2010年6月1日 (火) 緑茶カウント:6杯

待ちに待った筋肉少女帯再結成後三枚目となるニューアルバム、「蔦からまるQの惑星」を手に入れた。正確な発売日は明日だが意気込んで一日前にフライングゲット。三月のライブで新曲を聴いてからずっと願っていた、早くアルバムを手に入れたいという欲求がやっと充足された。
次の日曜にインストアライブが行われるということで、チケットを手に入れるため事前に新宿のタワーレコードで予約をしていた。そんなわけで新宿まで電車に揺られてゴトゴト出かけ、帰りにオーケンの衣装が展示されている渋谷のHMVに寄るために途中下車をし、ついでに新茶を買って帰宅するという算段だ。定期の残高を確認し、意気揚々と電車に乗り込んだ。
新宿のタワーレコードに到着すると、おお、筋少のスペースが作られている! ジャケットが見えるようにずらずらと並べられ、視聴用の機械と小さなテレビ画面。そこには「アウェー イン ザ ライフ」のPVと思われるものが! PVもちゃんとあったのかー! アニメーションと実写を組み合わせたPVだ。実写はオーケンだけのようで、アニメになった橘高さんのギターソロでの指使いが、奏でられる音に比べてゆったりしていてちょっと笑ってしまった。アンバランス。
ふと気付くと店内にも「蔦Q」からの曲が流されている。CD屋で筋少の曲を聴けるってのは嬉しいなぁ、と喜んでいたのも束の間、「アウェー イン ザ ライフ」が終わったところでどこかで耳にしたイントロが。これは恐らく「ワインライダー・フォーエバー」の筋少版だ! 原曲は聴いたことがあるが、筋少版はラジオで流されたときもアルバムで聴くときの楽しみのために回避していたのだ。ここでネタバレを食らうわけにはいかない! ということで、聴きたくてたまらないのを我慢してイヤホンを装着し、ポルノグラフィティを聴きながら予約票を持ってレジに並んだ。危機一髪である。
無事アルバムとインストアライブのチケットを入手してそのまま渋谷へと向かう。間もなくHMVに到着し、さてどこか、と探せば入り口近くに見慣れた特攻服の姿を発見。これが笑ってしまった。
透明な直方体のケースの中に頭部の無い白いマネキンが立っていて、それがオーケンの特攻服を着ているのだが、ガラスケースの側面によりにもよってでかでかと「人間嫌いの歌」の歌詞が書かれているのである。そして同じ歌詞が特攻服にも書かれている。よりにもよって。よりにもよって。人間嫌いであることを強く主張したケースに包まれた大槻ケンヂの特攻服。これ、筋少をよく知らない人が見たらどんな印象を受けるのだろうか。
衣装の方をまじまじと見ると、意外にももこもこした表面だった。いかにも冬服用の素材のようで見るからに熱そうだ。こんなものを着てライトを浴びながら歌うってのは大変だろうなぁ。もっと薄い生地にすることはできないのだろうか、なんて余計な心配をする始末。橘高さんの衣装はもう少し涼しげな生地が使われているのだろうか。
衣装をじっくり眺めたら後は緑茶を買って帰るだけだ。高鳴る胸を抑え逸る足を落ち着かせて帰宅。CDプレーヤーが無いためノートパソコンの電源を入れ、CDを突っ込み、イヤホンを耳に挿した。再生ボタンを押す。
それから風呂に入る時間を除いて今の今までずっとアルバムを聴いていた。一曲だけと思っても途中で止めることができなくて延々と最後まで聴いてしまいの繰り返し。ようやくイヤホンを外して日記を書き出したところである。
アルバム全体の感想を言うなら、華やかで賑やかで遊び心もあって、とにかく前向きな印象を受けた。四十数年生き抜いた人間の強さを感じると言えば良いだろうか。いろいろなひどい目やトホホな思い、辛いこと悲しいことを乗り越えて今を楽しんでいる人達が、さらに新しいものを取り入れて、立ち止まらずに前へ進んだことで出来上がった作品であるように思える。これは前作の「シーズン2」からも感じた。再結成後の前向きな筋少がここにある。
ただ、「月光蟲」や「ステーシーの美術」のような歌詞世界を求めている人には受け入れられないかもしれない。閉塞的で陰鬱な空気はこのアルバムからは感じられない。人によって筋少に求めるものは違うし、筋少たりうると考えるものも違うだろう。アングラでドロドロしたやりきれなさこそが筋少と考える人は「筋少らしくない」と思うだろうなぁ。だが、それも良し。
そうだ、らしくない。「蔦からまるQの惑星」は「シーズン2」に比べて筋少らしくないと自分は思った。まず発売前に発表された曲名を見たとき、次にアルバムジャケットを見たとき、最後に曲を聴いたとき。そして初めは違和感を抱き、それから不安を覚え、終わりに不安を解消されて違和感を受け入れた。多分、「エリーゼのために」が発表されたときも、こんな風に感じた人はいたんじゃないかな。だが、エリーゼの路線が今では筋少の要素の一つになったように、「蔦Q」の路線も筋少の魅力の一つとして消化されるだろう。もちろん人によって好みはあるのだから、「筋少はシスベリまでしか認めない」「再結成後からは何か違う」という意見もあるように全てが全てとはいかないだろうが、きっと「これも筋少!」と受け入れられると思うね。
では、そろそろ一曲一曲の感想を書いていくかな。
アウェー イン ザ ライフ …橘高さんの二十周年記念アルバムに収録された一曲「DESTINYをぶん殴れ!」の歌詞を書き換えたもの。よってこれがまた違和感絶大だったんだよなぁ。「DESTINYをぶん殴れ!」が気に入っていただけにね。ライブで初めて聴いたときも、どうしても脳内でそっちの歌詞が再生されて混ざってしまうのだ。また、ローディーの台詞が若者言葉であるため今までのオーケンの書く歌詞の文体と比べるとやたら軽く感じられ、正直不安な一曲であった。だが何度もライブやラジオで聴いたことで慣れたこともあり、イントロの格好良さ、ぎゅんぎゅんぎゅんぎゅんと繰り返されるギターの音にはまっていつの間にやら違和感なんぞ消えてしまった。アウェーだからこそ逆境を乗り越えて敵を味方に変えてしまえという歌詞は若いうちには作れなかっただろうなぁ。今の筋少だからこそ作れる力強い一曲。
レセプター(受容体) …「蔦Q」唯一の内田曲。つっても「捨て曲のマリア」はほとんど内田さんが曲を作ったものらしいが。これはのほほん学校での話である、と一応な。さて、レセプター。こいつがどんはまり。何と言っても曲が最高! じゃんじゃんじゃん、ハァッ!! ってところが大好きだ。歌詞については、尼僧大迷惑だな! と思った。まるで痴漢冤罪のようである。曲を聴く前タイトルだけを見たときは静かな曲かと思ったが全然違って驚いた。ご機嫌ノリノリな曲調だけど神父は磔。ひでぇ。ところで筋少ではない話なのだが、水戸華之介&3-10Chainの「A・E・D・D」という曲に「神様よりも好きだった」という歌詞があり、それがまた悲しく切ない曲であるために、歌詞が少し重なるせいで相乗効果で切なさが倍増している。自分の中だけで。こんなこともあるのだ。
ワインライダー・フォーエバー(筋少ver) …いろんな意味でまさかな一曲。当初、アルバム収録タイトルが発表されたときは、ソロと筋少は分けてほしいなぁ、程度にしか思わず、特別期待も注目もしていなかった。ところが発売直前のラジオで思わぬ情報がオーケンの口より発せられて驚愕とともに頭上に浮かび上がるハテナマーク。何と「筋少メンバーが全員ラップに挑戦している」というのだ。ラップだと!? 何で? どこで? しかも全員が!? これはアルバムで聴くまでとっておかねばなるまいと曲が流れる手前でイヤホンを耳から外し、ものすごく楽しみにしながらアルバムを買いに行った。だって気になるじゃないか、ラップだぞラップ。そして聴いてみたら大笑いした。これはすごい! いや、全体的に男らしさが増していて骨太で格好良い曲になっているとか、「ウ、ハァッ!」の掛け声が気合が入っていて好みだとかあるのだが、ラップに全てを持っていかれた。橘高さんの声はわかりやすいなぁ。おいちゃんが一番ラップっぽく語っているように思う。語尾のあたりが。内田さんの「どんなに強い」って台詞は力がこもっててすごく良い。……これライブで聴くのが楽しみだ。わはははは。
家なき子と打点王 …気に入りの一曲! 蔦Qで一番好きかもしれない。タイトルだけを見たときはピンと来なかったが、ラジオで聴いてびっくりだ。声優がコーラスで参加という点も、いわゆるアニメ声や舌ったらずなロリボイスが苦手な自分にとって鬼門になるのではないかと不安、ってまた不安かよ、不安を抱きすぎだろ。とにかく、不安だったのだが、この声は好きです! ばっちりはまっていて良し! イントロはややゆっくりと思い調子で始まり、だんだんとテンポアップして小林ゆうとの競るような掛け合い、そして間奏では怒涛のギターソロとピアノソロのバトル! この間奏がたまらないんだ! ライブではきっとサンフランシスコのようなバトルを見せてくれるに違いない。歌詞も良い。筋少と「スポーツ用語」といういかにもミスマッチな組み合わせ。しかも野球。まさか筋少で「かっとばせー!」なんて声を聴くとは思わなかった。
爆殺少女人形舞一号 …期待の一曲。ライブで初めて耳にしたときの、背筋がゾクゾクと震える興奮を今でも覚えている。これを聴いたからこそ、これを聴いたから特に、このアルバムをどうにか早く手に入れたいと切望するようになったのだ。そのうえで、アルバムを手にするまで絶対にこれだけはCD音源を別の媒体で聴きたくない、とっておきたいと思った。美しいピアノの調べで始まる。ゆっくりとした曲調だ。そこに差し込まれるギターのドラマティックな重い音。だが一旦曲調は戻り、少々勢いが増したかと思えば唐突に始まるワルツ。可愛らしいオルゴールのような音色。そしてまた差し込まれるギター。ライブでは「油紙」という歌詞が印象に残った。ころころと変わる曲調にただただ圧倒され、魂を鷲掴みにされたような思いがしたと言っても言いすぎではない。また、こうして歌詞カードをじっくり読みながら聴くと、少女人形がくるくる踊る姿、それを見て喜ぶ客人達の姿が映像になって眼に浮かぶ。この可愛らしいお人形は人々を暗殺するために炎を踊らせ、共に焼け焦げてしまうのだろう、と自分は思う。死を与える者も平等に死を与えられるのだ。ところで、文中でワルツと書いたが、あれが正確にワルツであるのか音楽に詳しくない自分には実はよくわからない。もしかしたら違うかもしれない。でも、確かああいうのがワルツだったような気がするんだよなぁ。曖昧である。
あのコは夏フェス焼け …ついに筋少にも夏の歌ができたのか! これ、タイトルだけ見たときは「あのコ」イコール「恋人」かと思ったのだが、まさかの娘。さりげなく歌詞中でママが死んでいるあたりに、オーケンの「結婚はしたくないけど娘は欲しい願望」が如実に表れていると思う。何となく女性ボーカルの曲をカラオケで男性がノリノリで歌っているように聞こえる。爽やかな青春ソングだが、最後の一行があるあたり筋少というか、オーケンらしいよな。
暁の戦力外部隊 …「ね」で続くところが群馬の若者言葉のようで、思わぬところでノスタルジィに浸ってしまった曲。群馬の若者は「だからさー、それでさー、まるまるがさー、あーだって言ってたからさーそれは違うって言ったんさー」というように延々と「さー」を繋げて言葉が伸びていくのである。このリズムとそっくりだったんだ。いやーしかし、これをわかってくれる人が何人いるだろうか。歌詞の方はものすごく今の若者っぽい曲。戦力外通告された人々がようやく見つけた晴れ舞台で今こそやってやろうという内容なのだが、「やるだけさ」と言いつつこいつら絶対本気でやらない気がする。へらへらと笑いながら全員で横並びに歩いて勇ましいことを言って士気を上げつつ、歌詞が終わった後にはばらばらになっていそうな軽さがある。でもそれもあまり気にしていないというか。悪い意味でめげない性格の奴らの集まりというか。歌詞以外の話では、「仲直りのテーマ」や「元祖高木ブー伝説」の前にある「もういっちょお!」などのまるでライブのような掛け声がすごく好きなので、そいつが入ってて嬉しくなった。
捨て曲のマリア …大人っぽいムーディーな曲。作曲はオーケンになっているが、歌と手拍子だけ入ったデモを内田さんに渡して作ってもらったそうなので、内田曲にも数えられるかもしれない。これはやけに歌い方が好きなんだな。「嫌なコ〜」のところが良い。昔の恋人の亡霊から逃れられないことを苦しみつつ、捨て曲とはいえそこに収録したことで、どこかで忘れられないことを望んでいたのではないか、と想像が膨らむ。この曲から少しずつ、徐々に切なさが増えていく。これぞアルバムで聴くことの醍醐味だな。
若いコとドライブ〜80'sから来た恋人〜 …すみません。タイトルだけ見たとき、「あのコは夏フェス焼け」と共に、おっさんが若い娘とデートするロリータ・コンプレックス的な曲かと思ってました…。全くもって申し訳ない。実際はSFテイストの切ない曲。多くの筋少のラブソングに見られる「恋はいつか終わる」思想がここでも歌われている。陽気な曲と切なく寂しい歌詞の組み合わせって好きだなぁ。たった数時間の再会を経て彼女を再び失った瞬間出てくる言葉が「明日からどうしよう」というところに、思い出の美しさと、蘇った一瞬の思い出によって抉られた傷の痛さが感じられる。それでも「生きていこう」と言葉が出て、空を見上げることができる。自然、「生きてあげようかな」を連想した。「生きてあげようかな」の少女よりも「若いコとドライブ」の男は歳をとっている。そこに絶望しきれない強さと分別と、そのうえでの哀愁を感じて悲しくなる。ところで冒頭の語りはライブではどうなるのだろうか。語ってくれるのか音源から流すのか。あと、そんなにTwitterが気になるのかよ! と突っ込まずにはいられなかった。気になりすぎだよ大槻さん!
ゴミ屋敷の王女 …冒頭のコーラスがたまらない。これは歌詞に共感するんだな。ゴミ屋敷ってほどではないが、我が家も物は多い方だ。他人から見ればガラクタに見えるものも多いだろう。だが、それらの一つ一つが当人にとっては宝物であったりもする。幸せの形は人それぞれだということ、例えゴミ屋敷で一人息絶えたとしても当人にとっては幸せだったかもしれないこと。曲も歌詞もコーラスも優しく美しい。一人の魔女の存在を穏やかに肯定しているようだ。人によって違うそれぞれの幸せをどうしてそれが幸せか理解することができなくても、否定することはしない温かさが根底に流れているように思う。
ア デイ イン ザ ライフ …不思議だ。この曲単体で聴くと爽やかさしか感じないのに、アルバムを通して最後に聴くと切なさがこみ上げてくるんだ。終わる悲しさと切なさ、だけど最後じゃない。「またいつか」がある。「ツアーファイナル」に通じる世界観を歌った曲だ。「意外にまだ好きでいたら」なんて控えめな表現がオーケンらしくて、良い。照れ隠しのようで希望のようで、だけど完全に信じきってもいないようで、けれど最後に「アデイ」の繰り返しが「アゲイン」に変わる。ここで救われるんだ。
困難を覆しアウェーをホームに変えようという前向きな意志で始まり、ちょっとの寂しさと希望を残して終わるアルバム。生活の中にあるライブという非日常を走る、四十代ならではの力強いタフな姿勢と、重ねてきた別れへの切なさが描かれているように感じた。今までの筋少らしくはないが、過去に筋少が新しいことに挑戦して、同時にそれらも筋少の要素の一つとして受け入れられてきたように、このアルバムも「これぞ筋少」と言われるようになるだろう。なんて御託は置いといて、良いアルバムだ! しばらくはエンドレスリピートになりそうである。
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