4月      

2009年4月1日 (水) 緑茶カウント:3杯
ネタにした皆さんすんませんでしたァ!!

というわけで恒例のエイプリルフールでした。今年はほぼ一年前からやりたいものを考えてあったのですが、だらだらしてたら時間が無くなり、急遽サイトで交流のある方々のサイト名をネタにして詩を作っちまえと思い立ち、三日で作って燃え尽きました。すっげぇ疲れました。半端なく精神力を消費した…。

以下、それぞれの詩のあとがきのようなものです。


Caramel Baby
まず、嘘サイトの嘘管理人は「内向的で空想好きな女性で、少し変わった人物」という設定で、ふわふわした甘酸っぱい詩が彼女の基本スタイルで、たまに暗部のようなものが垣間見えるようにしようとしました。そして最初に書いたのがこれ。しかしこれが最初で最後の甘酸っぱい詩になりました。なんてこった。

RAT
すげー難産でした。当初、これも甘酸っぱい系で行く予定だったのですが、詩の内容を考えている間にまさかのサイト名変更。タイミングの悪さに一人うははははははと笑いながら、気づいたら甘酸っぱさとは程遠いものができあがってました。しかも後になって気づいたけどこれってまんま筋肉少女帯の「サボテンとバントライン」なんだよなー。オーケンの影響受けすぎだ。

White Vacation
一番最後に書いたものです。この頃になるといくらなんでも当初の予定と外れすぎだろと思い、せめて最後くらいは甘酸っぱい路線で行こうと頑張りましたが、結局最終的には登場人物が死人になってました。最初は冬休みを満喫するカップルを描く予定だったのに何でこんなことになってしまったんだ。

105円均一DarkSide
サイト名の「105円均一DarkSide Review」を勝手にいじりました。これは元々「Dark」がついていたので暗い系の詩にしようと決めていました。結構予定通りにできた方だと思います。

さばくのたまご
当初の予定では、絶望的な状況(さばく)にいるけど最後の希望(たまご)があるから大丈夫、という前向きなものになるはずでしたが、何故こうなった。

もっさりもさもさもっさり亭
いくつかギャグ系の詩を混ぜようと考えていて、これはかなり予定通りにできました。でも自分だったらこんな飲み屋には行きたくない。

可塑性論理構造体
今回一番悩んだのがこれです。だってサイト名の意味がよくわからない。わからないのにいったいどうやってイメージを膨らませればいいのかわからない。いっそそのサイトの管理人にサイト名の意味教えろと問いただそうかとまで思いましたが、後でつまらなくなりそうなので踏み止まりました。結局辞書を引きつつ無い頭をフル回転させてそれっぽいのを作ったつもりですが、書いた自分もよくわかりません。あと、書いた後にろくろの上でクルクル回って形を変える土粘土女の方がそれっぽかったかと思いましたが、疲れてたのでそのままにしました。

バーチャルナノマシンアイドル イヴ13歳
ありさちゃんシリーズです。ここから五つ全部同じ管理人さんのサイト名になります。いっそ今までのサイト名全てで書いてやろうかとも思いましたが無理でした。自分が初めて来たときは「矢吹健太朗を応援する会」という名前だったのでそのサイト名も使いたかったのですが、ぶっちゃけ何も思いつきませんでした。ちなみにこの詩に出てくる「イヴ」は、実在の作品のキャラクターともありさちゃんのサイトのバーチャルナノマシンアイドルとも関係ありません。

ブチ撒けろ!
後半に書いた詩です。最初書いたとき、納豆とテスト用紙の後は小動物がやってきて締めが残酷だったのですが、嘘管理人の精神状態が心配になるのでギャグに変更しました。

カンコン
布団に入ってうとうとしてる時に思いつき、そのまま書いて仕上げました。楽だった。

マイキャラ再生工場
終盤に書いたものです。これもどういう内容にするか悩みました。いっそ「マイキャラ再生工場」というサイトのテーマソングみたいなものにしようと思いましたが、あえてサイト内容とはかけ離れたものにしたかったのでやめました。

かつて色々やってたとこ
確か最後から二番目に書きました。書いた後、変な店が出てくる詩が十五個中三つもあることに気づき、己の中の無意識に何が眠ってやがるのかと思いました。

SMKK
二日目に書きました。「SMKK」という単語にどんな意味を持たせるか悩んだ挙句、それをそのまま詩にしました。結構無理がありますが一応後半部分の出だしは全て「SMKK」になってます。

ボスに贈るレクイエム
まさかそのままディアボロにするわけにもいかないし、というわけで「ボス」はあだ名ということで落ち着かせました。決まってからはすらすらいけました。

カンガルーコンテスト
結構最初の方に書いたものです。この頃はまだ「歌詞っぽくしよう」という思いがまだ頭の中に残っていました。しかし中盤あたりでその思いも脳内から綺麗に消え去りました。後半のぐだぐだっぷりが自分らしいので気に入っています。


以上です。それぞれの詩のページのタイトルをクリックすると元ネタになったサイトへ飛ぶようになっておりますので、是非皆様飛び回ってみてください。あーしっかし慣れないことすると疲れんなー。せめてもうちょっと早めに用意しときゃあ良かったなぁ。

何はともあれエイプリルフール終了。ありがとうございました。


2009年4月2日 (木) 緑茶カウント:2杯
アニメ毎日かあさんは残念だった。毒抜きは覚悟していたものの、正直あそこまでぬるいとは思わなかった。そりゃゴールデンタイムのアニメでマリファナだのアル中だの離婚だの学級崩壊だのは扱えないかもしれないが、それにしたってなあ。せめてもうちょっとテンポを早くしてほしい。紙にみっちり凝縮された怒涛のような勢いをアニメで再現してほしかったなぁ。

あと気になったのは初回で感動ネタやいい人ネタを入れすぎたことだ。ああいうのはサイバラの破天荒な芸風を知らしめてからでないと効果的ではないだろう。しかもその後にカニ母が来ちゃうからなぁ。普段のサイバラの芸風を知っている人間からすれば「はっはっはっサイバラったくしょうがない人だな」と笑い飛ばせるが、「いいお母さん」の姿しか見せてない状態でカニ母をやっても、何だこの非常識な母親は、子供が可哀想だろうと視聴者に思わせ、不快感しか抱かせないのではないだろうか。うーんもったいない。

毎日かあさんの面白いところはサイバラのキャラクターの面白さももちろんあるが、他にいわゆる「普通の家庭」とは違うところも大きいと思うし、アニメ化するにあたってそこは他の家族ものアニメと差別化を図る大きな武器になったはずだ。母親は漫画家で父親は戦場カメラマン、しかも途中で離婚したりするなんてそうそう無い設定だぞ。そもそもサザエさん、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃん、あたしンちでは母親が皆専業主婦な中で、兼業主婦の母親が主人公ってのはそれだけでも珍しい。ここらへんをうまく生かせば良さそうなのに、なーんかぼかして普通の家庭寄りにしようとしてるっぽいんだよなー。

これからどうなるかわからないが、是非「毎日かあさん」でアニメをやる意味があるような作品にしてほしい。それと…次回から実写はアニメの間に挟まないでほしいな…。むしろ実写はいらないから、アニメだけ見せてくれ…。あらゆるところが中途半端になりそうで初手から不安がいっぱいだ。サイバラ念願のアニメなんだから成功してほしいんだけどな。まあサイバラだったらこけても存分にネタにしてくれるとは思うけど。

あ、提供が高須クリニックだったのは笑った。やったら面白いとは思ったけど本当にやるのかよ。あの院長も名前をちょっと変えてアニメに出たりするのかな。まあ無難に一般の医者にすげ替えられそうだけど。キャラデザインに面影が残ってたら万々歳ってところかな。


2009年4月3日 (金) 緑茶カウント:2杯
シルバーチャリオッツのフィギュアを買ったぞ!



かっこいい!



後姿もかっこいい!



ブリッジもできるぞ。下に潜んでるのはカマキリ。

買ってよかった! すごい。承太郎よりも稼動範囲が広く、いろいろなポーズをとらせることができる。まさかブリッジができるまで肩を動かせるとは思ってなかった。すげー! チャリオッツすげー! しかも今回は承太郎にはついてなかった取説もついてきた。どこがどのように動くのか、どこは動かないのか書いてあるので非常に助かる。承太郎の時は少しずつ恐々動かしてたからな。あと承太郎の時よりパーツの付け替えがしやすい。ちょっとずつ改良を加えているのだろうか。

しかしいよいよ置き場所が無くなってきたな。とりあえず机の上に置いてはいるが、その場所は本来ノートパソコンを置く場所で、じゃあノートパソコンはどこに置くんだっつーとこたつの上に置きっぱなしにするしかなくなり、…何てこった。


2009年4月5日 (日) 緑茶カウント:3杯
人込みの中でイヤーカフスを落としてしまった。気づいてからできる範囲で探して回り、後日心当たりのある場所へ問い合わせの電話をかけてみたのだが結局見つからなかった。まあ覚悟はしていたのでこれは諦めるしかないが、問い合わせの段階でイヤーカフスについて説明するのはなかなか骨の折れる作業だった。

イヤーカフスとは耳の外側の耳殻の部分にはめるアクセサリーだ。自分はこれを気に入って愛用しているのであるが、いかんせんピアスやイヤリングよりも知名度が低いうえ、パッと見はアクセサリーというより何かの部品の一部にしか見えないためこういう風にイヤーカフスを失くした場合などにその形状を理解してもらうのに苦労せざるを得ない。まずイヤーカフスというアクセサリーがあることから説明しなければならないことがほとんどなのだ。



というわけで今日はちょっとイヤーカフスの紹介をする。ちなみにこれが一番シンプルな形のイヤーカフスだ。多分イヤーカフスの基本形がこれ。上から見るとCの形をしていて、穴の部分から耳にはめて使用する。こういう形状をしているため落としやすいのが難点だ。



で、中にはこんなものもある。少しわかりづらいが、右側がトンボで左側がトカゲかヤモリかイモリか何か。他にもこれの動物のついている箇所に宝石をつけたり、リングの部分に装飾を施したり、リングをいくつも重ねたりといろいろなデザインのものがあって楽しい。



そしてこれが今回失くしてしまったもの。Gペンの形のイヤーカフス。前に実家に置き忘れ、数ヶ月ぶりに実家に帰って手に取ったらものの見事に錆びていて、あまりの錆びっぷりにちょっぴりテンション下がってどうせなら記念に写真撮ってやれという自暴自棄な気分のときに撮影したので汚い色をしているが、その後銀磨きで磨いたら綺麗な色を取り戻した。失くしたけど。ペン先部分が耳殻をすっぽり覆うつくりになっている。余談だがこれはジョジョを知る前にこんなイヤーカフスがあったら面白いんじゃねとオーダーメイドしたもので、後にジョジョにはまってから岸辺露伴の存在を知り、時系列的には逆なんだけどなんとなくつけ辛くなってしまったといういわく付の品だ。失くしたけど。

ちなみに失くしたイヤーカフスは別のイヤーカフスと共に今日注文した。諦めがいいんだが悪いんだかわからない。


2009年4月6日 (月) 緑茶カウント:0杯
夢の中で、自分は外見、身長、服装こそ現実のままなのだが中身が思いっきりチンピラになっていて目が覚めてから軽く凹んだ。どっかの田舎の食堂のテーブル、っつっても形状は会議室に置かれる長机のようなものなのだが、誰もいなかったので自分はそこに落ち着いていた。

すると後から三人ほどの同年代くらいの女の集団がやってきて席に着いた。多分面識は無い。夢の中の自分は特に気にせず鞄から英語の教科書を取り出したのだが、それが基礎編か何かの教科書で、正面にいた女がそれを見てあからさまに馬鹿にした。

で、なんかカチンときた自分はそれに対して何かを言い、そしたら口論に発展し、三対一でギャンギャン言われることにさらに腹を立たせ、横に座っていた女の横っ面を思いっきり拳で殴り抜いていた。その後はその女と一対一の喧嘩になったのだが、夢の中でも自分のスペックは現実のままらしく、心の中でやべーやべー絶対本気でやったら負けるしやべー、と思いつつ、うまく逃げる方法を考えながらも虚勢を張って暴力を振るっていた。

最後の方では自販機の飲み物のかけ合いか何かになり、白い鞄を持っていた自分はそいつにシミができないかどうかということばかり気にしていた。そして目が覚め、同時に凹む。うわー夢とはいえ何だこの人間のクズっぷり。しかも弱いくせに強いふりして暴力振るいまくって内心ビクビクしてるってのがすげえしょっぺぇ。思わず頭を抱えてしまった。結構ダメージでかかった。


2009年4月7日 (火) 緑茶カウント:2杯
毎度おなじみ四月馬鹿アンケートの結果はこちら。

  もちろんこの日を狙ってきた。 …9
  当日来てないんで何のことだかさっぱりですよ。 …2
  いや、すっかり忘れてたから驚いたよ。 …1
  人のサイトをネタにしやがってこの野郎が! …1

わーい驚いてくれた人がいたよー。ありがとう。あなたのために詩を書きました、と言うと言いすぎなうえに愛の告白のようだけどまあとにかく楽しんでもらえたようで嬉しいことこの上ない。コメントや拍手もありがとうございました。拍手お礼がまた馬鹿な替え歌ですみませんでした。あれは自分でもひどかったと思う。申し訳ない。

ちなみに偽サイトの名前「プレディカドール」はスペイン語でカマキリという意味でした。なんかお洒落っぽいというだけの理由でそれにしたので深い意味はない。ついでに逃亡前のサイトもそろそろいいかなっつーんで綺麗さっぱり削除しときました。新しいサイト名考えたらまた引っ越します。忙しなくってすみません。


2009年4月8日 (水) 緑茶カウント:2杯
妄想の話。

カップルか何かの男と女がいちゃいちゃしてて、男が女の顔中に唇を落とすんだけど、それはキスをするという意味ではなくそのまま本当にいくつもの唇をぼとぼと女の顔面に落としまくってて、しかもそれらは上唇と下唇がバラバラになってるから一見すると赤い芋虫にしか見えないわけだよ、で、顔中に唇を貼り付けた女が、いったいこれらの唇はどこから調達して来たのかと男に問い詰め、男は女の質問には答えずうっとりとした表情で、まるでゲゲゲの鬼太郎第一巻に収録されている「悪魔ベリアル」のベリアルが分裂した姿の一つのようだとため息を漏らし、スーパーのビニール袋に手を突っ込んでさらに女の顔を彩るため唇を取り出そうとする。

それを聞いて女は憤慨。あなたまた水木しげるのことを考えてたのね! 私と水木しげるのどっちが大切なのよ! と体を起こしながら怒鳴り散らす。男は唇を掴む手を止めて、そんなの選べるわけないだろうと答える。もちろん女は納得しない。あなたっていつもそう! 二人きりの時くらい水木しげるのことは忘れてよ! 馬鹿! そんなに水木しげるが好きなら水木しげると結婚すればよかったじゃない! 涙を流す女。起き上がったため顔に張り付いていた唇のいくつかは床にぼとぼと落ちている。

男は悲痛な声で叫ぶ。馬鹿を言うなよ! 御大が…御大が既に結婚していることは君もよく知っているだろう! 唇を握る手が震える。女が叫ぶ。ええ、知ってるわ! あなたに散々水木しげるをすすめられたもの! そのくらい覚えていますとも! それよりあなた、水木しげるが既婚か未婚かよりもっと他に気にかけることがあるんじゃない!?

俯いていた男が顔を上げる。その目には涙が滲み、彼の視界はぼやけているため唇だらけの彼女の顔がよく見えない。ああ、だが、そんなことはどうでもいいくらい、俺にとって御大は大切な人なんだ。雲の上の存在なんだ。そして…その御大と同じくらい君のことを愛している…と、震える声で言葉を紡ぎ、さらに続ける。だから…俺の愛する御大と君を同時に愛すことができないかと考えたんだ…。その声は消え入るようで力がない。女は男の真意を知り、そっと男の持つビニール袋に手を添え、中身の一つを取り出した。〜〜Happy end〜〜

以上。今日の夕方くらいまでこれで小説でも書いてやろうかと思ってたが踏み止まってやめにした。正しい判断だったと思う。


2009年4月9日 (木) 緑茶カウント:4杯
資料として正面から見た脳みその画像が欲しかったのに、画像検索したら赤の他人の脳内メーカー結果ばかり出てきやがる。この野郎!

ついでだから遊んできた。脳の半分ほどを占めている怒りはきっと目当ての画像が手に入らないことによるものだろう。冗談だ。そこまでは怒ってない。しゃーない。ちょっくら図書館にでも寄ってくっかな。


2009年4月10日 (金) 緑茶カウント:0杯
いろいろなトンボの画像を見る中で、やはりオニヤンマが一番好きだと思った。何故あの緑の目玉はあんなに美しいのだろう。ついうっとりと見とれてしまう。標本にあの色を残せないのが惜しくてたまらない。生きている間にしか見られないなんて贅沢な色だ。


2009年4月11日 (土) 緑茶カウント:0杯
pixivの企画の筋少ちゃん祭りに参加したい。新アルバムの発売を記念して、筋肉少女帯の曲をイメージにイラストを描き起こすという企画だ。筋少の曲はばーっと情景や絵が想像されるものが多いのでとてもそそられる。しかし正直なところ間に合うかわからない。ちょくちょく描いてはいるのだがなかなかイメージを詰め込めないのだ。間に合えばいいんだがなぁ。どうだろうなー。


2009年4月13日 (月) 緑茶カウント:4杯
こたつに入る。
半纏を脱ぐ。
脱いだ半纏を適当に畳む。
そのまま半纏を枕代わりにしておやすみなさい。

というのがだいたいの仮眠をとる時のスタイルなのだが、これが結構気持ちが良いのでなかなかこたつを仕舞えない。とは言っても流石に最近は暑いので、こたつの電源は切り、半纏の下には半袖を着て部屋の中では過ごしている。季節感とはいったいどこに存在するのだろうか。わからない。

そもそも自分は春物らしい服というものをあまり持っていない。原色に黒を混ぜたようなハッキリした色が好きなので、春に着るものは秋にも使い、秋に着るものは春にも使うという有様なのだ。よって春と秋で違うところといえば生地が薄いか厚いかくらいなのだが、それすらさほど気にしていない。

それにしても最近の暑さはどうだろう。ぽかぽかをすっ飛ばしていきなり初夏になってしまったかのようだ。普段着ならばまだいいが、スーツは体温の調節のしようがないので大変だ。この分だとスプリングコートはいらないかもしれない。先走って購入しなくて正解だったか。


2009年4月14日 (火) 緑茶カウント:2杯
筋肉少女帯をあまり知らない友人に話の流れで橘高文彦の写真を見せたら、この人はおかまなのかと訊かれた。ちなみにその時見せたのはリンク先のトップページのものではなく、白と黒のふわふわドレスを着た写真だったのだが、…そうか、男性がドレスを着てるとおかまかと思われるのか。舞台衣装だから普通だろうと思っていただけにカルチャーショックだ。まさかそんな返答が来るとは思わなかったから驚いたなぁ。

その後こう見えてもこの人は四十代で子供が三人いるんだよと教えると友人は非常に感心していた。面白かった。


2009年4月15日 (水) 緑茶カウント:1杯
健康診断を受けた。身長がやや伸びて喜ばしく思う反面、かなりふんわり測られたのでいったいどれほど信用していいのかわからないがまあサービスとして受け取っておこう。保健指導ではおばちゃんにもっと早く寝るようにと注意され、気をつけますと答えたが既に現在二時を回っている。ここを見に来てくれている人の中にはここの管理人はいったい何時に日記を更新してやがるんだと思う方もいるだろう。ふはは。内緒だ。つくづく書き込み時刻が表示されなくて良かったと思う。


2009年4月16日 (木) 緑茶カウント:2杯


四月は奨学金の支払いが普段よりも遅くなるため、現在通帳の残高が寂しくなっている。加えて就職活動中によりどうしても交通費がかかるため、あまり無駄遣いはできない。そういうわけでここ数日、筋少のDVDを欲しい欲しいと思いつつも我慢していたが、ロック雑誌の表紙を筋少が飾り、さらには特集ページも組まれると聞いていてもたってもいられずHMVのドアーを開いた。

雑誌は問題なく購入することができたが、ついDVDコーナーにも引き寄せられた。ああ、あるある。欲しいなぁ。このDVDに収録されたライブには行ったけど、ものすごく楽しかった。オーケンがチョコを求めて十分くらいステージ上でぐだぐだしてて笑えたなぁ。歴代メンバー揃っての大釈迦は感無量だった。また観たいなぁ。

そうして散々悩んだのだが、どうせ今買わなくてもいつかは買うだろうし、いつか買うなら今買ったっていいじゃねーかと思って買った。ついでに帰宅後、五月に発売されるニューアルバム「シーズン2」の着うたが既に配信されていると聞いたので、「心の折れたエンジェル」と「人間嫌いの歌」をダウンロードした。人間嫌いの歌の歌詞のひどさに思わず笑った。これをアルバムタイトルにする予定だったなんていったい何を考えているんだ。早くフルで聴きたいものだ。


2009年4月17日 (金) 緑茶カウント:3杯
いつ手に入れたのか正確には覚えていないが、どっかのゲーセンのUFOキャッチャーで運良く取ることのできた目玉おやじの貯金箱が今日満杯になった。わくわくしながら開けてみると思った以上の金額が貯まっていた。嬉しい。

親父に五百円玉を差し上げるつもりで貯金していたのが良かったのかもしれない。財布に五百円玉があれば必ず親父の頭部に開いた穴からコインを差し入れ、無ければ釣り銭で五百円玉がもらえるように支払いをし、あってもさらに五百円玉がもらえるように札で支払ったりしていた。それもこれも目玉おやじが好きだからである。五百円玉を入れることでなんとなく親父を世話しているような気分に浸れるのだ。

今、親父の中身は一枚の五百円玉があるのみで、残りは別の貯金箱に移してある。よしよし、また一からやり直すぞ。早く親父を重くしてやろう。待ってろよ親父。


2009年4月18日 (土) 緑茶カウント:3杯
図書館帰りに、一度入ってみたかったバーになんとなく一人で寄ってみた。土曜日ということもあってかテーブル席の方は賑やかで騒がしく、店員さんも忙しそうだったが、おかげであまり気にされないので気楽に呑むことができた。持ってきた文庫本を読みながらポップコーンをつまみつつジントニックとグラスホッパーとゴディバミルクとギムレットを呑んだ。途中で頼んだピクルスが予想以上の量で、しかもあまり好きな味ではなかったため消費に苦労したがまた行きたい。のんびりするのに良さそうなところだった。


2009年4月19日 (日) 緑茶カウント:3杯
シェゾに「クーリングオフで!!!!」と言わせてみたい。


2009年4月21日 (火) 緑茶カウント:2杯

  人を嫌いになると 君の頭の上でいつもミラーボールがまわる
  クルクルクルと わかってるっていうのにマチ針を軸にして
  いつまでもまわりやがるんだ
  魚のウロコのいっぱいついた半魚人みたいな
  まぶしく光るあの球体はオレだ

UNDERGROUND SEARCHLIEという歌の一節。武装錬金のヴィクトリアの「アンダーグラウンドサーチライト」の元ネタとなったものだ。疲れるとこの詩がパッと頭に浮かぶことがよくある。

電車を乗り継いだり歩いたりするのは疲れるとはいえさほど負担にはならないが、知らない人と話さなければならない状況はひどく疲れる。それというのも自分は、我ながらどうしようもねーなと思いつつも、どうしても知らない人間と話すのが苦手で、極端に言えば知らない人間は全て嫌いなのだ。うーんどうしようもない。

別に人間嫌いのつもりもないし、ペシミストを気取る気もないのだが、昔からどうもだめだ。知らない人には会いたくない。しかし、それがいったいどれくらい昔から始まったのかと考えると、少なくとも小学生の頃はそんなことはなかったなぁ。ほとんど小学校の面子が繰り上がった中学時代も特にそのあたりを意識したことはない。強く意識しだすようになったのは高校に入ってからだ。

正直な話、自分には高校時代の「教室の中での」思い出はほとんど無い。二年の時を除いてクラスに友人らしい友人はいなかったし、ずっと孤立していた。だが、それを苦に感じたこともほとんどなく、在学中は楽しく高校生活を送っていた。一人で過ごすのは気楽だったし、何より部活が楽しかったからだ。

ただ、クラスでグループを作らなければならないときや、体育で二人組みを作るときはひどく苦痛だったのを覚えている。高校一年のときの遠足では人数の足りないグループに適当に混ぜてくれと頼むという他力本願ぶりを発揮したのだが、その遠足に関する思い出は何もない。どこに行ったかはかろうじて覚えているが何をしたのか覚えていない。多分何もせずにグループの後についていっただけだったのだろう。体育の二人組みを作る際は、先生と組むかひっそりとクラスメイトの輪の中から抜け出して壁に向かって練習したりしていた。この時先生が妊娠中で、お腹の膨らんだ先生を相手にバレーボールの練習をしなければならなくなり、もしもボールを腹に当ててしまったらどうしようというプレッシャーに恐怖したのはよく覚えている。

何だかこうやって振り返ってみるとものすごい暗黒時代を過ごしたように見えるなぁ。でも前にも書いたとおり、グループ作成と体育のとき以外は本を読んだり音楽を聴いたりして気楽に楽しく過ごしていた。それと孤立してただけで別にいじめられちゃあいなかったしな。クラスメイトの中にもたまに話しかけてくる人がいて、適当に会話をしたりしていた。だが、そんなクラスメイト達の名前は誰も覚えていない。

とはいえ、高二の時は少し話が違った。違う部活ではあるのだが、部活繋がりで仲良くなった友人と同じクラスになったのだ。それは本当に幸運だったと思う。というのも、高二では修学旅行があるからな。その友人達がいてくれたおかげで修学旅行は高一の遠足のときのようにはならず、いろいろな思い出を作ることができた。中学の時の修学旅行が楽しくなかった分、嬉しかったなぁ、って書くとお前中学時代も何かあったのかよとつっこまれそうだが、中学は中学で高校とはまた別の立ち位置だったのさ自分は。中学の話はまた後日しよう。しばらく思い出話でも続けようかね。

ちょっと部活の話に入ろうか。自分にとって、高校時代の思い出の大半は部活で占められる。ほぼ部活のために学校に行っていたと言っても過言ではないかもしれない。高一の始めに美術部に入り、以降受験シーズンを迎えても美術室に入り浸っていた。うん、そりゃ浪人するわな。この部活の思い出を話すのに欠かせない人物が一人いる。

それは入学前の話で、自分の志望した高校は電車に乗った上で、尚且つ自転車に乗らねばならない場所にあった。そのため通学用の自転車が必要になる。そいつを購入するために、とある自転車屋に親と共に自分は入り、そこで一人の人物と出会った。その出会いをきっかけに以降三年間、同じ部活に入り、クラスは一度も同じにならないまでもやたらとつるみまくったりするわけだが、当時はそいつのことを自分は嫌っていた。何故なら理由は一つ。知らない人間だからだ。

どーしようもねー!! ばーか! 自分のばーか! まぁ叫ぶのはさておき、その自転車屋でそいつと出会ったときは、すぐさま同じ高校で同じ新入生であるということがわかったので、とりあえず気軽に会話をした。その時気軽に話をしたのはそいつと自分が話すのはこれっきりだと思っていたからである。いわばお客様向けのサービストークだった。我ながら嫌な奴だな。

ところが入学後の高校で、自転車屋で出会ったそいつに声をかけられ、やたらと親しげに話しかけられるようになった。正直な話鬱陶しかった。もともと一人でいることを楽しめるうえ、当時はひねくれまくっていたため「何で話しかけるんだよこいつ」くらいに思い、家でも親に愚痴を零していた。そして情けない話だが、大学生になってもその気質は変わらず、サークルに入った当初親しく話しかけてくれた友人達をしばらく自分は避けていた。何故なら理由は一つ。知らない人間だからだ。

だが、その自転車屋で出会った友人と同じ部活に入り、最初は気が進まなかったとはいえ登下校を共にするようになるうち、少しずつ打ち解けていき、いつからかは自分はその友人に懐くようになって、自ら行動を共にするようになった。また、大学のサークルにおいてもそのパターンはそのまま適用された。

恐らく、というまでもないだろうが、自分はひどい人見知りで排他的なのだろう。だから自分の知らない人物や世界には触れたくない。関わりたくない。だが、妙なサービス精神は持っているため、一度きりとわかっている相手には饒舌に話しかけたり、笑い話を振ったりできる。…が、そういうことが重なるとひどく疲れるのだ。

というわけで現在就職活動まっただ中、いくつかの選考は通過し先には繋がっているものの、いつまで続くのかわからないため流石に疲れた。焦らないようにはしているし、一所懸命やるにしても気長に構えようとは思っているのだが、毎日知らない人と顔を会わし、いかに自分が優れているかアピールしなければならないってのはしんどいなぁ。疲れる。

つーわけでストレス発散も兼ねてこれから数日思い出話でもしようと思う。まあだいたい今日みたいな話が続くとは思うが、良かったらお付き合いください。


2009年4月22日 (水) 緑茶カウント:0杯
思い返してみると、中学卒業以降に出会った人々は、今は仲良くしていたり大好きだったりしているのに当初は皆例外なく嫌いだった。ああ、知らない人がいる、嫌なものだという気持ちが強く、壁を作って打ち解けようとしない。だから今親しくしている人は、ほとんどが壁を乗り越えてくれた人か、時間が経つことにより少しずつ壁が壊されていってようやく打ち解けていった人ばかりである。

もしも自分が孤独が嫌いで、一人でいることに耐えられないような性格だったらもう少し変わっていたかもわからないが、生憎と言っていいのか運がいいと言っていいのか、一人遊びや個人行動が好きで、団体を抜け出してふらふらすることに楽しみを感じる人間であるため、よりその傾向に拍車をかけてしまったように思う。だって何もすることが無くったって、くだらないことを考えていれば充分楽しめるものなぁ。全くお手軽にも程がある。

だが、全くストレスが無かったわけでもないかもしれない。高校生活を振り返ると確かに教室での思い出は無かったが、高校時代は自分にとって「とても楽しく充実したもの」だった。マイナスのイメージが率先して呼び出されることはない。それは昨日の日記に書いたとおり部活が楽しかったからであるが、月曜日の朝、自分は良く腹痛に苛まれることがあり、何度か遅刻することがあった。

当時は肉を食べ過ぎて腹痛を起こしているものと思っていた。日曜日には焼肉に行ったり、平日よりも豪華な料理を食べることが多かったからだ。そのため大量の肉を食べると腹を壊しやすいと思い込み、ビオフェルミンなどを飲んでいたのだが、大学に入ってからは月曜日に腹痛を起こすことは無くなった。それは単に成長し、体質が変わっただけなのかもしれない。ただ、今思うと、もしかしたらあの教室にいることが自分にとってストレスになっていたのかもしれない。

学校に行くのが嫌だなんて思ったことは無かったし、毎日が楽しかったんだけどな。それでも無意識のうちにストレスを感じていたのかな。

教室といえば高校三年の時、ちょっと不思議な関わりを持つ女の子がいた。何の為だかは正確に覚えていないが、うーん、受験勉強のためかなぁ。とにかく、高校三年の一時期、自分は朝一番に教室に来て自分の席に座っていることがあった。座ってるっつーか受験勉強のためなら勉強してたはずなんだけど。そして他に誰もいない教室に、程なくしてクラスメイトの女の子が訪れ、自分と彼女は二人きりになった。

最初のうちはおはようという挨拶を交わすだけだったと思うが、毎日それを繰り返すうち、彼女は少しずつ自分に話しかけてくるようになった。そして他愛のない話から始まり、いつしか恋愛相談をされるようになった。自分なんかにそんな相談をしてもろくなアドバイスはできないよと言ったのだが、それでもいいから意見を聞かせてくれと言われた。彼女は外国人の彼氏と付き合っていて、周囲に反対をされているが自分は彼を愛している、どうしたらいいだろう、といった内容だった。

どうするもこうするもどうしたらいいかなどさっぱりわからないながらも、当時の自分なりに思うことを彼女に述べた。だいたい彼女を肯定するもので、当たり障りのないものだったが、彼女はそれでも喜んでくれ、朝以外の時間にもにこにこしながらたまに親しげに話しかけてくるようになった。その彼氏の話はどうやらクラスメイトには話していないらしく、自分に相談することで何か彼女はほっとしているようだった。

高校を卒業してからは連絡をとっていないため、それっきり彼女がその恋人とどうなったのかは知らないし、彼女の顔も名前も覚えていないが、にこにこした笑顔の印象と、彼女の座っていた机の位置だけは何となく覚えている。


2009年4月22日 (水) 緑茶カウント:0杯
こうやって散々書いたとおり、自分はかなり偏屈な青春を過ごしてきたわけだが、幸運なことに一度として本当に一人きりになったことは無かった。いつも人には恵まれていて、それは今日まで続いている。だから基本的に、知らない人は苦手で嫌いではあるけれども、人間嫌いなわけではない。

一人でいることが好きであるという自覚は持ちつつも、それは全ての関係性を絶った上での話しでないことはよくわかっている。だから本当の孤独を愛しているわけではない。全く周囲から断絶されたいわけではない。ただ、ふらふらと遠くに行きたくなるだけであり、その頻度が高いだけなのだと思う。言ってみるならば。

これもまた我ながらクソ野郎だとは思うのだが、どんなに居心地の良い空間でもある程度の距離感が無いと耐えられないという悪癖を自分は持っている。そのため、大学一年のとき、夏休みを含めたとはいえサークルを四ヶ月ほど休んだことがあった。その期間は全くサークルに行かず、じゃあ何をしていたのかというと、ただサークルから離れて別の趣味に高じていた。そして大学三年次は就職活動を名目に休んでいたが、その裏で「そいつ」のサイクルが回ってきていたこともうっすらと自覚していた。

無論全ての人がそういった行動を許容してくれるわけではない。サークルの面子はもっとぶっとんだ人間がいたりしたため、自分の行動も注意はされたもののさほど大きく咎められなかったが、その悪癖が原因で疎遠になってしまった友人達もいた。それは大学内の同じ学科の人間で、似たような授業をとっては一緒に昼食をとるなどして一週間のうち五日ほどを共に過ごしていたのであるが、つい悪癖に乗せられて何かと理由をつけて昼食を抜け出したりしているうちに気まずくなった。今でも顔を合わすと気まずい。

現在は一人で昼食をとっている。たまにサークルの人間に声をかけられ、とある教室で皆で昼食を食べているから一緒に食べないかと誘われることもあるが、たまにならまだしも、毎日だとまた悪癖が出ることを予想できるためやんわりと断っている。悪癖を直せないなら悪癖がなるべく出ないようにするしかないのでそうしているという面もあるが、純粋に一人で食べる昼食を楽しんでもいる。強がりとかじゃなくってさ。好きな音楽聴きつつゆったり飯を食い、ぼーっとするってのはなかなか良いものだよ。周囲を観察するのも楽しい。無論、大勢で食べる食事も好きだけどね。


2009年4月22日 (水) 緑茶カウント:0杯
つっても、こんなことを繰り返していたらいつか皆愛想をつかして行っちまうかもしれないなぁ、と思う気持ちはある。それは寂しい。すごく寂しい。だけどしょうがねーなーと思う。

己の根底にはいつもこの「しょうがない」というものがある。しょうがない。どうしようもないからしょうがない。それなら受け入れるしかない。ある種の妥協で諦めでもあり、現状をとにかく受け入れる姿勢でもあると思う。努力して変えられるものもあるけれどどうにもならないものもある。だったらそのまま受け入れるしかない。その結果に起こることは、もうしょうがないものなんだ。

しょうがないんだったらもうそいつと上手く付き合っていくしかない。困り顔で苦笑しつつ受け入れるしかない。なーんてことを考えるようになったのはいつからかなぁ。なーんて考えてもいいけど、あんまり考えすぎると泥沼にはまるからなぁ。それが嫌なんだよね。

しかも泥沼にはまったからといって明確な答えが出てくるわけではない。ただ泥まみれになって呼吸困難になって身動きがとれなくなって体育座りで苦しむだけだ。だったら考えない方がいいし、なるべく意識しない方がいい。とすると「しょーがない」の出番となるわけだね。何でもかんでも考えりゃいいってもんじゃないのさ。

と、いうことに気づいたのはここ数年で、昔はもっと思考の渦にはまって身動きがとれなくなってしまうことがあった。昔は何かあると解決しなければと考え込んでいたし、きっと答えがあるに違いないと思っていた。今は考えるっちゃ考えるけど、埒が明かないと気づいたら「しょーがねーや」と思考を断ち切るようにしている。そうは言っても、いつもそれで割り切れるわけでもないんだけどね。どっちかっつーと言い聞かせるようにしてんのかな。大人になったんだね。


2009年4月22日 (水) 緑茶カウント:2杯
思う様書き散らしたら何だかスッキリしてしまった。まあ付け加えてみるならば、高校時代の自分ってのは筋肉少女帯の「蜘蛛の糸」とか武装錬金の「蝶野攻爵」的な人物ではなく、変に悪目立ちしていてやたら名前が知られており、かといって避けられているわけでもなく興味本位で話しかけてくる人もいるが、教室では自ら望んで関係性を築こうとしなかったためだいたい孤立していた、というような感じだった。変人扱いされていたような気がする。

あと変人扱いされていた一方でやたらと懐いてくる後輩というものもおり、その子には神様先輩と呼ばれていたのだがあの子はいったい何だったんだろう。後輩であるためもちろんクラスは違い、同じ部活でもなければ委員会でもなかったが、膝を立てて座った状態で祈られたことがあった。そしてそのように神様先輩と呼ばれているのを目にしたクラスメイトの一部が真似をして様付けで呼ぶようになり、より変人扱いに拍車がかかったことがあった。しかもそれが定着した。

また、何故そのように変人扱いされていたのかと問うならば、今にして考えてみればまさしく自分に問題があり、そりゃ無理もねーなと思わずにはいられなかったことを度々していたのでこれについては何も弁明できない。しかし変人扱いされることを望んでいたわけでもなく、単に何を言われたって知ったことかと周囲を気にせず好き勝手やっていただけだった。落ち着いたのは高校を卒業し浪人期間に入ってからだ。そして現在は悪目立ちしないように気をつけて普通の中に溶け込むように暮らしている。ちょっとは周りを気にするようになったのだ。


2009年4月23日 (木) 緑茶カウント:2杯
朝、っつーか昼、テレビのニュースで草g剛の件のあれを知って大笑いした。そして家を出るときに耳にはめたヘッドフォンから流れた音楽が偶然たまの「全裸でゴ・ゴ・ゴー」だったためまた笑ってしまった。

ちなみにこのニュースは我が家では概ね好評だった。はっはっは馬鹿だなー。


2009年4月24日 (金) 緑茶カウント:4杯
コンビニエンスストアに寄り、目当ての商品を手にしてレジで会計を済ませているときふと隣のレジに目をやると、サラリーマンらしき姿の男性が籠いっぱいに詰め込んだシュークリームを購入しているところで、レジの娘さんがものすごく一所懸命にシュークリームの数を数えていた。

店を出るときに覗き見ると会計金額は約二千三百円。二十三個ものシュークリームを購入したあの男性はこれからどこに向かうのだろうか。時刻は夕方から夜に差し掛かるあたり。まさか一人で食べるのか、そんなにシュークリームが好きなのか、それともこれから何かの集会でもあるのか、などなど気にはなったがその男性に話しかけない限り真相はわからない。

もちろん話しかけなかったが、気にはなるものの珍しいものを見られたのでそれで良しということにした。面白かった。


2009年4月25日 (土) 緑茶カウント:2杯
大学のとある授業の課題で恋愛詩を書いてくるようにと言われた。恋愛詩。恋のうた。自分がとったのは創作文芸の類の授業ではなく、主に近代の文学を研究する授業であったはずなのだが、先生の趣味で作文やら詩やらがやたらと宿題に出される。それで今回出されたのが恋のうたというわけだ。しかも二行で書けという。

正直これは難しい。恋か。恋といえばとある友人が恋愛に溺れて、それだけならまだしもあらぬ方向にはっちゃけてしまって大変開放的な人物になり、その友人と仲の良かったはっちゃけた友人にとっての親友とも呼べる人物が愛想をつかせて絶交してしまい、ため息交じりに愚痴を聞かされて「うわあ」と思ったことがあったなぁつい最近。その両方とも親交がある自分は「まあ人生のうち一度はそういう時期もあるかもわからないからなぁ」と当たり障りのないことを言いつつ苦笑いすることしかできなかったが、まったく恋っつーか性欲っつーかリビドーっつーかなんかそこらへんのものは恐ろしいものである。

で、話は戻って恋のうただ。しかも二行。いったい二行で何を書けばいいのか。多く愛を語るには言葉が足りず、短く紡ぐのは困難を極める。それもただの愛ならいいが恋愛だ。恋愛かー。とりあえず詩集を参考にしようにも、うちにある詩集って大槻ケンヂの歌詞集と町田康の詩集と萩原朔太郎の詩集だけなんだよなぁ。あ、あと和訳されたブラウニングの詩集もあるけどあれは訳し方があんま好きじゃないからほとんど読んでない。

で、オーケンの詩っていうと、恋愛のそれはだいたいヒロインが死んだり、最初から死んでたり、ゾンビになって蘇ってハッピーエンドだったり、もしくは死にそうだったり、死なないけどどうせこの恋も終わるよねと言い切ってたりとなんかそんなんばっかだ。対して自分はというと、そこまで恋愛に悲観的ではないしこの世の愛を信じていないわけではないし、どっちかっつーとお気楽なポジティブ人間であることを自負しているけれど、いかんせん経験値が乏しいって言っても詩だったらむしろ想像と妄想の夢のかたまりの方がいいかなぁ。でもまずあんま夢見てねぇからなぁ。

そういうわけでたった二行であるというのにまったく筆が進んでいない。いっそ「月が綺麗ですね」「あなたのためなら死んでもいい」の二行ですませてやろうかと思うくらいだ。つってもなぁ。流石にこいつはなぁ。うーん、迷うものだ。


2009年4月26日 (日) 緑茶カウント:4杯
前回の話の続きだが、自分はそもそも潔癖症気味人間だと思う。二十歳を超えているくせに未だに猥談は受け付けないし、下ネタもコロコロコミックレベルのものでないと応じることができない。同時にそれを恥じてもいるし、その一方でそいつはもうしょうがないものだと諦めてさえいる。

数日前の日記で書いた、自転車屋で出会った友人の話だが、その人物とさえそのへんのことを理由として今は距離を置いている。あんなに好きだったのになぁ。今でも好きだと思う気持ちは変わらない。ただ、自分の中の病的な部分はその人物と接触することを拒んでいる。関係を修復するのにどのくらいの時間が必要になるのか、自分でもわからない。

中学の頃性教育の授業があった。自分は授業以外の性的なものに対して全く触れない人間で、愛し合う男女は同じ布団で寝ることで妊娠するという婉曲的表現をそのまま受け入れていた。そのままっつーか想像も含まれてたけど。ぶっちゃけ、中二まで自分は同じ布団で男女が寝てさえいれば、テレパシーみたいな感じで睾丸で作られた精子が女性の子宮に到達するものだろうと思い込んでいた。なんか擬音で表現するとウィーンって感じで。男性の腹のあたりから、肌をすり抜けて空気を飛んで、女性の肌をすり抜けて卵子と合体すると思ってたんだよね。

そして何故愛し合う男女に限定されているかというと、やっぱ愛し合っていない男女が一緒の布団で寝たところで何も起こらないだろう、そういうのは心が通じ合ってこそだという、奇跡を信じるような、愛が無ければ為しえないものだと信じ込んでいた。

流石に現在はそんなことを信じてはいないし、正しい性知識を持っているから性行為に愛とかそんなもんが必ずしも必要でないことは知ってはいる。ただ、そういった現実を直視するのが遅かったなぁとも思う。早ければいいってもんじゃないが、遅すぎるのも困りものだ。

また、何でわざわざこんなことを日記で書くかっつーと、こいつを書くことである程度自分の中身が整理され、楽になると同時に、自分と似たような人間がどっかにいないかなぁという気持ちをどこかで満足させることができるからだ。例え名乗り出る人がいなくても、公表することでどっかで共感してくれる人がいるのではないかと思うだけで救われる。だってみっともねーもんよー。やだやだ。やだやだ。


2009年4月27日 (月) 緑茶カウント:2杯
うおおおおおおおおおおおお!! 驚いた! びっくりした! こんなまさか!
四年近く、好きなバンドの好きなアルバムに収録されている歌詞の一節を聞き間違えていた!! なんてこった。

正しい歌詞「桃子は生と死の境でつぶやいた あの世は花咲き乱れてる園よ」
勘違い歌詞「桃子は引越しのサカイでつぶやいた あの世は花咲き乱れてる園よ」

筋肉少女帯の「レティクル座妄想」収録の「レティクル座の花園」より。…な、なんで気がつかなかったんだ。いや、おかしいとは思ってたよ。何で飛び降り自殺して死にかけている少女の歌に引越しのサカイが出てくるんだって。けど、直後に「モルヒネの麻酔のまぼろしさ それでなきゃきっとうわごと」と続くから、引越しのサカイの登場もモルヒネのせいならしょうがないよなって納得してしまったのだ。…ああ…。

以前にも似たような聞き間違いをしたことがある。これは「月光蟲」収録の「夜歩くプラネタリウム人間」からだ。

正しい歌詞「サルガッソー海に船を浮かべ 水族館になりたいららら」
勘違い歌詞「猿が爽快に船を浮かべ 水族館になりたいららら」

すっげー爽やかな顔で舵漕ぎする猿を想像してた。これも何でいきなり猿が出てくるんだとは思っていたが、他に「俺の罪」や「おサル音頭」という猿が出てくる歌があったため、「オーケンは猿が好きなんだな」と納得してしまっていた。なんてこった。

この二つ以外にもそこまで破壊力は無いもののいくつか聞き間違えていたことに気付いて驚いた歌詞があったが今はパッと出てこない。普通気付いても良さそうだけど、ついついオーケンの作る歌だと突飛なものが出てきても受け入れてしまうんだよなぁ。しかしそれにしても引越しのサカイって。確かにあの陽気さと派手さと騒々しさを併せ持つ二人組みは花園に似つかわしいかもしれないが。なんてこった。


2009年4月28日 (火) 緑茶カウント:3杯
本屋でこんな本を見かけた。世界中の蝶を五百種類集めたオールカラーの写真図鑑だ。ページをめくると一ページに一頭ずつ大きな写真を載せて解説している。少々写真の質がよろしくないが、しかし、これはなかなか。

ただ予想通りのことだが結構高い。千円までならポンと出すことができるが、それ以上はつらい。だが欲しい。うーん、どうしようかな。他にもあれやらそれやら欲しい図鑑があるし、無論図鑑にばかり金を使うわけにもいかないしな。悩む。すごく悩む。

こういうとき、思う様欲しいだけの図鑑を好きに買い込める財力があればと思うが、でも実際そんなに自由に買えるだけの金があったらつまらないんだろうなぁ。やっぱ欲しい、買えない、でも欲しい、よーし頑張って買うやった手に入れたー!! っていう過程を踏まえるからこそ楽しいのだ。障害を乗り越える喜びってのは大きい。

とはいえあまり障害が大きくても困りもので、いやそんな言うほどでかくもないけど、もうちょっと壁の高さが低ければなあと思ってしまうのであった。


2009年4月29日 (水) 緑茶カウント:2杯
愛が試されている。

好きなバンドのベストアルバムのジャケットイラストが、大嫌いな漫画家の描いたものだった。

愛が試されている。思わずCDを手にしたままその場に立ち竦んでしまった。これは…なんだ…愛とも憎しみともつかないこの感情は…。

ちなみに筋少のアルバムではない。筋少のアルバムといえば、筋少のベストは「大○○」と名づけられることが多く、このネーミングがすごく好きだ。筋少の大車輪、大水銀、大海賊、大公式。特に大水銀がかっこいい。大海賊も自ら海賊版を出してしまおうという発想が面白い。この調子で次に「大吟醸」が来ないだろうか。筋少の大吟醸。結構かっこいいと思う。


2009年4月30日 (木) 緑茶カウント:4杯
話としての面白さと、小説としての面白さってのは別物なんだということに最近気がついた。あー、これですとんと来たぞ。さして量は無いとはいえ今まで読んできた本の中に、「面白いけどつまらない」「面白いけどすごくたるい」「話の筋さえわかればいいからいっそ箇条書きにしてほしい」というものがあった。話の内容そのものには興味はあるものの、退屈でたまらず、ページをめくる時のわくわく感が一切なく、ページを進めることが作業になってしまうのだ。

反対に面白い小説の場合は、物語の先が気になりつつも残りページが少なくなることを惜しく感じ、先へ先へと逸る気持ちを抑えることがすごく困難なのだ。先の内容が知りたいためつい目は段落の終わりの方に飛びそうになるが、先に知ってしまってはもったいないので見ないように見ないようにと念じながらじっくりと一行一行読んでいく。それでもつい大事な「結果」を引き付けられるように目にしてしまうことがある。あっと気付いたときにはもう遅い。

たまに、ちょっと読むだけのつもりがのめりこむあまりに止まらなくなり、一気に最後まで読んでしまうということがある。これが布団の上ならいいが、ヘミングウェイの「老人と海」を読んだときは場所が風呂場だったので不味かった。我が家は基本シャワーなのだが、その日は湯船に湯を張ったのでのんびりと寛ごうかと思い老人と海の文庫本を持ち込んだのだが、老人と魚のバトルに魅せられどうにも止まらなくなり結局最後まで読んでしまった。追い炊き機能が無いので無論湯はとっくに冷めていて、しかも時期が確か冬。あの時風邪を引かなかったのは運が良かったとしか言えないだろう。




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