものかと悩まざるを得ない。

せめて、立ち往生するはめになったとしても、これで冷蔵庫が冷え冷えしてくれれば良いのだが。腐った飯は喰いたくない。


2011年5月7日 (土) 緑茶カウント:3杯
冷凍室が冷蔵程度の力しか働かず、冷蔵室が室温と同程度の有様に成り果てているならば、冷凍室に要冷蔵の品々を突っ込めば良いことに気が付いてすぐさま実行、久し振りに我が家で冷たいゼリーを食すことに成功したが、根本的な問題は何も解決していない。

して、メーカーに問い合わせてみたところ、修理の見積もりで三千二百円、修理費は安くて一万三千円、修理の内容によっては八万円かかるとのことだった。そして電器屋で調べてみたところ、新品の冷蔵庫で目当てのサイズ・機能のものはおよそ三万二千円。購入六年目の冷蔵庫に最低一万五千円以上使うなら、もったいないが新品を買った方がよろしいだろう。

決めたからには早めに行動するが吉。明日にでも新品の冷蔵庫を買いに行こうと思っているが、これで我が家の地デジ化がさらに遅れることになるのだなぁ、とため息が漏れるのは詮無いことだ。はー、はは。


2011年5月8日 (日) 緑茶カウント:3杯
新品の冷蔵庫を購入した。届くのは水曜日の夜とのことで、それまでの辛抱だと思えば気持ちも楽になるものだ。もう冷凍室に入れたアイスがドロドロに溶けて袋の中で気持ちの悪い咽喉越しの飲み物になっていたり、冷蔵室でしいたけが異様な早さで真っ黒に変色したりしなくてすむと思えば、これで冷たいお茶を淹れることが出来ると思えば、安心して夏を待ちわびることが出来る。本日は毛布を干して収納し、寝巻きを長袖から半袖に切り替えた。夏は近い。来週はこたつを片付けよう。


2011年5月9日 (月) 緑茶カウント:2杯
ベッドで仰向けになり、腹にタオルケットと半纏を乗せ、団扇をバタバタ仰ぎながら寝ている。腕に感じる疲れとだるさが眠気を誘い、これもなかなか悪くは無い。しかしいつまでエアコン無しで過ごせるだろうか。エアコンを使うことを前提として作られた家屋に住む人々にとって、今年の夏は難敵だろう。新品の冷蔵庫が運ばれたら氷枕を買うとするか。現在室温二十七度。暑い。


2011年5月11日 (水) 緑茶カウント:0杯
あんまり嬉しかったから、ビスケットやスナック菓子と同じ棚に置かれているぬるい蒟蒻ゼリーを衝動買いしてしまったんだ。水羊羹を買ってきてしまったんだ。ファンタのグレープ味も買ってきてしまったんだ。

ついに、新しい冷蔵庫が我が家に届いたのである。

嬉しい。これで外で買って来たぬるいものを自宅で冷やすことが出来る。冷たいお茶を拵えることが出来る。氷を作れる。アイスを保冷出来る。肉が腐らない。飯も腐らない。保存食も作れる。冷蔵庫の片隅で未開封のニンニクがひっそりと腐って強烈な腐臭を放ち、部屋が鼻を突く臭気で満たされることもない。リセッシュ。

毎日この部屋で寝起きをしていたために、なかなか異臭に気付くことが出来ず、何か妙な臭いがすると気付いたときには既に遅かったのである。リセッシュ。水筒に入れるためのお茶を拵える際は、金の茶漉しは用いずに紙の袋に茶葉を入れていて、その紙の袋も冷蔵庫に仕舞っているのだが、紙が臭気をしっかり吸い込んでとてもじゃないけどこれで茶を作る度胸は無い。リセッシュ。部屋中をリセッシュ。ゴミ箱の中もリセッシュ。換気をしまくりでリセッシュ。ニンニクの狂気をリセッシュ。恐ろしいほどにリセッシュ。

あまり開くとせっかく溜まった冷気が逃げてしまうので我慢をしているのだが、冷蔵庫のドアーを開けるとひんやりした空気が感じられるのが嬉しくて嬉しくて。冷蔵庫が阿呆になっていたときは食材を保存出来ないために調理のやる気も起こらず、すると飯を喰うのも億劫になって適当にゼリーや杏仁豆腐をさっと買ってきてパッと食べて済ましていたのだが。久し振りに料理をやるかな。保存食を作るかな。浮き足立っている。リセッシュを吹き放ちながら浮き足立っている。嬉しい。


2011年5月12日 (木) 緑茶カウント:2杯
若干、後悔していることがある。古い冷蔵庫が運び出されるとき、己は新しい冷蔵庫のことばかり考えていて、今まで世話になった冷蔵庫に労いの言葉の一つもかけてやらなかった。確かにここ最近は冷蔵も冷凍も機能しなくなり、肉は腐り、飯も腐り、アイスクリームは溶け、しいたけは黒く変色し、ジャムの瓶は温まったとはいえ、五年間ずっと飯や野菜や肉や菓子、調味料、酒、味噌、保冷剤、脱臭剤を冷やし続けてくれたと言うのに。感謝の言葉の一つもかけてやらなかったのだ。

悪いことをした。すまなかったなぁ。後悔の念がひしひしと押し寄せる。外側だけでも綺麗に拭いてやれば良かった。

今までありがとうございました、と己は伝えるべきだった。


2011年5月13日 (金) 緑茶カウント:0杯
調子に乗って冷たいものを楽しんでいたら軽く風邪を引いたが一日で治った。治した。

さて、明日は高校の美術部仲間である一人の友人が我が家に泊まりに来るのでもてなしの準備をしようと思う。久しぶりと言うほどでもない再会だが、積もる話はあるだろうか。何にせよ会えるのは嬉しいことである。楽しみだ。


2011年5月14日 (土) 緑茶カウント:2杯
待ち合わせ場所で紫色の上着を着た人物を発見し、己は絶大なる違和感を覚えつつ、距離を置いたままその人物の横顔をしげしげと眺め、ぐるりと棚を迂回して正面から彼女の顔を見つめながら、じりじりと近づいていったら人違いだったのでとても恥ずかしかった。

そして約束の人物は予想通り、いやある意味予想以上の出で立ちで、リボンのついたピンクのキャリーに花柄の鞄を載せ、花柄のものより小型のピンクの鞄を肩にかけ、花柄のワンピースで身を包み、ピンクのケースを被せたスマートフォンを持っていた。と、このように文章にすると乙女趣味全開のようではあるが、確かにピンクは多いものの悪趣味ではなく、非常にピンクが好きな娘なのだなぁ、と感想を抱く程度である、とフォローを入れるのは彼女に対して負い目があるから、ではない。

自分の周りには二名ほど、ピンクが大好きな人物がいて、いつしかその二人がピンクのものを身につけていないと違和感を得るほどになってしまった。うちの一人がその娘である。よって、その娘と見間違えた赤の他人が紫の羽織り物を着用していたから驚いたのだ。

ピンク好きの娘は我が家にやってくるとすぐさま花柄のワンピースの下に灰色のだぼっとした部屋着のズボンを履いてくつろいだ。色気も糞も無くて素敵だと思った。


2011年5月15日 (日) 緑茶カウント:0杯
パカリ、と友人が金属で出来たケースを開くと、中にはゲジゲジが五匹ほど入っていて己は何じゃこりゃと思ったのだが、よく見るとそれはつけまつげだった。

「うわあ何かいっぱいあるし」
「飼ってるんだよ」
「まつげをか」
「そうだよ」

餌は何ですか? と問うと「何も食べない」と返された。楽なペットである。そして、顔に美顔器をあててくるくる肌を撫でている友人に、そいつも飼っているのですかと尋ねると、美顔器は死んでるから飼ってない、と言われた。死んでるなら埋めろよと思った。


2011年5月16日 (月) 緑茶カウント:1杯
あれを食べよう、これを食べようと買い込んだものの、結局食べきることが出来なくて我が家の冷蔵庫に置いていかれる、ということはままあることで、二日泊まっていった友人はアイスの実を冷凍庫に置いて出て行った。

学生を卒業したというのに、会えば学生の頃のノリのまま話し、大人らしい会話をしないことに関し、このままで良いのだろうかと団扇を扇ぎながら呟いた。言葉だけではない、もう二十代半ばだというのに、服装も十代の頃から変化が無く、年齢に中身が追いついていないように感じるのである。

「私もねぇ、意識して変えないといけないなぁって思って最近ピンクのものはあまり買わないようにしてるんだ」
「めっさピンクだったじゃねーかお前」
「つい好みのものを手に取ると同じ色になっちゃうんだよねぇ」
「あー。言われてみりゃ自分は紺と緑と黒ばっかだ」
「ほーらねーそうでしょう」
「そーだなー確かになー」

中学時代が十年も昔のことになるなんて。思えばあと一年でこの友人とも十年来の付き合いになるのか。さらにもう十年経ったらアラフォーだ。そしてこれからの十年は、きっと中学から今に至るときよりも早く感じるのだろうなぁ。

もっと話したかったのだが友人がぐーすかと眠ってしまったので己も喋るのを止めた。


2011年5月17日 (火) 緑茶カウント:2杯
不思議な夢を見た。

どうしたわけか、左の親指と人差し指で作った輪の中でスカスカに余るほど右腕が痩せていて、肘のあたりは皮に包まれた軟骨のようなものが飛び出し、頼りなくくにゃくにゃしている。その右手を非実在好きな人が掴み、何すんだってんで振り払おうとしたら左手も掴まれ、非実在のそいつは全く離す気が無いらしいので、しょうがないなってんで諦めて握らせたまま座り込みつつ坂の上、まぁ悪くはないなと思う夢だ。

体が変形しているにも関わらず、なかなか幸福な夢であった。


2011年5月18日 (水) 緑茶カウント:2杯
また妙な夢を見た。親兄弟との会話の最中に下ネタを飛ばし、「お前がそんなことを言うとは」と驚かれながらも、和やかに受け入れられる夢だ。

目が覚めて、やや寝不足な体を引きずりながらも呆れ返らずにはいられない。二日続けて何という夢を見ているのだ。だが一つ無視出来ないことがある。口から下品な言葉を発したことで解放感を得たことだ。不快感と爽快感が同居するおかしな寝覚め。欲求不満でも抱えているのか、自分は。

そして若干その自覚はあるので今日は食材をごっそり買って肉と野菜を豪快に切り、鍋のようなフライパンにそれらを投げ入れ、強火でジャアジャアと炒めて煮込んで大量のトマト煮込みを作り、トーストしたパンを添えてガツガツと貪り食べた。美味かった。


2011年5月19日 (木) 緑茶カウント:2杯
十八から今に至るまで、ずっとUNOのスーパーハードワックスを愛用し続けていたのだが、最近になって、ついにワックスからジェルに切り替えた。部屋にはまだワックスの空き缶が大量に積み上げられている。それを見るにつけジェル派へと鞍替えしたことで、まるで一つの時代が終わったかのように感じられ、ほのかな切なさに胸が蝕まれるのだが、当のワックス缶がどんどん店頭から消えていくのだから仕方が無い。

UNOでは、FOGBARと呼ばれるスプレーのスタイリング剤の方が主流になりつつあるらしく、UNOの公式サイトを見ると「さよならWAX」などという悲しい宣伝文句まで詠われている。無論、ヘアワックスも販売されているのだが、己の愛用するスーパーハードワックスよりも後に出た、カラフルな容器のものの方が力が入れられているようで、愛用のワックス缶は何とか細々と生き残っているものの風前の灯、といった様子なのである。そして元気に生きているカラフルな容器の方も試してみたのだが、悲しいかな己の髪質には合わず、旧来のものを使うしか道が無かったのだ。

しかしワックスからジェルに切り替えた理由はもう一つある。今までこのワックスを使うことで不自由が生じたことは無かったのだが、年齢のせいか髪質の変化か、シャンプーで二度洗い三度洗いをしてもすっきりワックスが落ちなくなり、髪がごわごわ固まってしまうようになったのである。シャンプーが原因なのかと思いシャンプーも変えたがあまり改善はされず、で、あれば仕方が無いと覚悟を決め、ジェルの購入に至ったのだ。

ジェルは一回のシャンプーですっきりと落ち、髪のゴワゴワも無くなったが、未だジェルの扱いにはなれていないため朝の支度に時間がかかる。あと五、六回使えばうまく扱えるようになりそうだが、今日もバリバリの一房を作ってしまった。難しいものである。うまく扱えるようになったら空き缶を捨てよう。


2011年5月20日 (金) 緑茶カウント:0杯
折り紙で箱を作れるようになった。小物を入れる容器が必要となり、しかしちょうど良い入れ物が無く、無いのであれば作るしかないと心に決めて、インターネットで箱の作り方を検索し、画面と手元の間で視線を何往復もさせながら、作ったらヤッコさんの上半身を複雑骨折させたものが出来上がった。

そういえば中学の頃、折り紙で作ったパーツをいくつも繋げて作る、多面体のようなものを工作するのがクラスの男達の間で流行ったなぁ。カード投げ、あやとり、折り紙、紙飛行機。小学校低学年の頃ではなく、思春期の頃にクラス内で流行したものだ。あれは何が発端だったのだろう。楽しい思い出だ。

三回挑戦してようやく、折り紙で箱を作れるようになったがもう作り方を忘れてしまったので、今は作れない。箱にはシャープペンシルの芯を入れておいた。既におかしな形になっているので明日には捨てると思う。あいつらは器用だったなぁ。


2011年5月21日 (土) 緑茶カウント:3杯



その機械を視界の隅に捉えた後、次の瞬間には目が釘付けになっていた。リアルなテントウムシのマグネットとストラップのガチャガチャ、一回たったの二百円。迷わず財布を取り出し、二百円を投入してレバーを回した。ナナホシテントウのストラップが出てきた。

その日はナナホシテントウのストラップを眺めてはにやにや笑いながら幸せに過ごし、しかし当然、一つで満足出来るはずもなく、数日後ジャラジャラと小銭を用意してガチャチャ、ガコン。ガチャチャ、ガコン。他にガチャガチャを回す人はいないが決して人通りが少なくは無い場所で、千四百円を投入し色とりどりのマグネットとストラップを手に入れた。

幸せである。こんな素敵なものがたったの二百円で手に入るなんて。自分のために作られたのでは無かろうか、と思い上がってしまいそうになるほど好みのそれ。同じテントウムシなのにストラップとマグネットでは少々形が違い、ストラップは足を縮めているがマグネットは足を広げている、細かな作り分けが愛おしい。腹側もとてもリアルで、大顎までしっかりと作られている。素晴らしい。

テントウムシの中で一番好きな、黒地に二つの赤い紋を持つ、二紋型のナミテントウをまだ手に入れられていないので、また小銭を作ってガチャガチャに通うつもりである。可能ならばマグネットだけを二十個くらい集めて冷蔵庫の扉にでも密集させたいものである。まるで冬眠時のように。

あぁ、それにしても、いくら眺めていても飽きない。素敵だなぁ。





2011年5月22日 (日) 緑茶カウント:3杯
今まで行ったことのない美容院で髪を切り、ここは当たりであると確信し、いかに今まで通っていた美容院が外れであったか思い知った。

外れであることには気付いていた。しかしそれでも通い続けていたのは、新たに美容師とコミュニケーションを構築するのが面倒くさいのと、条件に見合う美容院がなかなか見つからないことが原因だった。条件は五つある。「壁がガラス張りで中の様子が通行人に丸見えになっていないこと」「二階以上にあること」「入りやすいこと」「お洒落すぎないこと」「カットが五千円以内であること」。言い換えれば、この条件が揃っているというだけで、手際の悪い美容師のいる美容院に長々と通い続けたのである。

以前の美容師は下手だった。ヘアカタログで髪型を指定しても意味が無い。カタログを一回見ただけで、作業中に見返すことは無く、思い込みで散髪して行くのである。よって、何を指定しても美容師が切りやすい髪型に落ち着いてしまうので変化が無い。それでも上手であるならまだ良いが、ハサミの使い方が覚束なく、通うたびに髪を梳いて軽くして欲しいと頼んでいるのに短くすることしか出来ないのだ。そうして出来上がった髪形はいつも理想の髪型とはずれていて、そのズレを修正するために毎朝多めのワックスで無理矢理に形を整えなければならなかった。

それでも己は通っていた。壁がガラス張りで中の様子が通行人に丸見えになっていなくて、ビルの二階にあって、そこそこ入りやすくて、お洒落すぎなくて、カットが五千円以内であったから通い続け、意思の疎通の難しさを痛感しながら店を出ていたが、ついに条件に見合う美容院を他に見つけたのでそこに通うのを止め、己は久し振りに爽快な気持ちと満足感を胸に美容室を出て、髪が軽くなったことで少量のワックスで髪型を整えられるようになったことを教えてもらい、またワックス派に戻るかな、と思いながら愛用の黒い缶を眺めている。満足だ。


2011年5月23日 (月) 緑茶カウント:2杯
漫画チックに擬人化されたテントウムシは好きではない。足が四本のものなぞ言語道断、八本なのは論外だ。六本の足が全て靴を履き、背中に人間のような目玉が描かれているのも、太った坊やのように擬人化されているのも宜しくない。そのままが一番美しく可愛らしく格好良い。だが、扱いやすいモチーフであるせいかテントウムシの描かれたグッズ、もしくはテントウムシを模したものはいくらでもあるのに、理想に近い、なるべくリアルで擬人化されていないそれを見つけるのは、なかなか困難なのである。

そんな中で見つけた理想を具現化したかのようなテントウムシのフィギュアに夢中にならないはずもない。降る雨も構わずただガチャガチャを回すためだけに外に出て、全ての小銭を投入したのに、まだ一番好きな、一番愛しい、黒地に赤の紋が二つ入ったあいつを手に入れられないでいる。あぁ、欲しい。

恐らく明日も小銭を握ってガチャガチャをするために出かけるのだろう。可愛いあいつを手に入れたい。手の平に乗せてにやにやと頬を緩ませながら存分に眺めていたい。明日こそは会えないだろうか。明日こそは会いたいものだ。

ただ、心配なのはガチャガチャの機械の中身が底を尽きそうであることと、補充がされるか不明なことだ。どうか己が黒地に赤のあいつを手に入れるまでは補充を続けてもらえないだろうか。他にそのガチャガチャがある場所を知らないものだからそこにばかり通っている。どうか是非に。どうか是非に。


2011年5月24日 (火) 緑茶カウント:2杯
ふと思い立って家にある江戸川乱歩を読み返している。いかがわしいものを脳が求めているのを感じたからだ。読んでいるのは春陽堂の江戸川乱歩文庫の一冊、「月と手袋」だが、表題作の次に載っている「地獄風景」を求めて己は本を開いている。ところで、いかがわしいと言うと性的な意味合いでしか取られないことがちょくちょくあり、やや、困る。確かにそういった意味もあるし、その意味合いも含まれるが、もっとじっとりとした、裏路地や地下の密室や戸の陰で、こそこそ隠れて行うような、一目の憚られる、しかしとても魅力的な香りのするものを指す、そんな意味で使うのが己は好きだ。

これを一冊読み終えたら次はドグラ・マグラを読み返そう。そんな気分なのである。


2011年5月25日 (水) 緑茶カウント:4杯
爪を伸ばしているのだよ。二年ほど前から。そして未だ引っかき傷が絶えない。それは十年以上己の指が、爪を立てるという動作をすることが出来なかったから。万人が行うその行為を真似たところで指の肉を強く押し付ける仕草にしかならない。己には爪を噛む癖があったのだ。

今、己の爪は縦長の長方形だが、つい二年ほど前まで長方形は長方形でも横に長い形の爪だった。縦の長さは長くて一センチ、短い箇所は五ミリ以下。小六の頃爪噛みを親に指摘され、以来矯正に努めたが一向に治る気配は無く、しかし恥ずかしいと思う気持ちはあったので、人に爪が見られないように常時指を丸めていた。誰もそんなことには気付かないだろうと思いきや、爪が縦長になってから親や親しい友人に拳を作って歩く癖があったことを思い出話のように語られて驚いた記憶も最近のものだ。

決して人前で爪を噛むことは無かった。爪噛みが汚らしいと嫌悪されることを知っていたからだ。知っていたのにやめられなかったのは何故なのか、よくわからない。爪を噛むことにより得られるものよりも、不便に感じることの方が多いことはわかりきったことであったと言うのに。シールは剥がせないし、床に落ちたコインを拾うにも難儀する。プルタブは頑張れば指の肉でも開けられるし、髪の毛のゴミは指の腹をぎゅっと押し付ければくっついてくるので拾えないことも無い。ただし玉結びは作れないし、人の背中を掻いたところで満足してもらうことは出来ない。一所懸命爪を立てようとしても爪は指の肉のずっと内側にあるし、そもそも白い部分なぞ皆無に等しいのであるのだから。

二年前、一大決心をして爪噛みを止める努力をした。それからの三日間が地獄だった。指が目に入ると噛みたくなる。白い爪が現れると噛みたくなる。目を逸らそうにも自分の手指ゆえ何かにつけて目に入り、気が散って仕方が無く、これは禁煙の苦しみに近いものでは無かろうかと思うほどのものであった。

ところが地獄の三日を過ぎるとまるで憑き物が落ちたように爪を噛みたいという欲求が無くなった。そして二年、十年以上続いた爪噛みの癖は無くなり、初期の頃は白い部分が伸びるだけで不恰好だった爪も、だんだんとピンクの部分が伸びてきて、まだまだ短い方ではあるが少なくとも見苦しくはない。もう酷い爪だと親に悲しまれることも無いだろう。

しかし未だに長い爪には違和感があり、未だに爪は武器であるということを体が覚えることが出来ないでいる。深爪だった頃は引っ掻くことなぞ出来なかったため、指先の力加減に気を遣ったことは無かったのだが、ついその当時の感覚でいるとただ普通に日常を送っているだけだというのに腕に引っ掻き傷が出来てしまうのである。伸ばし始めの頃ほどでは無くなったが今でもよく自分の爪で傷をつけてしまう。また、キーボードを叩く際、つい昔のようにタイプすると爪の先をキーに直撃させて爪が剥がれそうになるので恐ろしい。握りこぶしを作ると手の平に爪が刺さって痛むなんてことも知らなかった。たかだか爪を伸ばしただけでこんなに変化があるなんて、全く思いも寄らなかった。

小さな変化ではあるが、確実に爪噛みを止めたことで世界は変わったのである。世の中の人々はこんなに爪を活用して日常生活を送っていたのかと何度感心したことか。例え爪が伸びたとしてもプルタブは道具を使って開けた方が爪に優しいということも知らなかった。発見の連続だ。

今後はもう爪は噛まないだろう。多分、もう大丈夫だと思う。今は少しずつ陣地を広げていくピンクの部分を眺めるのが楽しい。中指がやや成長が遅いが、十年以上も虐げてきたことを考えれば仕方の無いことである。十年かけて育てる心持ちでいれば良い。先は長い。ゆっくりだ。


2011年5月26日 (木) 緑茶カウント:4杯
何てことだ。気付けば半年近く日記のログを整理していない。と、言うことはもう今年も半分近く過ぎてしまったということで、時間の経過の早さに驚きを隠せないのが正直なところである。あっという間だ。あっという間だが、このところはそこそこ必死で生きている。なかなか大変だが頑張っている。どうにか実として結びたい。


2011年5月27日 (金) 緑茶カウント:3杯
好きなものを見ていると幸せな気持ちになれるので、好きなものと、昔ものすごく好きだったが今は感情が落ち着いているものに囲まれた部屋に住みたい己にとって、流行の断捨離は全く心惹かれない。片付かない。困る。物が多い。困る。躓く。困る。困るが、例え困る破目に陥ろうとも、様々な好きなものを眺めて触れて味わって暮らせる部屋の方が良い。

執着を捨てれば幸せになれる、執着こそが苦しみの元だとはあちらこちらで耳にする。確かにその通りだと納得もする。しかし苦しみの裏には楽しみもある。苦しみから解放されたいがために楽しみも捨て去ってしまっては、何とつまらない人生だろうか。楽しみを得るために苦しみも受け入れる覚悟を持って生きた方が張り合いがあって楽しくは無いか。己は楽しい方が良い。

「それで、このガムの包み紙もあなたの幸せの元なのですか?」
「いや、それは単なるゴミです。つい鞄の中に突っ込んだままにしていただけなので何の執着もありません」

ゴミはゴミ箱へ。


2011年5月30日 (月) 緑茶カウント:1杯
赤坂ブリッツ2days、筋肉少女帯のライブに行って来て、未だ多幸感に包まれている。震災の影響で三月のライブが延期になったこともあり、己にとっては半年振りの筋少ライブだった。

ライブハウスで大好きな音を聴きながら、カラカラになってヒビ割れた地面に土砂降りの雨水が降り注いだかのような感覚を覚え、全身に筋少が浸透したっぷりと包まれてドロドロにぬかるんで、今も固まらず溶けたまま恍惚に浸っている。最高に気持ちが良かった。

あんなに笑って喜んで叫んで感動して興奮できる場所は他に無い。全身から汗が噴出して発散しながらぐんぐん快感と喜びを吸収して行く。特に今回は大好きな再結成後の曲が中心で、あの楽しかった蔦Qツアーの一部が再現されたようであり、同時にそれだけではないたくさんの蔦Qツアーには無かった要素も含まれていて、大変贅沢に感じられた。一日目で再結成後曲を思う存分堪能した後、二日目で再結成前のレア曲を聴けるという構成も嬉しい。

早く感想をしたためたいと思いつつ、いつまでも、楽しかったなぁ、楽しかったなぁ、とだらだらとつぶやいていたい気持ちも強く、なかなか取り掛かれないのがもどかしくも気持ちが良い。あぁ、楽しかったなぁ。


2011年5月31日 (火) 緑茶カウント:0杯
そういえば三ヶ月ほど前までは筋肉痛の到来が遅れていた。二日目が標準、ひどいときには三日目にようやっと、と言った具合で、体力の低下を実感していたのだが、このところきっちり一日目に筋肉痛がやって来るようになった。早いときにはその日の夜のうちに体がだるくなる。軽い運動とストレッチ、週に一回の整体通いのお陰だろうか。筋力が付いた実感はあまり無いが喜ばしい。意識して運動することの大切さを実感する今日この頃である。




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