3月      

2011年3月1日 (火) 緑茶カウント:3杯
自分の写真を撮ること、自分の写真を撮られることをどちらかというと嫌う人間であったため、特に中学入学以降は学校行事の記念撮影以外ではほとんど撮られることが無くなり、自分の写真というものをあまり所持していないのだが、ここ数年で少しずつこだわりが無くなってきたため、進んでカメラから逃げることも無くなり、自ら写真に納まることもあるようになったが、携帯電話を自分に向けての自分撮り、というものは流石にしない。

その普段しない自分撮りをやりまくったのが今日である。特に意味は無い。手持ち無沙汰で携帯電話を弄繰り回していたらウィンドウ部分がくるくると回転したので、そういえば全然この機能を活用していないなと気付き、ここぞとばかりに活用しまくってやったのである。

撮る撮る撮る撮る。消す消す消す消す。撮る消す撮る消す撮る消す撮る消す。撮っちゃ消しての繰り返しをひたすら行い、生後二十四年目にして肌の色が一部違うところがあることを発見し、へー、と思って遊びを終了した。そこそこ面白かった。


2011年3月2日 (水) 緑茶カウント:3杯
既に今月の残金が三万円という面白い自体に成り果てている。いったい何を考えて生きているのだろうと思わざるを得ないが、現状困窮はしていない。とはいえ、いくらか調整はしなければならないだろう。主に人付き合いの面における調整が必要だ。毎日家に引きこもることが出来るならば最小限の出費で済むが、毎日ふらふらと外に出てふらふらと遅くに帰り、外で飯を食ったり人と飯を食ったり飯を買って帰ったり、そのうえ飲みの予定も一件入っているし、週末は遊ぶし、月末はライブに行くし、DVDも買いたいし。はは、些細な欲望が渦巻いていて困ったものだね。自炊をしろよ。頑張ります。なるべく。


2011年3月3日 (木) 緑茶カウント:3杯
仰向け寝、うつ伏せ寝、横向き寝。幼少の頃より今日まで、仰向けか横向きの姿勢で寝ている己は長年疑問に思っていたことがあった。うつ伏せの姿勢が寝やすいという人は、どうして窒息しないのだろうかと。

謎が氷解したのはつい先日、とある雑誌でうつ伏せ寝の図解を見たときだ。何てことだろう、こんなことがあって良いのか。首だけ横を向くなんて。絶対に顔面を枕に押し付け、埋もれさせ、密着させた状態で寝ていると思っていたのに首だけ横を向くなんて。裏切られた気分で一杯で悲しい。「うつ伏せ寝の人はすげーなぁ」と誤解したままでいたかった。こんな現実を突きつけられて、己が今までうつ伏せ寝を公言する人々に抱いていたイメージはいかに処理すれば良いのだろう。何だよお前ら意外と普通じゃないか。肺機能が発達しているなぁと思っていたのに。残念だ。ふっふっふっ。


2011年3月4日 (金) 緑茶カウント:3杯
先週の土曜日に買って来た袋入りの煎餅を室内で失くした。我が家で。我が家の室内で、個包装された八枚の煎餅が大きな袋に一まとめにされていて、うち二枚は既に消費しているなかなかかさばるそれを失くした。室内で。味は梅ざらめ味。ガツンと来る甘さとほのかな酸っぱさとバリンッグシャグシャッと噛み締める音が美味のそれを失くした。室内で。

思い当たる場所は既に探した。まずは廊下に置いた食料保存ボックスを開く。海苔、化学調味料、鰹節、ふりかけ、そうめん、ラーメン、うどん、蕎麦、スパゲッティ、飴、出汁、お茶漬けの素、ローリエ、乾燥唐辛子などの常温保存が可能なものと突っ込んだ箱である。煎餅袋は結構な大物なので掘り返せばすぐに見つかるだろうと思ったが存在は確認出来なかった。無い。

お次は冷蔵庫である。醤油、ドレッシング、マヨネーズ、ケチャップ、ウスターソース、トンカツソース、バター、チーズ、ニラの花の醤油漬け、空のジャムの瓶、脱臭炭、チョコレート、ブランデー梅酒、カキ氷シロップスイカ味、玉ねぎ、白菜、長ネギ、米、などが見られるが煎餅袋はそこには無い。引っ掻き回すまでもなく冷蔵庫内部は奥まで見通せるが、念のためにと空瓶などをどかしてみるもやはり無い。空瓶を戻し、グレーの扉をパタンと閉める。

冷えた煎餅と再会したいとは思わないが、ここに無いならどこにあると言えるのか。机の上は片付けた。スーパーのビニール袋を結んで放り込んでいる雑多箱の中にも無い。本棚の隙間は意外とありそうだが姿は見えず。どこにあるのかわからない。

まだ、己が誰かと生活をしていたり、もしくはここ二、三日でひどく酔っ払っていたのなら良いが、問題はそのどちらも該当しないということで、すると己は素面で自分一人しか出入りしないこの極めてプライベートな空間で煎餅を失くしたということであり、失くしっぱなしも困るものだが、妙な場所で再会してしまっても、それはそれで自分の正気は保たれているのか、もしかしたら一人で人知れず阿呆になっている時間があるのではないか、と思えて非常に嫌だが、非常に嫌なのだが、梅ざらめ味の煎餅袋はベッドの上、布団と布団の間から発見された。これはセーフか。もうだめか。自問自答をしながら食した。うまかった。


2011年3月5日 (土) 緑茶カウント:2杯
幼子とのコミュニケーション。新しい茶漉しを手に入れるため、台所用品が揃った店をうろついていたとき、二人の子供を連れた母親が横をさっさかと歩いていった。子供の一人は小学校の低学年くらいか、母親にまとわりつきながら一所懸命に喋っている。もう一人は三、四歳の男の子で、母親と上の子にしっかりついていきながらも、どこかマイペースさを感じさせる歩みで、変に大人びて見えた。

すると視線に気付いたのか、幼子が立ち止まり、こちらの瞳をじっと見つめてきた。興味を抱かれたことに対する興味だろう。名前も知らぬ幼子と見つめ合いながら、己はよく人に「怖い」「怖かった」「怖い人だと思っていた」と言われる人間であったことを思い出す。興味津々の瞳を向けるこの子の場合、今更泣き出すことは無かろうが、念のためにと笑顔を作って「怖い人間ではありませんよ」とアピールすることを試みる。

途端、ぽけっとした表情が一転、破顔する幼子。嬉しそうに笑っていると先の方で母親の呼ぶ声。ところで、自分は台所用品が並べられた棚の前にいたので、幼子の家族からは見えない位置にいる。よって、母親からすれば幼子が何か面白い商品に気をとられて立ち止まってしまったように見えただろう。

母親に呼ばれて幼子は急いで駆け出した。商品棚の先に行ってしまった幼子の姿はもう見えない。と、思いきや、棚の裏から幼子はひょいと顔を出し、にこにこ笑いながら母親の方を指差し、幼い口調で己に対し、何かを語りかけてくる。発音が明瞭で無く、幼児の言葉であるそれは己の耳には聞き取れないが何を言いたいのかは理解出来た。「置いてかれちゃうよ、早く行こうよ」だ。

子供の考えることはわからない。見つめ合い、笑顔を交わしたあの瞬間、幼子にとって自分は友人か同行者、仲間の類になってしまったようである。もう一度母親に呼ばれ、子供はまた母親のもとへ駆けて行ったが、振り返っては立ち止まってこちらを見ながらおいでおいでをし、母親に手を繋がれ先へと急かされても立ち止まって己を見ていた。

「バイバイ」と手を振ると幼子はきょとんとした顔をして、納得出来ない様子でありながらも母親に手を引かれて別のフロアへと歩いて行った。

あの子はこれから多くの人々と友となり、多くの別れをしながら成長して行くのだろう。たくさんの雑多な人々と出会いながら、学びを深めていって欲しい。


2011年3月6日 (日) 緑茶カウント:3杯
虫捕り網は所有しているものの、その実使う機会は少なく、そう熱心に虫捕りをするほどでもない己は、言うなればファッションパンクならぬファッション虫捕りといった存在なのかもしれない。

よく誤解されるのだが、己は虫に詳しくない。大まかな種類こそ把握はしているが、この蝶は何々と言う名前でこれこれといった生態をしているのだよ、などと語ることはほとんど出来ない。虫捕りもせいぜいセミ、トンボ、ハンミョウ、バッタ、蝶、蛾、テントウムシ、ミノムシ、カミキリムシといった身近な昆虫を、庭や近所の空き地で捕っていただけで、虫捕りのために遠出をしたことは今のところ無い。よって己は虫屋では無い。

このようにわざわざ断りを入れるのは虫屋と思われるのが心外だからでは無い、と念の為断っておくとしよう。こんな程度の人間が虫屋と思われたら申し訳が無いから断りを入れるのだ。

虫は好きだが詳しくはなれない。深く追究するところまではいかない。それは己が虫を好むのは、そのデザインの面白さと、こんなに小さなものがちゃんと動くなんてすごい、という幼稚な感動・感心が所以であるからだ。だから外で虫を捕るよりも、家で昆虫図鑑を眺める時間の方が圧倒的に長いのだ。

ところで、ファッション虫捕りと書いたは良いが、そんなファッションを気取ったところで何の意味があるのだろうか。妙な言葉を作ってしまった。


2011年3月7日 (月) 緑茶カウント:3杯
首の皮膚の一部がガッサガサに乾いて痛い。乾いた上に荒れてしまって痛い。そして痒い。痒さ解消のためキンカンを塗ったら激痛が走り一人部屋で「うああ」と呻いたが、痒みがキンカンの薬液に食い荒らされるような快感が走り、沈静化を迎えた後は落ち着いた錯覚を得られたが、余計に皮膚が荒れてしまったようなので潔く痒み止めのクリームを塗った。夏の訪れが待ち遠しい。


2011年3月8日 (火) 緑茶カウント:4杯
脱皮をして古い皮膚を脱ぎ捨てるか、蛹になって一度ドロドロに溶けて変態し、新たな皮膚に生まれ変わりたいと思うほど、首の皮膚が荒れて辛い。クリームのおかげで多少腫れと痒みと痛みは収まったが、皮膚が突っ張ってしまっている。首を回しにくくて不便だ。

とりあえず観念して週末は皮膚科に行くことに決めた。今年の冬は例年以上に皮膚科の世話になっている。夏はどんなに汗をかいてもあせもが出来ることは無いのに、冬はいつも弱るのだ。寒い国に行ったら己は生きていけないかもしれない。


2011年3月9日 (水) 緑茶カウント:3杯
一瞬にして全てが崩れ去る音に聞こえた。「ガチャアン」という音の始まりから、終わりの「ン」に至るまで、少しずつシュレッダーにかけられた紙のように、元の形を失っていくのを体感させる音だった。朝には似つかわしくない音を聞き、茶碗の欠片を拾い上げ、うまいこと綺麗に割れてくれたから拾いやすくて助かった、などと考えつつ、いったいどうして突然茶碗が棚から落ちたのか理解出来ず、握り飯を食って家を出て、夜には茶碗のことなど忘れてしまっていたため、仕方なくおわんに飯をよそってもそもそ食べた。

そもそも我が家には茶碗が二つあり、一つは自分用、もう一つは客用として買ったのだが、半年前に自分用の茶碗を誤って落として割ってしまい、以来そう客が来ることも無いことを理由に客用茶碗を自分用にして飯を食っていたのだが、ついにこれで我が家の茶碗は全て割れて無くなってしまった。茶碗が無い家。何て心許ない家だろう。

心許なさを解消すべく、週末にでも新しい茶碗を買いに行こうと思う。ついでに新しい茶漉しも買おうと思う。これで我が家の茶漉しは三つになる。一つは長年使い続けて穴が空いたボロボロの茶漉し、もう一つはこの間新調したもののサイズが合っていないため急須の中に沈んでしまう茶漉し。今使っている茶漉しは一つ目であり二つ目、つまり両方である。ボロの茶漉しに新しい茶漉しを嵌めて使用しているのである。これで茶葉が穴から漏れることも、茶漉しが急須の内部に沈むことも無くなったが、蓋がきちんと閉まらなくなったし、何より悲しいので買い直す。

週末には新しい茶碗と茶漉しが我が家に増えるだろう。次こそはサイズを間違えない、と心に誓って。


2011年3月10日 (木) 緑茶カウント:2杯
トップページで告知をしたが、「もらったお題に沿った内容の日記を書くよ企画」を始めようと思う。題名の通り、もらったお題に沿った内容の日記を書く企画である。たまには目新しいことをしたい、そんな欲求から生じた企画だ。

どうか一つ、お付き合いいただきたい。誰も遊んでくれなかったら泣くからな。


2011年3月12日 (土) 緑茶カウント:1杯
別件で日記を一日休んだが、こちらは全く問題無い。家族、友人の無事もだいたい確認し、ほっと一息ついているところである。

さて、始めたばかりのお題企画であるが、もう少し落ち着いたら書き始めようと思う。落ち着かなかったら中止しようと思う。とりあえず現状、お題の募集は継続する。深刻なお題よりも気楽なお題をいただけると嬉しい。


2011年3月13日 (日) 緑茶カウント:4杯
情報に触れすぎているだけでも精神的に疲弊することが今回の件でよくわかった。つい情報を逃すまいとニュースに釘付けになってしまうが、疲れた。音楽もあまり効果が無い。

意識して休むことにしよう。大事なことだ。


2011年3月14日 (月) 緑茶カウント:1杯
実質的な被害は無いに等しいというのに、この三日間で体重が二キロ落ちていた。他、ストレスの信号と思われるものも出てきている。良くないな。

ところで募集しているお題だが、今のところ「春」「飼い猫との馴初めと、好きなジョジョのスタンドについて」「魔法陣グルグルについて」「カマドウマについて」というものをいただいている。何で突然カマドウマ。何にせよご協力に感謝する。落ち着いたら書き始めるので今しばらくお待ちいただきたい。


2011年3月15日 (火) 緑茶カウント:3杯
お題:「春」

夏好きの己からしてみれば春は夏への通過点に過ぎないわけだが、とはいえ心から春をどうでも良いと思っているわけではなく、蝋梅の香りを嗅げば安らぐし、桜を見れば穏やかになるし、ツクシを見ればテンションが上がるし、スズメノテッポウを発見すれば摘んで抜いて吹いてピィイイイイーーーーーと鳴らして草笛を知らぬ小学生に凝視される。

スズメノテッポウ。細い筒状の草の口を稲の穂のようなものが栓をしてあり、その栓をひょいと摘んで抜き、筒状の草を唇で挟んで空気を吹き込むと音が鳴る、道端に生える雑草だ。これの遊びを幼稚園か小学生か、とにかく年少の頃に誰かから教えてもらって以来、毎年毎年春になると吹いている。大学の帰り道でも吹いていた。流石に人通りの少ないところを選んで吹くだけの分別はあったが、よくよく考えてみれば雑草を口にくわえた大人が人目を避けながら甲高い音を断続的に鳴らしている姿は不審者以外の何ものでも無い。無論わかってやっていた。非常に楽しかった。

そんな楽しい春ではあるが、花粉症を発症してからというもの、より早く通過してしまいたい気持ちが高まり、さっさと夏にならないかと夏の到来を心待ちにしているのだが、耳鼻科に出向いて花粉症の薬を処方してもらった途端症状が落ち着いたので、偉大なる医療の進歩とプラシーボ効果に感謝しつつ、夏が来るのを待っている。早く、夏に、なれ。


2011年3月16日 (水) 緑茶カウント:2杯
お題:「飼い猫との馴初めと、好きなジョジョのスタンドについて」

馴れ初め、と言っても感動的な出会いのストーリーは特に無く、猫を飼いたがっていた父が家族を説得し、了承のうえで捨て猫を保護する施設からもらいうけてきた、それだけの話である。高校の卒業旅行から帰宅すると、部屋の隅、カーテンの影に猫がひっそりと隠れていた。以後一年間、希望の大学を落ち、浪人した己は家族の誰よりも家にいる時間が長かったため、その一年間のみ、誰よりも密に猫と接していた。彼女の名前をミイコと言う。

猫を飼いだしてから、以前よりも猫に対する関心は高くなり、道端の猫ともコミュニケーションを計ろうと人様の車の前に屈んで耳をアスファルトギリギリまで近づけ、暗闇に向かって声をかけるといった頭の悪い動作をするようになり、言うなれば飼い猫によって品位を低下せしめられたようなものであるが、もともと高くも無かったそれ、今更な話でもある。

このように、猫によって品位をアスファルトギリギリまで落とされたことも購うこと無く受け入れてはいるが、大の猫好き、というわけではない。飼い猫の影響で猫も好きになったが、それは飼い猫への愛によって猫全般の基準値も比例して上昇しただけのこと、よって、猫の写真集、猫グッズ、猫キャラクター、猫耳などへの執着は無い。むしろ猫耳は嫌いである。

己が愛する漫画の一つ、ジョジョでは猫が悲惨な目にあう場面が多く見受けられるが、それに対し悲しみや憤りを感じることは無く、一番好きなスタンドがストレイ・キャット、ということも無い。猫を思わせる風貌のキラークイーンの造形はなかなか好みだが、一番好きな能力はクレイジー・ダイヤモンド、好きなデザインはハイウェイ・スター、愛着があるのはスーパー・フライだ。

では、飼い猫はジョジョを好きかというと、いつだったかジョジョ三部のアニメを借りてきて居間のテレビで観ていたとき、彼女も膝の上に座って大人しくテレビの画面を見つめ、ということも特に無く、腹が減ればメシを寄越せと催促していたように思う。などと言いつつ、そのような細部は覚えていないので、真実がどうであったかは誰も知れるところではない。動物と会話が出来るスタンドを発現したら確認することも出来るだろうが、仮にスタンド使いになったとしても、己がその手の能力を発現するとは思えないので、結局誰もわからないのだ。


2011年3月17日 (木) 緑茶カウント:3杯
もっと昆虫イラストサイトらしい体裁にするべきか、と考えつつ、昆虫イラストサイトではないよな、とも思いつつ、日記サイトとも言い難いな、と思いつつ、今更であるよな、とも思っている。

もうちょっと、虫が好きな人にも来ていただけるようにしたいものだな。


2011年3月18日 (金) 緑茶カウント:0杯
一週間経って、やっと好きな音楽を心地良く聴けるようになった。地震後、しばらくは何を聴いても耳障りで、ひたすらニュースを見て暗い気持ちを増幅させ、救われない思いで沈んでいたが、あえてテレビを消して情報を遮断し、すると徐々に回復してきて、平沢進の救済の技法、庭師KINGあたりだけは聴けるようになり、やっと平静の状態に戻りつつある現在、水戸華之介の不死鳥DVDを部屋に流して聴いている。

しかしまだ一週間。むしろ長いのはこれから先だ。だが、自分は自分の出来ることをやり、きちんと日常を過ごし、動いて歩いて金を遣って、遊んで学んで前進して、たまに献血をしたりしながら、被災地のことを思いつつ、自身の生活を大事にしていかねばなるまいと思うので、なるべく精神を強くして、あえて鈍感になろうとしながら、生きていこうと思うのだ。

話は代わるが、今もDVDを横目に日記を書いていて、それにつけて思うのだが、やはり水戸さんは格好良い。足の動きが格好良い。しっかりがっしりした骨格が羨ましい。己もでっかく成長したかったなぁ。


2011年3月19日 (土) 緑茶カウント:7杯



地震に配慮して冬眠させていた鬼畜botの中身を整理していた。今までは単語の優先順位を漠然と決めつつも、基本は思いついた順番に適当に書き散らしていただけだった。反応単語の種類が少なかったうちはそれでも問題は無かったが、ちょこちょこと追加を重ねているうちに結構な量になってしまった今、ついにどこに何を書いたのかわからなくなり、見づらいことこの上なく、これを機にと思い立って整理したのである。

するとこのように整理出来た。この下に分類表の並びで小タイトルつきのデータを置いているので、例えば「ビール」という単語への反応を増やしたいと思ったなら、「●食べ物・飲み物」で検索をかけてその下にデータを追加すれば良い。整頓するのは面倒だったがこれで中身を把握しやすくなった。満足である。あとは正常に動いてくれることを願うだけだ。だいぶあれこれ弄り回したのでもしかしたら不具合が生じているかもしれない。そこが一番の懸念点だ。

あと、メインで使っていたTwitterアカウントを削除した。楽しい遊び場であったため名残惜しくもあったが、見えないながらも何と無く存在していた仕切りが無くなり、固定されていない鞄をぶら下げて走り回った後に鞄から取り出した弁当箱の中身のように、飯に煮物の汁が染みこんだり唐揚げにデザートが寄り添ったりとごちゃごちゃになり、整理整頓のしようも無いのでさくっと消した。分類表のようにはいかないものだがまぁ仕方が無い。しばらくはこのままのんびりやろうと思う。


2011年3月20日 (日) 緑茶カウント:2杯
お題:「魔法陣グルグル」

あれはおよそ二年前の話である。本屋で何と無く目についた、変わった絵柄の表紙の漫画を手に取ると、隅にある作者の名前にびっくり仰天。見慣れない絵柄のそれが読みなれた漫画家の手によるものあったのだ。絵柄の変化が激しい漫画家だとは思っていたが、こんなにも変わってしまっていたのか。

作者の名前は衛藤ヒロユキ。魔法陣グルグルの作者である。

グルグルはアニメから入ったクチだ。毎週毎週テレビの前で楽しみにしていたのに、唐突にニケとククリが魔王ギリのもとへ行くのをやめ、番組が終わってしまったときは大きなショックを受けた。「打ち切り」を目の当たりにしたのは恐らくあれが人生で初めてだと思う。あの時、己は世の中の厳しさを知り、少しだけ大人になったのだ。

我が家は盆と正月に九州の祖父母の家に帰省する。その際、旅のお供に空港の書店で一冊だけ漫画本を買ってもらえることになっていて、大抵ぷよぷよ、カービィ、マリオ、ポケモンあたりのゲーム四コマアンソロジーを買ってもらっていた。四コマなら続きの巻の心配をしなくて済むからである。ところがある時の帰省の折、どういう気分の変化か知らないが、魔法陣グルグルの六巻だけを買ってもらい、六巻だけを読んだのだ。

小遣いに限りがある故、なかなか今のように単行本を揃えることは出来ない。前後の話がわからないながらも楽しく読めたが、買い集めるまでには至らず、しばらく我が家には六巻だけがポツンと書棚に置かれていた。その間何度か古本屋に売ろうとしたが、タイミングを逃し続け、これまた何がきっかけだったのかは覚えていないがグルグルを買い集めようと思う機会が生じ、やっと一巻二巻三巻四巻五巻、七巻以降が我が家にやって来て、アニメで描かれなかった先の物語まで知ることが出来たのである。

そして今、多くの漫画本は実家に置いたままであり、魔法陣グルグルもそのうちの一種であるため、再読出来ない状態にあるのだが、こうして意識させられると数々の名台詞が思い出され、読み返したくてたまらない気持ちになっていてとても歯がゆい。グルグル好きだったなぁ。ちなみに一番好きな絵柄は六巻あたりの絵柄である。それはやはり、長らく目にしてきたものだからかもしれない。


2011年3月21日 (月) 緑茶カウント:2杯

●Twitter関係の方々へのご挨拶。

どうもこんばんは、ウヲです。

突然Twitterアカウントを削除したことで、驚かせてしまったようですみません。
アクセス解析を見たところ、Twitterアカウント名で検索してお越しの方々が数日前からガンガン増えてきたので、「あ、これはまずい」と今更になって思った次第です。

己はどこか自分のことを過小評価する癖があり、「まぁ自分がTwitterからいなくなったくらいじゃ特にどうってこともないだろ」とこれまた軽く判断し、また、Tiwtterアカウントを削除してもサイトはこのままあるわけだから、連絡をとろうと思えばとれるわけだし、ネットから完全にいなくなるわけじゃなし、と思い、深く考えずに削除しました。よくよく考えてみれば地震の直後、一日ネットから離れていただけで心配の声を頂いたのだから、挨拶も無しに削除すりゃあびっくりしたりショックを受けたりする方もいるだろうに、考えが及びませんでした。

削除理由の一側面は数日前の日記にちょこっと書いたのですが、もっとわかりやすく言うと、小学校の友達、中学校の友達、高校の友達、大学の友達、サークルの友達という各グループが、今まではそれぞれが関わり合うことなく分断されていたのですが、迂闊にも自分が橋渡し役をしてしまったことでそれぞれに関係性が生じ、場所によって付き合い方、振舞い方を変えることが困難になり、やりづらくなってしまったためです。無論これは例え話ですが、何かそんな感じのことです。

ちなみに挨拶無しに削除を決行したのは、「もう面倒くせぇ!!」と衝動的になったせいですが、削除しますと宣言することにより生じるであろう、引き止める引き止められるといったやりとりが気を引いているようで恥ずかしかったからでもあります。

しばらくは試行錯誤しつつこのままゆっくりする予定ですが、良い方法が浮かんだらまた遊びに行くかもしれませんので、良かったら遊んでやってください。

以上。長々と駄弁りました。


2011年3月22日 (火) 緑茶カウント:2杯
カップラーメンを作るのに失敗した。思わず頭を抱えた。カップラーメン。熱湯注いで三分待つだけのカップラーメンを失敗した。作るのに。いくら何でも間抜けが過ぎるだろう。カップラーメン。

具体的にどのように失敗したかは、内緒だ。


2011年3月23日 (水) 緑茶カウント:3杯
やるべきことが出来たので非常に満足している。やってやったぜと触れ回りたい気分だ。しかし、時は夜。触れ回る相手もおらず、触れ回る元気も無い。一日中根をつめて作業していた疲れが塊になって押し寄せてきて、今すぐにでも布団に倒れこんで何も考えずに眠りたい。が、筋トレと服薬をしなければならぬので、布団に落ちるのはもう少し先だ。あぁ疲れた。よくやった。さぁスクワットだ。よくやるよ。


2011年3月24日 (木) 緑茶カウント:0杯
カマドウマのことを忘れているわけではない。忘れているわけではないが、今日は非常に疲れているので眠りたいので眠るので世界人類よ、良いカマドウマの夢を見るが良い。溢れ変える便所コオロギの夢を。


2011年3月25日 (金) 緑茶カウント:2杯
思い立って自分の本名で検索をかけてみると、出てくる出てくる、日本中に存在する同姓同名の情報が目の前のパソコン画面に続々と表示されてゆく。自分は名字も名前も自然物という、ごくありふれた名前の持ち主だ。下の名前は読み間違えのしようが無いほどポピュラーで、大概クラスにもう一人同じ名前の人がいた。そのため、己は小学校から今に至るまで、ずっと名字、もしくは名字由来のあだ名で呼ばれている。下の名前で呼ぶのは家族・親戚くらいである。

よって、家族以外から下の名前で呼ばれることに慣れておらず、たまに知り合ったばかりの人に下の名前で呼ばれても、それを己の名前と認識出来ず、反応出来ないことが多々ある。己にとって自己を象徴する名前は名字であるのだ。

とはいえ下の名前が嫌いというわけではない。ただ人に呼ばれるのは名字の方が好ましいだけのこと。ありふれた名前だが、読みやすく、良い意味を持ち、字面も悪くないので気に入っている。しかし自分は気に入っているのだが、名字しか知らなかったという人に下の名前を教えると、たまに「イメージに合わない」「普通すぎる」と言われることがある。それではどんな名前なら納得出来るのかと問うてみるとなかなか突飛な名前が返ってくるが、いやいやいやいや、平々凡々で結構結構。変わった名前はネット上でいくらでも名乗れるので実名は普通で、と思うのである。


2011年3月26日 (土) 緑茶カウント:0杯
久し振りに酒を大量に呑んだ。十杯ほど、ビールとカクテルをいただいた。学生時代、主に気の置けない友人と飲むときは、気が緩んで次々と呑んで潰れてしまうことも多かったが、最近は自重して呑む量をセーブしていた。が、今日はちょいとハイペースで次々と。しかし潰れないように気をつけつつ、ビールとカクテルの二種だけを十杯ほどいただいた。もっと呑みたい気持ちもあったが本日はこのくらいで。今も酔っている。酔ったまま友人に電話をしてしまった。布団の中にいる友人に。何と迷惑なことだろう。でも己は話したかったんだ。他愛の無い話をしたかったんだ。他愛の無い話ばかりをしてしまった結果、伝え損ねたこともあるのだが、それはまた次回に自戒して。今も喋りたい。どうでも良い話を、深夜の二時が近いというのに。アルコールの力だろう。そういう心持なんだ。

地震以降、精神がいくらか不安定になっていることを自覚している。阿呆みたいだが、毎晩、もし自分が実家にいて、被災にあって、飼い猫の処断を迫られたらと想像しては眠れなくなり、苦しい気持ちを募らせている。もし、飼い猫が奇跡的に助かっても、食べられるものを与えることも出来ず、処分を余儀なくされたらどうするだろう。そんなことを考えては深夜に涙を浮かべている。彼女は宝物に等しい存在だ。とても大事な存在だ。傍にいるだけで幸せを感じられるが、彼女は猫に他ならず、ペットに他ならず、余裕が無い状況では彼女の身の安全を守ることは出来ない。それが恐ろしくて己は眠ることが出来ず、不安にかられ、想像の中で恐怖を感じながら日々を過ごして消耗していた。

そんな己を救ってくれたのが道端で偶然見かけた大道芸人の二人組だ。楽しい音楽に乗せて見事な笑いを演じてみせる二人に確かに己は救われた。心から笑い、手拍子をし、夢中になって彼らに魅入った。有難いと思った。今こそ、必要とされているのはお笑いの方々だろう。笑うことで何と気が安らぐことか。どれだけ心が軽くなるか。彼らもきっと、今のご時勢にと厳しい言葉を投げかけられる機会もあるだろうことだが、どうか、己のように鬱々としている人間のためにも、苦しみを感じている人間のためにも、活動を続けていっていただきたい、と思った。今日は良く、眠れそうだ。


2011年3月27日 (日) 緑茶カウント:3杯
お題:「カマドウマ」

もしも己の属する種族が、別の生物によって「便所ザル」などと呼ばれていたら、ちょっと命名者の胸倉を掴みたくなるかもしれない。

カマドウマ、別名便所コオロギ。長い後ろ足とプリプリの太ももがチャームポイントのちょっと気色の悪い虫だ。己は特別嫌いでは無いが、図鑑を眺めてしみじみと気色悪いなぁこいつ、と思うので、虫が嫌いな人からすれば台所でも物置でも無く便所の名前を付けたくなるのもきっと詮無いことだろう。それにしたって可哀想だが。

何でこんなに気色悪いのかと分析するに、ゴキブリを連想させるテラテラの色合いと、やはりあのプリプリの後ろ足が原因では無かろうか、と思う。こいつが百倍くらいのサイズだったらフライドカマドウマなんつってプリプリの太もも部分は美味しい部位として人気が出たかもしれないが、あいにくサイズが小さいので食べ物として愛されることも無いだろう。

そういえばいつだったか、我が家にもカマドウマが出たことがあった。出た場所は便所ではなく脱衣所だったと記憶している。脱衣所コオロギ。これはこれで覗きを働いているようでよろしくないな。


2011年3月28日 (月) 緑茶カウント:0杯
明け方の四時に布団をトントン叩いて染み抜きをする、この気持ちをおわかりいただけるだろうか。くそ眠い中、白く部屋を照らす蛍光灯の灯りとは反対にぼうと靄のかかる頭。睡眠を強制中断された体は鉛のように重く、台所用洗剤を染みこませたティッシュに水を含ませに行くのも億劫だ。しかし、残った理性が己を台所へ向かわせる。くそ、何で気付いてしまったんだ。今染み抜きをしないと染みがつく、なんてことに。気付かなければそのまま眠ってしまえたのに。気付いてしまったら染み抜きせざるを得ないじゃないか。

ボサボサの頭でベッドの横に座り込み、一定のリズムでトントントンと布団を叩く姿は傍から見れば妖怪の類にしか見えないだろう。そうさせた鼻の粘膜が憎らしい。昼間、花粉症の薬をもらいに耳鼻科に行き、鼻に入れられた細長い機械に鼻を突かれて内部で出血。医者に行って何故己は鼻血を出しているのか。昔は鼻血を止めに耳鼻科に行っていたというのに、これでは全くの正反対ではないか。そして明け方、鼻の奥の違和感に気付いて目が覚めて、反射的に鼻を押さえた直後に出血、しかし間に合わず、一滴だけが布団に落ちて、それを己は叩いている。台所用洗剤と水を染みこませたティッシュを丸めた塊で。血液は蛋白質だから台所洗剤で落ちるのだよ。トントントントン。あぁ、しんどかった。


2011年3月29日 (火) 緑茶カウント:2杯
珍しく珍しいものへの意欲が湧き起こっている時に限って他にやらねばならないことがあるなんて!

やらねばならないことへ対する意欲も強くあるのだが。タイミングが悪いものである。あぁ、もうこんな時間だ。追いつかないものである。困ったものだ。焦るなぁ。




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